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「人を人として見る」とは、こういうことか!

「人をよく見る」と言っても、自分の都合で人を評価していないか? 

人を観察するのが好きである。その人ならではの個性がわかると嬉しくなる。そんな「人を見る」という行為の起点が、実はとても自分本意な意識からあったのではないか。そんな気づきを得られたのが、本書『「わかりあえない」を越える』である。 

著者のマーシャル・B・ローゼンバーグは、紛争解決の専門家だ。その対象は世界中に及び、各地の紛争地帯を訪れてその解決を手助けする。国家間の紛争もあれば、部族や宗教による対立、あるいは地域のコミュニティ内の対立などその活動範囲は広い。

そんな紛争解決の専門家が示すコミュニケーション手法とは何か?正直にいうと、最初は僕には自分には関係ない本だと思った。幸か不幸か、紛争と呼ばれるような大事に巻き込まれたこともないし、大きな対立や断絶を抱えているわけではない。日々の意見の違いはあるけど、それとて「紛争」解決の手段に頼るほどではない。おまけに原著のタイトルである「Speak Peace」も、平和ボケしている自分には程遠い言葉かなと響かなかった。

だが本書を手に取ると、予想を裏切られる言葉が続く。「相手を理解する」という話から始まるのかと思っていたら、逆で「自分の内面で何が息づいているか?」という問いから始まる。ということは「わかりあえない相手」と付き合いには、まず自分を変えるべきだと言うことか? 読み進めるとそれでもない。まずは自分自身と「わかり合う」ということから始める。それが本書の特徴なのだ。

自分との付き合いは誰しも長い。時に思うように動かないこともあるが、折り合いはつけてきた。しかし、そんな自分の「内面」ときちんと向き合ったことがあったか? そう問われると自信がなくなってくる。しかも本書では自分の感情だけでなく、その元になっている自分の「満たされていないニーズ」を見ること。そしてそんなニーズを抱えた自分と共感することの重要さを解くのだ。

紛争や対立を解決する専門家の本が、「自分の内面と共感すること」を前面に掲げてきたことに面食らった。しかし、読み進めるとそこが著者の真骨頂であることがわかってくる。 

著者は、「わかりあえない相手」に対して、まずは観察し、相手の感情を理解し、そしてその裏側にある満たされないニーズを知ること、それをコミュニケーションの前提に置くのだ。そこには、相手を評価も判断しない。つまり決めつけない。「この人は、支配したがる人だ」とレッテルを貼っているのは、そこに「評価」を加えている。「あの人はいい人だ」という褒め言葉でさえ、そこに評価が入っているのでN Gだという。 

評価せずに相手の行動を観察する。この単純なことが、やってみようと思うといかに難しいか。逆にいうと、僕らは無数の評価を下して人を見ていたことに気づく。観察から知るべきは、相手の人柄ではなく、相手の感情であり、満たされないニーズである。

本書では、著者のローゼンバーグが、殺人犯の街のギャングのリーダーや、レイプ犯の犯人に対しても、彼のニーズを知ろうとする。それは、ニーズにはそれぞれの個性による相違点ではなく、同じ人間としての共通点があるからだという。誰だって安心して暮らしたい。寂しいのは辛いし、誰かに見守ってもらいたいし、人として尊重されたい。こういうニーズを満たしたいと思い人は行動するものだ。そこには、それぞれの違いではなく、人としての同じ思いがあり、それに共感することから対話が始まると言うのだ。 

僕らは「人をよく見る」と言った場合、相手の個性を見ることを意味しがちだ。相手にどんな個性があり、どんな人なのか。ビジネス上であれば、どんな強みを持つ人なのかを「見る」ことも多く、いずれにしろ相手の特性を知ろうとするのだが、本書でいう「相手の観察」は次元がさらに深い。相手の行動や言動から、個々に抱えている感情を見て、さらに、その人が根源的に人として抱えるニーズを探ろうとするのだ。

そこには、相手を観察する目的として、「自分にとってどういう人なのか」という自分中心の見方はない。相手を同じ人間として見る。しかも自分にとっての損得から判断しようとしないのだ。 

本書をと読むと「相手はどういう人なのか?」という従来の自分の見方が、いかに矮小化したものだったのかがわかる。そこには、無意識のうちに人を自分の「何に役立つか」を考えいたのではないか。本書でも、著者は人をコントロールしようとする行為が社会の前提に深く刻み込まれている現実を嘆いている。それは政府や大企業の行動も然り。学校教育でも「社会に馴染む」つまり社会がコントロールしやすい人作りに加担しているのではないかという問題意識を提示している。

 結局、人は自分の都合のいい解釈で人を見ているのに過ぎないのだ。そんな人の見方をしていたら「わかりあえない」人とわかりあえないままなのは当たり前である。

 本書では、この「相手のニーズを理解する」ことを紹介した後、その次に「自分のリクエスト」を伝えることを奨励する。つまり「あなたにこうしてほしい」というお願いごとである。自分の感情とニーズを知り、相手への評価のない観察から相手のニーズを知る。その上で自分のリクエストを伝える。ここには、相手を都合よく動かそうとする意図もなければ、自分を抑えて対立をなくそうという発想もない。相手にも、自分にもどこまでも誠実なコミュニケーションなのである。 

Speak Peace、「平和の言葉」という大袈裟な言葉が、ありのままの相手を受け入れ、素直に自分を表明すること。こんなコミュニケーションを実践し、あるいは促すことで世界の多くの紛争解決をしてきた著者ならではの説得力がある。平和とは、誰かを悪者にすることでも、自分が我慢することでも実現しない。このコミュニケーション手法によって、人を善悪で判断するのではなく、同じ人間として、お互いの満たされないニーズを見合える関係が多くなればいい。それこそ、まさに「平和」なのではないか。


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