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戦火のアンジェリーク(12) 3.Wales ~ the UK

創作長編『戦火のアンジェリーク』第3幕部分(R15)
※史実を元にしたフィクションです。実在の人物、土地、出来事とは関係ありません。

概要

3.Wales ~ the UK

翡翠の目醒め


 一度、落ち着かせてほしい、とジェラルドが先に浴室を使い、続けてアンジュもシャワーを浴びた。温かな湯を全身に受けて、ようやく、心が落ち着きを取り戻す。
 体中が生き返ったが、彼に触れられた部分が、水圧を受ける度、一層熱く、甘くざわつく。自分の身体なのに、もう自分のものではないような気がした。何かが新しく刻まれたような、何かを遺されたような余韻が、まとう。

 髪と身体を拭いて乾かし、持って来たネグリジェに着替え、バスローブを羽織り、浴室を出る。そっ、と部屋を覗くと、パジャマ姿にバスローブを羽織ったジェラルドが、ダブルベッドの奥側にいた。布団に入り、背もたれに身体を預け、ぼんやりとしている。

「……大丈夫か?」

 気づいた彼が、労るように声をかける。先程までの燃え上がるようなたけりは、消えていた。静かな深緑のが、心配そうに見つめてくる。

「はい。だいぶ、落ち着きました」

 今夜も傍にいてくれるのだ、という安堵と嬉しさで、アンジュは頬を少し緩めて、微笑み返す。先程と同じ部屋の同じ空間なのに、また別の、ほのかに甘く、温かな緊張感が、互いの間を漂う。

「……じゃあ、休むか」
「はい」

 気恥ずかしそうに視線を反らし、黙ったままジェラルドは彼女に背中を向け、布団を被り横になった。そんな彼の隣に、おずおず、と潜り込んだアンジュは、改めて礼を言う。

「……ジェラルドさん、ありがとうございます」
「気にしなくて良い。……しばらく、何も考えずゆっくり休め」

 『』という言葉が、アンジュの心に満ちていく。誰よりも好きな人が、自分のすぐ近くにいて、優しく気遣ってくれる。

「はい。それで……あの……」
「何だ?」

 そんな彼女に対し、もどかしい照れ臭さを感じたジェラルドは、少し苛立ちを含ませて、ぶっきらぼうに返した。

「こんな時に、なんですけど…… 何だか、嬉しい……みたい。誰かと一緒に、眠った事ないから」
「…………!!」

 はっ、と覚醒する。思わず、顔をアンジュの方に向けた。彼も同じだった。しかし……

「人の体温と眠るって……こんなに、心地好いんですね……」

 目元を細め、幼子のように無邪気に、嬉しそうに微笑む。そんな彼女を見た瞬間、ジェラルドは、また顔の熱が上がった気がした。頭を抱え、さっきまでの自分を殴りたくなる。
 快楽や淫靡いんびな欲もともなう性的な行為を、純粋な愛情表現スキンシップとしか捉えていないような彼女に、何て事をしたのだ……と思った。

 ぐるっ、と反転して寝返りをうち、驚くアンジュを、すぐ傍まで抱き寄せる。

「……まだ、怖いか?」
「いえ、だいぶ、怖くなくなり……ました。ですが……」

 今度は、アンジュの方が、妙に狼狽うろたえ始めている。

「何だか、ふわふわして……落ち……着かなく、なりました」

 目の前に若葉色に透ける瞳がある。まだ熱が冷め切っていない身体に、新しい温もり、彼の固い胸元と腕の感触が、じわじわ、と再び沁みていく。互いを見つめ合ううち、二人の間に流れる朧気おぼろげな甘い残り香が、段々とつやを帯び、濃さが増していくのがわかった。
 まずい、とジェラルドは危惧し、焦って自身を制する。

「……俺も、落ち着かない。だから、もう……何も言わないでくれ…… 早く眠ろう」
「は……はい、すみません……」
「いや、謝る事ではないが……」

 詫びなければいけない事ではない。むしろ、初めて感じる類いの喜びが、彼の胸の奥にも、熱く湧いている。だが、今は、ではないのだ。


 翌日の昼前。小窓から差し込む淡い陽射しが照らす中、二人は少し遅い朝食を、揃って小さなテーブルで向かい合って食べた。固めのパンと卵と野菜入りスープという質素なメニューだったが、『今までで一番穏やかで、美味しい朝食だ』と、控えめにスープをすする音しか響かない静寂の中で、共に感じていた。

 今朝、先に目覚めたのは、ジェラルドだった。いつもと違う質感の寝具と、慣れない雰囲気に違和感を覚え、不審な思いで眼球を回した瞬間、驚きと動揺で、らしくなく大声を上げそうになった。
 ……天使、いや、がいたからだ。蜂蜜色の長くゆるやかな巻き髪にマシュマロのような肌。未だあどけなさの否めない面立おもだちの、純白のネグリジェに身を包んだ少女が、遠慮がちに隣に寄り添い、ささやくような寝息をたてている。
 昨夜の彼女へのを思い出し、一気に顔が熱くなった。が、そっ……と手を伸ばし、糖蜜のように透ける髪を、指ですくう。目の前の天使アンジュが、実在する本物か、確認したかった。
 羽根フェザーのように柔らかな感触。ラズベリー色の唇からは、湿度を帯びた吐息が微かに漏れている。安心しきった幼子のような寝顔……まばたきした次の刹那には、年頃の女らしいつやが、プリズムのように煌めき、垣間見る。

 ――が、ここに、いる。

 そう認識できた瞬間、空しい幻影の世界から、ようやく醒めた気がした。それも、哀しみや落胆を伴うものではなく、安堵と歓喜が変わらず存在する目覚めだ。
 信じられない位に目映まばゆ光明こうみょう…… 長い間、いだくことすら辛く、考えもしなかったを、真正面から、彼は全身に浴びた。


「……アンジュ」
「はい」

 そんな至福の光景を思い出しながら、食後の紅茶を飲んでいたジェラルドが、改まった声色と素振りで切り出した。

「これからの事、だが……」

 ぴっ、と背筋が伸びる。自分が置かれている現状を思い出し、アンジュは気を引き締めた。

「……スコットさんの親友というグレアムさんに、君のことを話そうと思う。が……ただの連れと言うのは、状況的に無理があるだろう。とはいえ、その……伴侶はんりょとも言えない」

 淀みながらも真剣な表情で語る彼に、今から言われることを何となく察し、アンジュは神妙な面持ちで頷く。

「友人、恋人というのが適切だろうが、このような形で、共に避難してきたとなると……」

 この場に相応しい言葉をずっと探していたジェラルドだったが、覚悟を決めたように顔を正面に向けた。アンジュの揺れる両のを捕らえ、しっかりと見つめる。

「……はっきり言おう。俺は、いい加減な気持ちで、君をここまで連れて来た訳じゃない」

 未知の甘やかな喜びが、アンジュの心臓を、ぎゅっ、と絞った。

「初めは償いのつもりだった。が……君さえ良ければ、共に生きていく未来を、前向きに考えて、いきたい……」
「ジェラルドさん……」

 男女関係の知識に乏しいアンジュでも、それがプロポーズに近い発言だとわかった。しかし、嬉しさ反面、どこか他人事で素通りしていく。何かの舞台のシーンを、目の前で再現されているような感覚。耳慣れない言葉の数々を、どう受け止めていいのか分からず、戸惑う。
 そんな彼女の複雑な心境には気づかず、ジェラルドは続ける。

「ただ……共に逃げて来た……周りから見れば、身分違いの駆け落ちのようなものだ。グレアムさんはともかく、町には色んな人間がいる。好意的な視線ばかりではないだろう……君を悪い立場にしたくない」
「構いません。平気と言えば、嘘になりますけど……そんなのは昔からですし、慣れてます。覚悟の上です」

 元々、こんな風に彼といられるとすら思っていなかった。今の状況だけでも、アンジュは十分に幸せだし、一時は、身を捨てようと覚悟した位だ。恋しい人と毎日過ごせるなら、周りの目も耐えられる。

「……せめて、もう少し出自が判ればな……『アンジェリーク』は、フランス語だろう? フランス人じゃないのか?」
「判りません。預かってもらった院長の叔母がオーストラリア人だったので、父もそうだと思いますが、母は……どこの、どんな人かも……知らないんです……」

 自分は、一体どこからきたのだろう。何故、見捨てられたのだろう…… 自身の思いや存在理由すら、アンジュには認識出来ないでいる。

「……変な感じです。自分が何なのか分からない……」
「はっきり分からない、知らない方がいいこともある……と、俺は思う。俺だって、親と呼んで良いのかわからない人間の子供だ。父親は職業しか知らない」

 はっ、とジェラルドの方を見た。今更ながら、彼が抱えている痛みを思い出す。普段、人に弱みを見せない冷静沈着な彼からは、そんな背景は見えない。

「父親が、何故、身売りなどしていたのかも知らない。飢えていたのか、別の理由があったのか…… いずれにしろ、そいつの血をひいているのに変わりない」

 淡々と語るジェラルドが、アンジュには不思議だった。今までの彼なら、一番避けて、口にしたくなかった話題だ。

「犯罪まがいのことも手を出していたかもしれない。それは、君の両親もだろう……が……」

「『親が誰だろうと、どんな人間だろうと、俺は俺』なんだろ?」

「ジェラルドさん」

 彼の変わり様と自分が以前言った言葉に驚き、アンジュの瞳孔が揺れた。空虚な重い陰を落としていた、哀しい深緑のの青年の姿は、もういない。

「親が、たとえ犯罪者だろうと狂人だろうと、自分はそうならなければいい……だけだ。生きてきて少しでも目にした、大切な……美しいモノだけ忘れないよう、覚えていればいい……と思う」

 思い出の薔薇園で最後に会ったスコットの、穏やかな微笑みと清廉な強い意志が、ジェラルドの脳裏によぎった。彼に恥じる行いだけは……したくない。

「まあ……この時世、いざという時が来るかもしれないがな……」

 悲しげに自分の手を眺め、皮肉めいた口振りで、ジェラルドは呟く。いつか、自分も戦地に行かされ、この手も身体も血泥に染まるのだろうか……

 この地に敵軍が攻めて来た時、どんな惨事になるかわからない。もし、敵兵が目の前でアンジュを襲ったら、自分は、確実にその人間を殺すだろう。彼女が飢えて死にかけたら、盗みをはたらく。例え、相討ちで自分が殺されても――
 ジェラルドだけではない。大切な人がいる人間は、皆、同じ事をするだろう。自分が生きる為にするのは、もはや暗黙の了解になる。軍人も民間人も、いつ、誰が、犯罪者になるかわからない。なっても咎められない。理不尽な暴挙が、狂気が、正当化される世界に変貌する……

 遠い目をしている彼を見ているのが辛くなり、アンジュは思わず止めた。

「……どうなるか、私にもわかりません。けど……そんな風にしたくないです。貴方の手は、あの素敵なピアノを奏でる為に、あると思います……」
「俺もそうだ。だから、逃がしたかった。君の歌は、人を生かすためにある」

 あの初めてキスを交わした日以来、互いを賛辞し合っている状況に気づき、恥ずかしくなった二人は、共に頬を薄紅に染めた。咳払いをしたジェラルドが、話題を変える。

「名前と言えば…… いくら貴族とはいえ俺の名は、多分ここまでは届いていないと思うが、暫く本名は広めない方が良いと踏まえてる。まぁ、平たく言えば、偽名だが……考えたい。何が良いと思う?」
「私も、考えていいんですか?」

 頷く彼に嬉しくなり、少し考えたアンジュは、久しぶりに弾んだ声を出した。

「――『ジェイド』さん、って呼んでいいですか?」
「……!! 何、で……」

 その単語を耳にした瞬間、ジェラルドの表情がたちまち険しくなり、硬直した。

「以前、単独依頼だった宝石商のお客様が、私物の指輪を見せながら話して下さったんです。東の異国にある『翡翠ひすい』という石で、こちらの言葉では『ジェイド』と呼ばれると……」
「とても神秘的で綺麗で、貴方のの色に似ていると思ったんです…… 同じ名前の、蒼い羽根の鳥もいるんですって……あの、嫌ですか? すみません」

 瞳孔を見開き、固まってしまったジェラルドに気づき、慌てて詫びた。

「……いや、まさか、その名が出るとは、と」
「……?」
「母親と同じ色の……このが、ずっと、嫌いだった」

 息が止まった。とんでもないことを申し出て、土足で踏み込んでしまった。

「確かに、翡翠は『jade』……ジェイドというが、『浮気女』という意味もある」
「……!! すみません、私……」

 思わず口元を抑え、アンジュは思い切り頭を下げた。無知ゆえとはいえ、よりによって、彼の一番深い傷をえぐる所為をしてしまった、と真っ青になり、自責する。

「……だが」

「君が呼んでくれるなら、それも良いかもしれない」

 驚いて顔を上げたアンジュの前には、複雑そうでそれでいて、以前なら考えられない位に穏やかな表情を浮かべた、ジェラルド・グラッドストーン――『ジェイド』がいた。

嬉なる誓い


 ジェラルドの予期せぬ反応に、アンジュの方が躊躇ちゅうちょしていた。

「本当に、いいんですか? 呼んでも……」
「構わない。もう、このにも……生まれにも、囚われたくない」

 彼の口振りと眼差しには、とても強く、潔い決意が滲み出ている。自分にそんな大それた力があるとは思えない。しかし、彼がそこまで望むなら、応えたかった。

「……わかりました。ジェイド、さん」

 彼への好意を精一杯含みながら、ふわ、とはにかみ、アンジュは呼んだ。そんな様子を目にし、ジェラルドは切れ長の目元を少し細め、表情を和らげる。
 彼女の口から出た言葉は、何故か特別に彩られ、新しく聴く旋律のように、素直に響いてくる…… そんな不可思議な気持ちを改めて感じながら、続けて提案した。

「……君も、楽団でのステージネーム……『アンジェリーク』という名は広まってきている。一時的にでも、呼び名を変えた方がいいと思う」
「そう、ですね……」

 確かに、フィリップの手紙にはフランスの貴族社会にまで届いていると書いてあった。こちらの方に住む貴族は少ないだろうが、用心した方がいいのは理解できる。

「考えよう。何がいい?」
「……すみません。単語をあまり知らなくて……学が、無いんです」

 少し困惑した後、きらきら、と瞳の水面みなもに光を反射させ、願った。

「ジェラルドさんに付けて欲しいです」
「……!? 俺もそんなに洒落た言葉は……知らないぞ」
「貴方が付けてくれたのが、いいです」

 いつになく強い意気込みを見せる彼女にたじろぎ、押されたジェラルドは、シャープな眉を潜め、考えた。ふと、彼女と初めて会った夜を思い出した。晩餐会のステージで歌う姿を見た時の印象、感じたもの……
 初めてステージネームを聞いた時は、どんな女だと思った。アンジェリーク……『天使』を形容する名。相当、誇示欲の強い女だろう、と冷ややかな目で見ていた。
 実際に目の当たりにした時……確かに衣装はそれらしくて似合ってもいたが、どこか違和感があった。崇められるような神々しい出で立ちというよりは、小さく細かな白い花が、精一杯、咲いているようだと感じた。
 そう言えば、昔、スコットに見せてもらった花の中に、そんな植物があった。確かハーブの一種で、名は――

「『シスリー』」

「『シス……リー』?」
「『スイート・シスリー』、というハーブがある。細かな白い花を咲かせ、呼吸器などに効く薬草になると、スコットさんから聞いた。『アンゼリカ』も良いかと思ったが、今の名と似てるから……」

 ぽかん、として黙ってしまったアンジュが心配になり、恐る恐る、うかがいを立てる。

「……やっぱり、気に入らないか?」
「いえ。どんなものか知りませんが、花は好きなので嬉しいです。でも……」
「何だ?」
「あの、どうして、そんな綺麗な名前……」

 すると、ジェラルドは困ったように彼女から視線を反らし、口ごもった。頬がペールピンクに染まり、気まずそうに、ぼそり、と返す。

「似ている、と思ったから。君に……」

 アンジュの胸の中で、至極温かく、甘い喜びが弾けた。俯いてしまった彼の手を取り、テーブルの上で包む。同じくピーチスキンに染まった泣き出しそうな顔で、白い掌を擦り付けた。

「アンジュ」
「……シスリー、です。そう呼んでくれました」

 花開くような笑顔を、久しぶりに見せた彼女に、安堵と高揚で、ジェラルドの心が密かに高鳴る。

「じゃ、今日から、よろしく。シスリー」

 水の膜が滲むマリンブルーの瞳を見つめ、口角をぎこちなく上げた。


 宿屋を出て数時間後。夕刻の黄昏時に、ようやっと、二人はグレアム夫妻の家にたどり着いた。質素だが、どこか温かみを感じる小ぶりの一軒家だ。
 いきなり、こんな時間に訪ねては迷惑だろうとはばかられた。が、今夜も宿屋をとれるかわからない今、多少の無礼はやむを得ないと、思い切った二人は、呼び鈴を控えめに鳴らす。

「はい…… あの、どちら様で……?」

 玄関の扉を開け、出迎えた老婦人は、明らかに見慣れない風貌の若い男女に対し、怪訝そうに尋ねた。

「夜分遅くに、大変失礼致します。そちらのご主人のご友人からの紹介で参りました。……ジェラルド・グラッドストーンと申します」

 なるべく礼儀良く自己紹介した後、丁寧に頭を下げたジェラルドと、隣で同じようにお辞儀する少女を見て、婦人は何かを察したような表情をした。グレアムづてに、何か聞いていたのだろうか。

「……主人は、間もなく戻りますので、中にどうぞ」

 明らかに動揺を抑えながらも、二人を室内に招き入れ、温かい紅茶を用意してくれた彼女に、二人は心底救われた思いだった。


 暫くして帰って来た主人らしき年配の男は、アンジュ達二人を見るなり、やはり驚いた素振りを見せた。しかし、ジェラルドが素性を名乗り、スコットの名前を出すと、納得したように話を聞いてくれた。

「あいつとは昔なじみでね。あんたの事は、手紙で時々聞いてたよ。けど、まさか女連れで避難してきたとはなぁ」

 からかい混じりに、ははっ、とグレアムは豪快に笑った。恰幅かっぷくの良い風貌に陽気な言動。スコットとは異なるタイプの人間だが、人の良さ、気の優しさが垣間見える彼に、ジェラルドは懐かしさを感じた。

「てっきり、来る時は一緒だと思ったけどねぇ……元気か? あいつは」
「……あの庭園を離れられない、と言って、私だけ逃がしてくれました。説得出来なくて申し訳ありません」

 最後に見たスコットの姿を思い出し、ジェラルドは俯く。そんな経緯があったのかと、アンジュは切なくなった。

「……あいつは、昔から変なところで頑固だからなぁ。あんたのせいじゃねぇよ」
「いえ。いきなり、押し掛ける形になって、本当に申し訳ありません」
「気にすんな。暮らしが落ち着くまで、暫くウチに居たらいい。狭い家で悪いがね」
「嫁いだ娘が、昔使っていた部屋があります。そちらを整えますので、どうぞ。お二人では窮屈でしょうが……」
「とんでもないです。ありがたいです。お世話になります」

 揃って頭を下げたアンジュ達二人に微笑みかけた後、グレアムとは対照的に、物静かだがしっかりとした雰囲気の夫人が、部屋を整頓しに行ってくれた。
 そんな夫婦が、アンジュとジェラルドには非常に眩しく、羨望……憧れのような思いをいだいた。


 その夜。二人はグレアム夫妻の娘が使っていたという部屋の、シングルベッドを半分に分けて床についていた。とは言うもの、一人用のベッドだ。成年二人が使うには狭い。身体が密着状態で布団をかぶっている。
 アンジュはジェラルドと触れながら眠れるという状況に、至福の思いでいたが、彼の方は理性と睡魔の両方と、必死に戦っていた。

「素敵なご夫婦ですね」

 そんな彼の葛藤を知るはずもなく、アンジュはグレアム夫妻を思い出し、感慨深く、呟く。明日から暫く、ジェラルドは、グレアムの協力を得ながら職探し、アンジュは世話になる礼として、夫人の手伝いをすることになった。
 グレアムは数年前まで、炭鉱夫としてウェールズの鉱山まで行き、働いていたらしい。夫人は彼の留守の間、内職やレストランで働きながら、家計を支えていた。
 高齢になり、グレアムが炭鉱夫を引退してからは、二人で内職や畑仕事、貯蓄を切り崩しながら、隠居暮らしをしているという。裕福とはいえないが、そんな風に仲睦まじく、二人三脚で生きてきた二人が、アンジュにはとても眩しく、尊敬した。

「……どうしたら、あんな風になれるんでしょうね。なれるかしら……」

 うつらうつら、と微睡まどろみながら、まるで自分達二人の未来を夢見るように呟く彼女が、ジェラルドにはいとおしく、切なかった。
 一刻も早く仕事を見つけ、住まいを探し、二人で暮らしたいという、希望に満ちた思いに駆られる。

「……暫く、本名を名乗れない事情も理解してくれた。本当に感謝しても、しきれないな……」

 頷くアンジュに、改まった声色で呼ぶ。

「シスリー」

 はっ、と彼の顔を見る。翡翠色に艶めく瞳には、確固たる光があった。

「いつまで続くかわからないが、なるべく早く……暮らしを落ち着かせよう」
「……はい。ジェイド、さん。頑張りましょう」

 喜びと希望に溢れる思いを含みながら微笑み返し、誓い合うように、二人はきつく抱き合った。


 数日後の昼過ぎ。アンジュはグレアム夫人と共に、市場に買い物に出かけた。ついでに、町に住む知人を紹介してくれるということだった。
 三人の女性達に囲まれ、緊張する。ロンドンで出会った楽団や客層とは違う、素朴で家庭的な風貌の婦人ばかりだ。

「シスリー、と呼んで下さい。よろしくお願いします」

 グレアム夫人から紹介され、丁寧に頭を下げて挨拶する。そんなアンジュに、少し年長の女性が開口一番、問いかけた。

「あんた、グレアムさんの知り合いっていうけど…… ロンドンから避難で来たって……本当なの?」
「はい。そうです…… お世話になります」

 新参者が気になるのはわかるが、どことなく並々ならぬ緊迫感が漂う彼女達に、アンジュは戸惑う。

「ああ、悪いね。……いや、ね。ドイツ軍が英国にも攻撃……侵略が始まるってことで、ロンドン近郊の……『J』が、こっちに逃げてくるんじゃないかって、皆、ちょっと警戒してるんだよ」

 『J』――今時世のユダヤ人の隠語だ。こんな平穏そうな町にまで、開戦の影響が伝わっているという状況におののき、固まった。

「逃亡の手助けしただけでも、バレたら秘密警察ゲシュタポに捕まって、まとめて収容所行きだそうじゃない?」
「ね……親戚や友達でも躊躇ためらうってのに、見ず知らずのあんた達じゃ……」
「……私は、オーストラリア人で、就労移民です。一緒に来た彼は、カトリック系のイギリスの方です」

 ここで尻込みしてはいけない、とアンジュはなるべく動揺を抑え、冷静に、丁寧に説明する。嘘ではないが、複雑な思いだ。ユダヤ人というだけで、そんな風に言われる時世。

 ――もしかしたら、自分もかもしれないのに……

 先日、ジェラルドと話した事を思い出す。母親はどこの誰かわからない。現在、国家的に敵対している、ドイツやイタリアの血が混じっている可能性だって……あるのだ。

「南半球から来たの!? すごいわね。彼は元貴族なんだってね。どんな人なの!?」

 そんなアンジュに、別の若い女性が無邪気に驚いたような声をあげる。戸惑う彼女に代わり、グレアム夫人が静かに返した。

「真面目そうで礼儀正しくて、素敵な方ですよ。ちょっと無愛想だけど。羨ましいわ」

 彼女も自らジェラルドと話して、これまでの事情を聞いてくれたようだった。

「へぇ、そうなの!? あんたも、まぁ可愛らしいけど……やるわねぇ。貴族のお嬢様達なんて、美女ばかりでしょ? よく捕まえたわね。」

 アンジュと同じ年頃の、この活発な女性は、興味津々な眼差しを変わらず向けてくる。

「……あ、ありがとうございます」

 歌以外を褒められ慣れていないアンジュは、まごつきながら礼を返した。しかも、自身の事ではないのに、彼を良く言われるのは何故か嬉しい……という初めて感じる気持ちだ。
 そんな彼女に、先程、懸念の声を共にこぼした、夫と二人の子供がいるという別の女性が提案する。

「じゃあさ、式は、いつ挙げるんだい? あたしらで良ければ、準備手伝うよ」
「式……?」

 アンジュは呆然とした。確かに、彼と思いを通じ、未来までを想定はし合ったが、この先の具体的な予定までは考えていなかった。

「やだ、結婚式に決まってるじゃないか。あんた達、夫婦になりたいから駆け落ちしたんだろ?」
「え、まだ、何も決めてないの?」

 信じられない、と続けて言いたげな二人を、グレアム夫人は穏やかにたしなめる。

「少しばかり訳ありみたいだし、ご時世的にもすぐには無理ですよ。まずは生活を整えられるよう、私達で協力してあげましょう」

 夫人の助け船のお陰で、その場はおさまったが、アンジュは思いがけない周りの目に動揺していた。大好きな人に新しい呼び名をもらって、頑張れば、ずっと一緒に暮らせるかもしれない。それだけで満ち足りていた。
 これ以上、何かを求めたら天罰が下るような、今の幸せも全て壊れてしまうような……恐怖にも近い思い。自分には分不相応という以上に、手にする事すら想像出来ないのだった。


↓次話


 #創作大賞2023 

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