命売ります
・三島由紀夫さんの「命売ります」を読み終わった。
読み終わって、面白かったところと分からなかったところなどを裸になって書こうと思う。
この小説は、一人の若い男性が自殺をしようとして、偶然人に命を助けられるところから始まる。
どうせ一度は無いと思った命、いっそ誰かに買ってもらおうと「命売ります」の新聞広告を出す。命がけの依頼を受けていくうちに、命を狙われるようになり、その後、主人公の命に対する見方が変わっていく…という話だった。
・主人公が死のうと決意するシーン。
この後でも、主人公は時折死にたくなる原因について話すのだが、それは要するに、端的に言えば、世俗のことがくだらないものだという虚しさなのだと思う。
最初読んだときは、「主人公は統失なのか」と思った。
私は統失だが、ゴキブリが壁や地面を這っている幻視をよく見る。
統失の症状なのか分からないが、世の中という漠然とした概念にストンと“納得”のようなものを得ることがある。
それは寝不足の時に生じる“デジャブ感”と似ている。脳が感動する程に生や死や世の中に関して、“納得”するのだ。
そしてその納得が、「よし死のう」という決意へと導く。
そう考えると、人間誰しも(統合が失調していなくても)、この納得を得たら死にたくなるものなのだと思う。
・主人公は様々な依頼を受けるが偶然が重なって命拾いをする。
そして手元に大金が残り、依頼を受けるのをやめ、安寧な暮らしをすることにする。
一軒の家を借り、そこで家主と話すシーンがある。
死に急いだ主人公が、命を惜しむようになる転換点となるようなシーンである。
この老人たちも苦労が無い訳ではない。この夫婦の娘は30にもなるのに悪い友人とつるみ、LSDを乱用してラりり、「自分はもうすぐ梅毒に犯されてキチガイになるんだ」と思い込んでいる。
苦笑いするほど同情するような状況だ。
それでも、この描写はそれを覆ってしまうほど慈しみに溢れている。
私はこういう描写にめっぽう弱い。
・主人公は上のLSDを乱用する女性と肉体関係になる。(というかこの主人公滅茶苦茶モテて、あらゆる女性と数行で交尾する)
そのシーンがあまりに美しかった。
1950年代辺りの作家に多い気がするのだが、この時代の女体に対する崇拝的な姿勢は、どこまでも美しい文章を紡ぎ出している。
この文章が、「小鳥のような血があった」でしめられているのも悔しい。
LSDを乱用するキチガイめいた女性がまぎれもなく少女性を持っていたのだ。
・主人公は安寧の生活を求めるようになっていたのだが、それとは裏腹に命を狙われるようになる。そして逃げ回るうちにこんなことを考えるシーンがある。
この部分を読んだとき、三島さんはなんて上手いんだろうかと思った。
人間はある程度の試練に遭うとき、自分は世界で最も“理解している”と勘違いする事がある。
それが慎重に、そして絶妙に描かれている。
理解、もしくは不幸という認識は、実にお手軽で、卑しいものなのかもしれない。
三島さんの小説は、今回が初だ。
私は哲学や思想は私は全く得意ではないけれども、これはとても読みやすかった。
そして何より文章が美しかった。
月並みな感想だけれども、素晴らしいエンタメ作品だった。
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