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命売ります

・三島由紀夫さんの「命売ります」を読み終わった。
読み終わって、面白かったところと分からなかったところなどを裸になって書こうと思う。

……羽仁男は、目をさまして、周りがひどく明るいので、天国にいるかと思った

命売ります 三島由紀夫

この小説は、一人の若い男性が自殺をしようとして、偶然人に命を助けられるところから始まる。
どうせ一度は無いと思った命、いっそ誰かに買ってもらおうと「命売ります」の新聞広告を出す。命がけの依頼を受けていくうちに、命を狙われるようになり、その後、主人公の命に対する見方が変わっていく…という話だった。
 
 
・主人公が死のうと決意するシーン。

そうだ。考えてみれば、あれが自殺の原因だった。
実に無精な恰好で夕刊を読んでいたので、内側のページがズルズルとテーブルの下へ落ちてしまった。(中略)
とにかく彼は、不安定な小さなテーブルの下へかがんで、手を伸ばした。
そのとき、とんでもないものを見てしまったのだ。
落ちた新聞紙の上で、ゴキブリがじっとしている。そして彼が手をのばすと同時に、そのつやつやとしたマホガニー色の虫が、すごい勢いで逃げ出して、新聞の、活字の間に紛れ込んでしまったのだ。
彼はそれでもようよう新聞紙を拾い上げ、さっき読んでいたページをテーブルに置いて、拾ったページへ目を通した。すると読もうとする活字がみんなゴキブリになってしまう。読もうとすると、その活字が、いやにテラテラした赤黒い背中を見せて逃げてしまう。
「ああ、世の中はこんな仕組みになってるんだな」
それが突然わかった。分かったから、むしょうに死にたくなってしまったのである。

この後でも、主人公は時折死にたくなる原因について話すのだが、それは要するに、端的に言えば、世俗のことがくだらないものだという虚しさなのだと思う。
最初読んだときは、「主人公は統失なのか」と思った。
私は統失だが、ゴキブリが壁や地面を這っている幻視をよく見る。
統失の症状なのか分からないが、世の中という漠然とした概念にストンと“納得”のようなものを得ることがある。
それは寝不足の時に生じる“デジャブ感”と似ている。脳が感動する程に生や死や世の中に関して、“納得”するのだ。
そしてその納得が、「よし死のう」という決意へと導く。
そう考えると、人間誰しも(統合が失調していなくても)、この納得を得たら死にたくなるものなのだと思う。
 
 
・主人公は様々な依頼を受けるが偶然が重なって命拾いをする。
そして手元に大金が残り、依頼を受けるのをやめ、安寧な暮らしをすることにする。
 
一軒の家を借り、そこで家主と話すシーンがある。

羽仁男は、素直な会釈を返した。自分は精魂をつくして死に急いだ。しかし、ここには決して死に急がない一組の夫婦がいる。庭にはどこからか散り込んできた桜の花びらが風に流れ、部屋の中にはひんやりした昼の闇と、老人の白い手がめくる唐詩選に頁がある。この人たちは、静かに、編物をして、やがて来る冬にそなえてスウェーターを編むように、ゆっくりと時間をかけて、自分たちの死を編んでいる。

死に急いだ主人公が、命を惜しむようになる転換点となるようなシーンである。
この老人たちも苦労が無い訳ではない。この夫婦の娘は30にもなるのに悪い友人とつるみ、LSDを乱用してラりり、「自分はもうすぐ梅毒に犯されてキチガイになるんだ」と思い込んでいる。
苦笑いするほど同情するような状況だ。
それでも、この描写はそれを覆ってしまうほど慈しみに溢れている。
私はこういう描写にめっぽう弱い。 
 
 
・主人公は上のLSDを乱用する女性と肉体関係になる。(というかこの主人公滅茶苦茶モテて、あらゆる女性と数行で交尾する)
そのシーンがあまりに美しかった。

着ているものを脱いだ玲子が、澄んだ感じの美しい体をしているのに、羽仁男はおどろいた。薬に荒れていると思われた肌は、そんな気配もなく、なめらかな肌が、暗い灯火の下に、継目もなく不安な孤独な魂を隈なく包んでいた。 乳房は健康そうに、まるでゆったりとした古墳のような形に盛り上っていたので、玲子の裸の印象は、何だかアルカイックな感じがした。 腰のくびれまでが、ちょっと様式的な誇張を帯びながら、薄闇の中にうかんでいる白い腹は、あくまでもなごやかに豊かに湛えられていた。羽仁男の指が及ぶいたるところから、漣のような顫動が彼女の全身に伝わった。物を言わない玲子は、見捨てられた哀れな子供のようだ、と羽仁男は思った。
しかし、いざというとき、玲子の眉の間に、あたかも彫金のように深く刻まれた苦痛を見て、羽仁男はまさかと思っていた気持をくつがえされた。事の後のシーツには小鳥のような血があった。

1950年代辺りの作家に多い気がするのだが、この時代の女体に対する崇拝的な姿勢は、どこまでも美しい文章を紡ぎ出している。
この文章が、「小鳥のような血があった」でしめられているのも悔しい。
LSDを乱用するキチガイめいた女性がまぎれもなく少女性を持っていたのだ。
 
 
・主人公は安寧の生活を求めるようになっていたのだが、それとは裏腹に命を狙われるようになる。そして逃げ回るうちにこんなことを考えるシーンがある。

夏ものの紳士服、シャツ、それから冷蔵庫、スダレ、団扇、冷房装置、すべてが来るべき夏に向って、まだ梅雨にも入らない現在の季節を置き去りにしてた。無数の商品が、それらの持ち込まれる小さな家々、小さな家族を暗示していた。
彼はそれを思うと息が詰りそうな気がした。どうして人々は そんなに生きたいのだろう?死の危険にもさらされていない人間が生きたいなどと感じるのは不自然な感情ではないだろうか。生きたいと思ってふしぎがないのは自分のような人間だけの筈だった。

この部分を読んだとき、三島さんはなんて上手いんだろうかと思った。
人間はある程度の試練に遭うとき、自分は世界で最も“理解している”と勘違いする事がある。
それが慎重に、そして絶妙に描かれている。
理解、もしくは不幸という認識は、実にお手軽で、卑しいものなのかもしれない。
 
 
三島さんの小説は、今回が初だ。
私は哲学や思想は私は全く得意ではないけれども、これはとても読みやすかった。
そして何より文章が美しかった。
月並みな感想だけれども、素晴らしいエンタメ作品だった。

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