高校生の頃に比べると、出力30%くらい。

『東大合格生のノートは必ずうつくしい』みたいなタイトルの本が、高1くらいの頃に出て母親が買ってきたのを思い出します。いつの時代も、勉学指南書といえば、”東大”の枕詞はつきもののようです。
真に受けた私は以後大学受験が終わるまで、「綺麗にノートをとる」ことにことさら拘りました。理科系の授業ノートは必ず家に帰って「まとめノート」に清書とか、世界史のノートは、見開きでわかりやすくとか。先生の話を聴きながら白地図をフリーハンドでかきその上から先生のコメントをメモとして書き足していくと言ういまにして思えばどうしてできたんだそんな技みたいなこともやっていましたね。

今、IT系の資格試験に向けて勉強をしていますが、「一つの単元につき30問」と決め、極めて呑気に進めてます。昔のように問題を解く為のノートも作らず、本を買った時につけてもらったカバーの裏に答えを書いて採点をしてます。
昔は『書かなきゃ覚えない』と、解説をばか真面目に手書きで長文を書いたものですが、正直言ってただのエネルギィの無駄なので今はまずしません。「数学と英語は最低でも2,3時間はやらなくちゃ」と思っていましたが、今は勉強だけしてればいい身分でも年齢でもないので、たとえその気があったとしても無理でしょう。

本来であれば、目指すべき『目標』『目的地』を見定め、それに向かって進むべきところを、あの頃は突っ走ることそれ自体を、いつの間にか目的にしてしまったのです。
目的といえば、「大学に入ること」は目的ではなく手段の一つです。
私は手段や手法を目的だとずっと思い込んでそれまでの人生を過ごしてしまいました。
大学に入って、ほんものの「目標」を持っている同期や先輩、後輩たちの、なんて素敵なことだったでしょう。そして例外なくみんな私よりずっと優秀でした。ほんものを持っている人たちは、ブレません。速度はそれぞれでも、着実に進んでいます。

私もいつか、そんな確固たる目標が見つかるといいのですが、見つからない人の方がもしかしたら多いのかもしれないな、というのが観測です。ですが、きっと見つける気がないうちは見つかりっこないでしょう。あるかわからない貴石を求め鉱山を掘り進める気分でいます。
自分の意思で、自分のペースでのほほんと進められることが、あの頃に比べたらずっといいなあ、そんな気持ちです。旅と同じで、ただかっ飛ばしてより多く何かをこなせばいいというものでもありませんから。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!