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大人になるということ、いくらの寿司

先日、「寿司弘」という寿司屋に連れて行っていただく機会があった。

地元・愛媛の人々に愛される名店で、「もう半世紀はこの仕事をしている」と豪語する大将が、くるくると小気味よく寿司を握ってくれる。

それはもうテンポがよい。あっという間に終わってしまうメリー・ゴー・ラウンドみたいだ。夢のような時は、いつだって早い。夏蜜柑を絞りかけた寿司は、ふわりと口の中で溶ける。絵に描いたような、幸福な夏。

その中でも、ひときわ存在感を放つネタがあった。「いくら」だ。いくらって、何であんなにうつくしいのだろう。宝石みたいにきらきらしていて、まんまるくって。

...と思いきや、次に出てきたいくらの粒は、いくばくか小さく見えた。おやおや?と気になって尋ねてみると、大将いわく「イクラは塩漬けにすると浸透圧の作用で水分が抜け、粒が小さくなる」のだそうだ。逆に、醤油に漬けると水分を吸って大きくなるらしい。

なんだか、「これに似たような現象が昔もあったなあ」なんて思った。

教室の机や椅子、近所の公園、渡り廊下。幼い頃は、そのすべてが醤油漬けのいくらみたいに「巨大」で、恐るべき存在だった。とくに「オトナ」はその代表格。

「オトナ」には、知らないことなんて何もないように見えた。
流暢に九九が言えて、漢字だって書ける。電話では、よそ行きの声をつかう。何やらむずかしい顔をして、わたしにはわからない話をする。

そんな「オトナ」という存在に、畏怖の念を抱きながらも憧れていた。小学生のとき、祖母に「わたし、オトナに見える?」と聞いて、「見えないよ」と笑われたのを思い出す。



数年のときを経て、いざ「大人」になってみれば、まだまだわたしは塩漬けのいくらだった。まったく大きくなど、ないのであった。困ったことが起きれば動じるし、余裕でいられた試しなんてない。

幼き頃、思い描いていた「大人」のわたしはどこにいるのだろう。

まだまだ答えは出ないけれど、小さかったからこそ見えていたこと、見えなかったこと。逆に、大きくなったからこそ見えてきたこと、見えなくなってしまったことがあるように思う。

高層階のビルからの眺望と、地上からの眺望が異なるように。


ただひとつ言えるのが、いくらは小さくても大きくても、それぞれ味があって美味しいのである。

寿司を、また食べに行きたい。

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