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見えなくても、聞こえなくても、感じられなくても、それでも信じますか

自分の思考を言葉にするとすごく陳腐に感じるし、説明できなさは窮屈さを感じさせる。

最近は、深く考えることが減ってきた。何かを突破するためにどうすればいいかよりも、身を委ねて何をそこから自分は何を感じるかにシフトしてきた。

その意味で、トヨタ式の5whyや、『七つの習慣』の「緊急度」と「重要度」で優先順位を決めるような思考法はあるのだけど、なんとなく今はやりたくない。いつやるのという話ではあるけれど。

そんな感じだけど、それでも優先順位が大事だよねという考えには、真っ直ぐに共感する。

むしろ、優先順位が一番のもの以外はその他大勢であるくらいの極端さが自分の中にはある。「バランスなんて取れない。そこには優先順位があるだけ」的な考えだ。

そんな前提に立った上で、自分の優先順位の一番はなんだろうと考えると、「暖かさ」がある。これは、何度か手放したり、真っ向から否定される経験をしてきて、それでも軸として残り続けた価値観だ。

暖かさってなんだろうか。いつも曖昧なまま「暖かさ」という言葉を使ってきて、使う度にその世界から離れていく気がして、でも自分を表すときは必要な価値観であってという微妙さがあった。

ただ、最近は一歩だけ考えが進んだ気がする。まぁ、でも、うーん。自分にとって「暖かさ」とは、「孤独が解消されている状態」なのかなというレベルだけども。理不尽や不条理、標準からの逸脱などの外部環境に合わなかったために感じる孤独を無くしたい。

具体的にいうならば、身体機能の拡張や、親密さを感じられる距離の延長に関心がある。

部屋から移動できない、もしくは移動に不自由さがある人の物理的な隔離がそのまま心理的な孤独感に繋がるなら、それに取り組みたい。

そのためには、何によって人は孤独を感じるのか。Zoomなどのオンラインコミュニケーションツールや、アバター、ロボットなどによる繋がりは孤独を癒すことができるのか、などに向き合いたい。

親密さにおいては、オンラインサロンや共通通貨の利用などの開かれつつも閉じられた空間は、人の親密さにどう影響するのかに興味がある。

僕も、二つほどオンラインサロンに入っており、その内の一つは、数万人規模の街型のサロンで、もう一つは、数百人規模の技術的かつ孤独に焦点を当てたサロンである。

どちらにせよ、自分の一部をそれらのコミュニティに属させ続けることによる緩やかな変容を求めている。

共通通貨は、それを使う人の価値観を反映させることができ、ある種の制約がその通貨の価値を上げる。

どちらにせよ、開かれつつ閉じられること、便益がありつつ、めんどくさいことなどの矛盾するような価値観の中で意味が醸成される。

暖かい世界を考える上でいくつかの問いがある。

まずは、人とそれ以外の区別はどこから発生するのか。これは、アバターやロボット越しのあなたはあなたなのか、それとも別の何かなのか。

じゃあ、zoom越しや音声越しのあなたはどうなのだろう。同様の問いとして、僕たちの親密さは何に紐づいているのか、どんな時に自分は孤独を感じるのか。

繋がってさえいれば、役割がなくても、誰かから受け取ることの方が多くても大丈夫なのか。

また、暖かさを求める上で、75億人全員の幸せは追求できるのか、すべきなのか。多様性と共通性はバランスを取れるのか。

上位の問いに対して、僕はまだ答えを全く持ててないし、永遠にわからないかもしれない(有事の際に明らかになることもあるかもしれない)。

その答えが見えないからといって、その答えを誰からも聞くことができないからといって、その問いに取り組む過程で全く満たされないからといって、その答えがないと言えるだろうか。

見えないもの、聞こえないもの、感じられないものの中に信仰はある。信じられない時こそ信じ続けたい。

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