結婚式、初参戦

少しだけ記録を書く。

先日、静岡で親戚の結婚式があった。

どうでもいいことだが、正直私はトランスジェンダーの都合もあり、他者から恋人関係を認められることを諦めている節がある。
他人から恋人関係を認められ、晴れてそのひとつ上のステップとして家族になること、そのお披露目に、結婚式があると思っている。
わざわざ他者から認められることになんの意味があるのだ、と思っていた。
そんなところから結婚式には懐疑的だ。自分たちが良ければ人に見せびらかさずともいいではないかと思っていた。

・・・のだが。
この結婚式があまりにも素敵すぎた。
新婦となる親戚のウェディングドレス姿。
これがあまりにも綺麗だったからだろうか。

登場の瞬間から、色々と胸いっぱいの様子で、彼女に涙が見られた。参列している彼女の友人らもどうやら涙しているようだった。(すすり泣く声があちこちから聞こえた。)
そして新郎、こちらも相当美しかった。
真っ白のタキシードを身にまとい、新婦に幸せそうな笑顔を向ける。
私は、参列する前、誓いのキスなどを家族と見守るのは嫌だ恥ずかしいと思っていた。
そして見るのを躊躇っていたのだが、そんなことよりも感動が勝ってしまって、気づけばスタンディングオベーションに自分も参加していた。

そして、全然お門違いのことを私は考えていた。

そうか。認められたいからやる、訳では無い。

いや正確にはそれもひとつあるのだろう。他者から認められるために式を挙げる、これはきっと間違いでは無い。
ただ、そこに重きを置いている訳では無い。
式の最中、様々な人の表情を見た。
新婦のご両親は、涙をうかべてどこか安堵を感じられる表情。当人たちは覚悟とも見れる真剣な表情と、やはり幸せそうなほっとした表情。
そして参列した人々の笑顔と式にふさわしい美しい音楽。
認められるためでは無い、これも人生の大切な記録のひとつだ。人生史に残る大切な節目なんだ。

何を言ってると思うだろう?
そんなこと普通の当たり前なことだと。笑
だが、私は本当に結婚式をやる意味がわからなかったのだ。実際に見るまでは。

好きな人の一生に一度しか見れない姿、そして最中でしか見ることの出来ない相手の表情、声、周囲の拍手、そしてようやく本当に結ばれたのだという安堵。

上記のような感情ほど簡単なものでは無いかもしれないし、単に結婚したから、というなんでもない理由かもしれない。
しかし初めて私は自分の好きな相手と結婚式を挙げる、ということに憧れを抱いた。

自分が一生を過ごしたいと思った相手のウェディングドレス姿、心からの幸せそうな表情、そりゃみたくもなる。

とまぁ、ほぼ私の気持ちがサラッと変わりましたよー、というだけのレポとなってしまったが、パートナーシップ制度などが導入された昨今だからこそ言いたかったのだ。

.........いや、違うな。
急に上記全ての感想を否定させて頂こう。

実は式を見て初めて思ったのではなく、私にもそういう憧れが本当は元々あったのかもしれない。
トランスジェンダーの私には単に叶わない願いだからと、諦めきっていたのかもしれない。

そう、自分には縁がないと思っていた。
なのに、諦めていたはずのものがあまりにも目の前で綺麗に表現されてしまったものだから、憧れを自覚せずにはいられなかったのだ。

私は確かにいくつも他の人とは変わった特性がある。トランスジェンダーはそのひとつだろう。

でも、人並みのこういった幸せを望んでみるのも悪くはないかもしれない。

こんなズレた感想になってしまって大変申し訳ないのだが、結論、本当に美しい式だった。

自分が誰かと式をあげる日など来るのだろうか。LGBT関連の世間の風当たりは、今でさえそんなに弱くはないというのに。

挙式など、今でも夢のまた夢。自分の姿を想像することなど、一切できはしない。
ただ、そんな私でも一縷の望みを抱くことは何一つ悪いことでは無いだろう。

目の前の挙式した人達は、卑屈な私にこんなことを思わせるほどに、綺麗だったのだ。

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