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深夜のベルボーイ / Jim Thompson

物凄い小説だ。四方八方行く先々、全てが塞がれその日常が永遠に続く。人には明かせない性癖を内に秘め、その内圧とお高く纏った偽善者たちと近隣住民からの外圧にひたすら耐える。日が沈むと仕事、父親の世話をし、父親の訴訟のための口の巧い弁護士と話をし、父親の医者に小言を言われ、近隣の住民は彼に父親へのケアが悪いと中傷し、眠りに落ちたと思ったら仕事に行き、上司に小言で小突き回される。医者を目指して入った大学は父を養うために中退し、戻れる見込みはない。友達・理解者は皆無。父親は赤狩り旋風の煽りを喰らい、誤解されて失職した。その名誉を回復するための訴訟であるため周囲の人間は皆彼の父親の肩を持つのだ。だがその訴訟は、一年たっても一向に進まない。でも…

違うんだ!


事実は違う。彼が求められるがままに書いてしまった署名によるものだった。スペースが足りず「Jr.」を省略したせいで、父親の署名と誤解された。しかし、おそらくこの理由も真実ではない。この小説にはいくつかのレイヤーが存在するが、そのもっとも奥深く、深奥にあるのは、エディプス・コンプレックスに近い精神構造だと推測できる。主人公は養子だが、養母に対して性愛を抱いていた。これと彼が養子であるという事実がこの一家に緊張を生じさせ、様々な出来事を拗れさせてゆく。おそらく署名にしても、その時はまだ表面化していなかったものの、父親を排除したいという彼の心理の表れだろう。そして両親にその事実を告白できなかったことも、自分が養子であるという事実と母親に対する性愛に因るものだと推測できる。父親自身も主人公のエディプス・コンプレックス的な敵意を無意識的に感じていたせいで、生命保険の受取人を彼に変更することができない。そのため金を払い続けねばならず、してみればこれは、主人公にとっては多額の使途不明の金を父親に渡し続けることになる。加えて父親は病気がちだ。稼いでも稼いでもどんどん暗闇の中に消えてゆく。自分の時間なぞ全く無く、ほとんどものを考える余裕も ― 時間の面でも心の余裕という面でも ― 無い。ここにザッと書き出したトラブルが彼を襲い苦しめる。しかし、それは彼を迎え入れた両親の判断のみならず、その精神構造、つまり彼自身が要因となっている。そして事は永遠に続く。

上の科白、「違うんだ!」というこの科白、これには物凄い力を感じる。上述の心理は、彼の意識の中に一つの言葉に言い表されるような明確な形ではなく、漠然とした噴き出し煮立ったカオスとして常に存在する。というより、意識という本人が意識できる流れそれそのものに多分に交じりこみその形成素と化している。このカオスの爆発、しかし完全には程遠い不完全な、抑圧された状態での噴火、それが上の科白だ。この歪んだ青いカオスの噴出の描写は衝撃的だ。それを為してしまうトンプソンの洞察眼と描写力、作家としての才には並々ならぬものを感じる。

「アメリカの」、と主語を大きくしてよいのかどうか渡米経験のない私には分からない。しかし「アメリカの」とある町で起こったフィクションの出来事が彼の書には描かれている。この意味は大きい。そこに描かれているのは、金しかのことしか頭になくそのためとあらば手段を選ばない獰悪なハイエナ、無理解で閉鎖的な共同体、それらの間接的で悪質な弱者迫害、そして極度の抑鬱と閉塞感だ。これらに雁字搦めにされ、時間の経過とともにその拘束は強まる一途を辿る。そして永遠に続く。この吐き気を催す閉塞感の描写は、ラース・フォン・トリアー監督のそれに匹敵する。「Dancer In The Dark」と酷似しているように思う。

そして彼は犯罪を犯す。半分は強制されて、もう半分は永続し今後も永続する日常からの脱出を求めて。しかし結果得たものは何もなかった。養母に似た美女、ヒメリーとの性交も二度のチャンスに恵まれながら頓挫し、二度目に至っては父親殺しの容疑で収監されることで永遠にそのチャンスを失う。ホテルの規則からこの結末に至るまで、読者に吐き気をもたらす程に徹底された性欲の圧殺、自我の圧殺、青春の圧殺、自己矛盾による自己のカオス、これらは偶然と彼の性質の産物あるので彼はこの運命を最初から運命づけられている、つまり先に加えて未来はもとより殺害されており、可能性の喪失。これらの生む限りない閉塞感。そして永遠に続く。

このストーリーをこれだけのリアリティーをもってかける作家を私は他に知らない。トンプソンの力量には毎度感服させられる。

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