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後醍醐天皇の子・宗良親王が拠点とした地。長野県下伊那郡。グーグルマップをゆく⑱

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンがった町を空想散策する、グーグルマップをゆく。今回は長野県下伊那郡。

 長野県の下伊那郡は飯田市をはさんで飛び地になっている。長野県はかつて信濃と呼ばれ、古代より勅使牧(ちょくしまき)と呼ばれる天皇直轄の軍馬などを飼育する牧場が置かれた土地でもあった。

 信濃の勅使牧は16箇所も置かれ、それを統括する牧監という役職を滋野氏という豪族が担っていた。滋野氏の傍流に香坂高宗という人物がおり、鎌倉期から室町期にかけての武将で、信濃国大河原城の城主であった。1344年、ここに宗良(むねよしともむねながとも読む)親王という皇子を招き入れる。余談ながら、戦国末期に同じく滋野氏の傍流から真田幸村が出る。

 宗良親王は後醍醐天皇の子で、天台宗比叡山延暦寺のトップである天台座主だった人物で、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の元弘の乱を起こした際、還俗してともに挙兵した。倒幕が失敗に終わり、讃岐に配流されたが、再び後醍醐天皇が倒幕を行って成功して建武の新政が開始されると再び天台座主に戻った。

 しかし、建武の新政が失敗し、南北朝時代が始まると、再び還俗して転戦し、信濃国に流れ着く。ここで香坂高宗に招き入れられることになる。宗良親王は30年もの間、現在の下伊那郡大鹿村に拠点を置き、各地へと出陣したため、信濃宮と呼ばれた。

 現在、信濃宮と呼ばれた宗良親王居住後は、御所平と呼ばれており、かなり奥まった場所にあり、雪の日などは行くことができないほどであるらしい。確かに、グーグルマップ上でもかなり僻地のように見える。ストリートビューでは見ることができない。

 宗良親王のことを思う時、天台座主とは一体何なのかと考えざるをえない。天台座主は天台宗比叡山延暦寺のトップであることはすでに述べたが、開祖の最澄より脈々と受け継がれる地位である。最澄の死後、権力と結びついた延暦寺は、朝廷や貴族の家督権のない子どもたちの受け皿となり、それによるヒエラルキーが延暦寺内で形成された。

 宗良親王が天台座主から還俗し、また天台座主に戻って還俗するということができたというのも、それを拒否できないほどに朝廷や貴族に牛耳られ、権力の道具として腐敗していた証拠であろう。

 鎌倉期に入り、それに嫌気のさした僧たちが比叡山より下山して、自らが正しいと思う仏の道を説いて歩いた。それが鎌倉新仏教である。


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