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龍造寺家と鍋島家のトレード。佐賀県多久市。グーグルマップをゆく #60

 グーグルマップ上をタップして、ピンがたった町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は、佐賀県多久市。

 佐賀県の中央に位置する多久市は、古代、栲(たく)の木が多く、その繊維で織った布である「白栲の衣」の産地であり、そこから多久と呼ばれるようになった。

 鎌倉期に鎌倉からやってきた多久太郎宗直がやってきたことより多久氏の歴史が始まるが、戦国期に滅亡してしまう。この後に台頭してきた龍造寺隆信の弟・龍造寺長信が多久氏の居城であった梶峰城に入ったことで多久氏を名乗ることとなる。鎌倉から戦国期までの多久氏を前多久氏、戦国期以降の多久氏を後多久氏と呼ぶ。

 これが多久氏のおおざっぱな歴史であるが、龍造寺氏は肥前を治めた家柄であり、その家臣で龍造寺家の家老・鍋島家がいる。鍋島家が最終的に肥前を治めることになるのだが、この流れがどうもよくわからなかった。

 調べてみると、豊臣秀吉が勢力を拡大してきた頃、龍造寺隆信が島原の有馬氏の討伐でヘタを打ってしまい、さらには隆信が戦死し、その間に鍋島家の信頼が上がって政治を任せようという動きが起こる。その最中、隆信の母・慶誾尼が鍋島清房と再婚し、鍋島は龍造寺家の家臣でありながら龍造寺家当主の義父になるというややこしい事態に陥った。

 さすがに問題を引き起こしている張本人である慶誾尼も龍造寺家の存続が危ういと思い、鍋島清房の息子である直茂に龍造寺家を継がせようとするも拒否されてしまう。

 なんとか龍造寺隆信の孫である高房に龍造寺家を継がせるも、秀吉の鍋島家の信頼が厚くなり、龍造寺家を隠居させて政治自体は鍋島家が行うように秀吉がまとめてしまう。

こうして、鍋島家が肥前を掌握することとなる。こうした流れの中、多久氏の居城であった梶峰城に入った龍造寺隆信の弟・龍造寺長信の息子である龍造寺家久が、鍋島家に遠慮して多久安順を名乗ったことから後多久氏が始まることとなった。

 もはや、何を書いているのかはわからないくらい非常にややこしい内容である。例えば、越後上杉家は、家臣である長尾家から養子が入り、上杉家からも長尾家に養子を出して関係を盤石なものとした。

 こういった方法は他でもみられる戦略的手法であるが、龍造寺家と鍋島家に関しては、慶誾尼の大きなミスだったと言うことができるだろう。ひょっとすると、鍋島清房にうまくそそのかされたのかもしれない。

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