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和歌山、熊野の水軍。和歌山県西牟婁郡。グーグルマップをゆく⑨

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンの立ったところを空想旅行するグーグルマップをゆく。今回は、和歌山県西牟婁郡。

 古代、現在の和歌山県から三重県に至る紀伊半島一帯を牟婁(むろ)郡と呼んだ。現在は和歌山県と三重県に東西南北で分割される形で牟婁郡が残っている。牟婁には籠るという意味があり、神が籠るとされたことに由来し、神聖な場所として信仰の対象であった。

 西牟婁郡には白浜町がある。関西における海水浴上の代名詞とも言える南紀白浜である。眼前に広がる太平洋には、地平線が延々と続き、南紀白浜温泉は、日本書紀や万葉集にも牟婁温湯として名前が登場する湯治の地として有名である。

 さて、白浜町日置というところに安宅荘(あたぎのしょう)という荘園があった。熊野水軍が拠点とし、彼らはその地名から名前を取って安宅氏と名乗った。元は荘園を任されていた土地の有力者だったのだろう。また、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社という神社があり、これらは熊野三山と呼ばれ、熊野別当という役職のものによって熊野水軍も含めて統治されていた。

 余談ながら、源義経の家来として有名な武蔵坊弁慶は熊野別当の子どもとされているが、室町期の創作である。

 熊野三山へのお参りを熊野詣といい、平安期に宇多天皇によって始められ、身分や老若男女に関わらず、これを参った。熊野詣に使用された道が熊野古道である。安宅荘の成立時期については不明らしいが、天皇によって熊野詣でが始まったことを考えると、京都の貴族か東大寺あたりの荘園だったのかもしれない。

 鎌倉期の後鳥羽上皇は、熊野詣を大変好み、上皇在位期間三十三年の間に二十一回も参っている。お参りには必ず遊女などを連れて行き、途中途中で宴と称して乱痴気騒ぎを起こした。最後には熊野別当側からお参りを断れたほどである。承久の乱によって朝廷が権力を失ったことで、熊野別当の力も弱まり、熊野水軍の統治は北条執権へと移る。

 安宅氏は、北条氏が承久の乱後に阿波国から派遣したとも言われているが、実際のところはわからない。しかしながら、熊野水軍となる以上、船に長けた一族であったことは間違いなく、瀬戸内海を支配する越智河野水軍の末端の一族が派遣されたと考えれば、大いにあり得る話である。

 その後、安宅氏は、室町、織豊、江戸と続くが、瀬戸内海のように歴史の真ん 中で覇権が交錯した場所ではなく、自然と神秘に包まれた穏やかな熊野という土地において水軍が活躍したというのも不思議な気がしてならない

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