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美を理解する教養と出会いを求めて「クロス地点」に行ってみるキャリア実践


”女、この生きている謎を
解くためには、それを
愛さなければならない”

これは
スイスの哲学者 詩人 批評家
「アンリ・フレデリック・アミエル」
氏の言葉です。
女も男も、愛してみて、
その本当の姿がわかるというのです。


特に女性は、一見弱そうに見えても
愛を受けると強靭さを発揮します。
「女とは、神の第二の失敗作」、
こういったのはドイツの哲学者
「フリードリヒ・ニーチェ」氏
です。
「第二の失敗作」といったところが
ミソで、「第一の失敗作」は当然、
男だったということになります。


学ぶこととは
自分を取り戻すことであり、
自ら変わり、まわりを変えること、
キャリアを登って下りて
そして新たに昇る時代、
人はソロプレーヤーから
「生まれ変わる痛み」の
ようなものを体験します。


将来、私たちは自らの
健康寿命に至るまでは、
働くことを余儀なくされる社会に
生きる可能性が高そうです。
実際、ロンドンビジネススクールの
組織行動論の研究者である
「リンダ・グラットン」氏や
「アンドリュー・スコット」氏らは、
著書『ライフ・シフト』のなかで

①2007年生まれの日本の子の
50%が107歳まで生きるようになる。


②100年ライフの時代には
80歳まで働くようになる。
という予想をしています。


本当に平均寿命が107歳まで
伸びるのか、はたまた80歳まで
働かなければならないかどうかは、
未来予測なので知る由もありませんが
仕事人生が長期化することだけは
間違いないようです。
(※厚生労働省:健康寿命における
将来予測と生活習慣病対策の
費用対効果に関する研究より)


この痛みをともなう学びや変化を
どのように捉え、どこでどんな
挑戦経験を積み、いかなる能力を高め、
再び一念発起するのか、
別の言葉で言い換えるなら、
長い仕事人生を全うする知恵を
いかにもつかということです。


ところが仕事人生の長期化という
未曾有の事態に面食らってしまい、
下山途中に遭難する場合であったり、
再登山に躊躇する場合も増えている
のだといいます。
なかには一度山に登ったら、
それですべて安泰だと思っている
場合もあると聞きます。


長期化する仕事人生を全うすること
のポイントは「大人の学び」にある
ということです。
このことに、
より説得的な議論を行っていたのが、
臨床心理学者の
「河合隼雄」氏です。
河合氏は2002年の時点で
古代社会と近代社会の違いを
対比させながら、
「大人が学び続け、変化を
し続けなければならないこと」を
示唆していました。


つまり、
出来上がった世界「古代社会」では
いったん「大人」になることが
できれば、その後は「大人は大人で
いることができた」です。


しかし、時は流れ、私たちは
「近代社会」を生きることになります。
近代社会においては
「社会は進歩する」という概念が
加わります。
時代が進むにつれて
右肩上がりに進歩する世界は
時間にともなう社会の進歩を表現し、
そこには、
「A」「B」「C」という3つの異なる
社会が表現されています。


すなわち、近代社会においては、
ひとつの「出来上がった世界」が
あるのではなく、世界は
「A」から「B」、「B」から「C」へと
常に変化し続けています。


このような世界にあっては、
たとえば、「A」の時間に
子どもから大人になり、
世界の内部に移動したとしても、
そのままでは「安泰」ではありません。
時代「A」においては、
「大人A」の状態でいられたとしても
近代は右肩上がりに「進歩」しますから、
常に時代は流れ、変化していくので
「A」から「B」に移行してしまうのです。


時代が「A」から「B」に移れば、
「前時代の大人A」は大人のままでは
いられません、
つまり、「前時代の大人A」は
「次世代(B)の子どもB」と
「同じ立ち位置」に立ってしまうことに
なります。


すなわち、何もしなければ、
せっかく「大人」になったとしても
「次の時代の子ども」と「同レベル」
の立ち位置になってしまうのです。
このことは人工知能やコンピュータ
テクノロジー の発展のことを
思い浮かべてみれば、わかりやすいかと
思います。


前時代の大人がすでに次世代の
子どもに「逆転」されている状況は
変化の激しい分野では常識といえ、
時代は右肩上がりにさらに変化して
いきますから、
もし「時代Aの大人A」が何も変化し
続けなければ、「子どもC」よりも
はるかに下位の立ち位置におかれて
しまいます。


このように河合氏の議論からは、
大人になったとしても
人が学び続けなければならない
理由が見てとれます。
もちろん、「大人A」が「子どもB」と
同じ立ち位置でよいという場合は、
この限りではありませんし、
それは個人の意思決定の問題と
いうことになるでしょう。


ただ、人の根源的な生存理由は、
個体として、自分の意思で
生きるということにあります。
だから、未来を自分の意思で
切り開こうとするとき、
明るい未来を夢見るとき、
いろいろなアイデアが生まれます。


毎日同じ場所に通って
同じような会議室(部屋)で
アイデアを出せといわれても、
同じようなアイデアしか
出てこないでしょう、
アイデアは「体験」を通じて
生まれるもの。


多様性社会においては、
人間がお互いを深く理解する
必要があるともいわれています。
自分と違う人の考え方や価値観を
吸収することで、自分がしなかった
考え方を取り入れ、
多様な背景を持つ人のための
アイデアを生み出すことが
できると思いますし、


自分が知らない人は、
自分とは異なる知識や知恵を
持っています。
だから当然、質問を投げかけても
違う答えが返ってくるでしょう。
「違い」を理解し、課題を発見することで
どうしたらその課題を解決できるのか
共に考え始めることができ、
そこから「共創」が始まります。


しかし「共創」を始める前に、
真っ先に始めなければならない
大切なことがあります。
それはまず、相手に出会うことです。
これまでと同じ仕事の仕方を
続けていても新しい事業を
つくり出せないこと、
あるいは、先が見えないことに
気がついて、多くの人が
動き出しています。


そうした同じ問題意識を
持っている人が集まる場所が
「クロス地点」です。
まずは出会いを求めて
この「クロス地点」に行ってみる、
「出会い」は人生に大きな影響を
与えます。


出会いの「クロス地点」とは
「同じ」問題意識を持っている
「違う」人が集まる場所です。
たとえば、
セミナーや勉強会をイメージ
してみてください。
自分が興味を持った会場に行くと
そこで自分と同じように
そのセミナーに関心を抱いた
人に出会います。
そこが出会いの「クロス地点」です。
しかし、そこで出会った人は、
同じ課題に対して別のアプローチを
もっていて、共に解決策を考える
仲間になり得ます。


たまたま知り合った人が
「なんだか面白い人だな」
「この人は同じものに興味を
もっているな」などと思ったら、
その人が共創相手になる人です。
セミナーを探す際のキーワードは、
「イノベーション」「セミナー」
「異業種交流」「共創」
「社会人講座」「テクノロジー 」
「先端」「グローバル」など。
そうしたキーワードに自分の
関心のあるテーマを加える、
たとえば、
「ビジネス」「起業」「まちづくり」
「ソーシャル・ビジネス」
「地球環境」「IoT」「AI」
「災害」「貧困」など。


そうした集まりを探しているうちに
自分が求めていた「クロス地点」に
たどり着きます。
主催者はベンチャー企業かもしれない、
あるいは大学のオープンカレッジかも
しれない、NGOかもしれない、
学識経験者、アーティスト、
クリエイター、企業勤めの
プロフェッショナルの人たちかも
しれない、


そうした人たちの中から、
「共創」していく人が見つかる
可能性が高いです。
重要なのは、自分の心に響いたものに
参加するということです。


人間の変化を論じる際に
よく用いられる専門用語に
「生存不安Survival Anxiety)と
「学習不安Learning Anxiety)
という言葉があります。
アメリカ合衆国の心理学者、
組織心理学の創始者であり、
マサチューセッツ工科大学の
「エドガー・シャイン」教授の
言葉です。


「生存不安」とは、生存していく
ことに関する不安です。
人は、他者から生存不安を
高められることで、なんらかの
行動を起こすもの、
一方、「学習不安」とは、
学習すること、変化することに
対する不安です。
学習とは、一般に億劫なもの。
人は学びに対して、なかなか腰を
あげないものなのです。


だから、シャイン教授は
「人は生存不安を高められて
かつ、学習不安が減ったときに
学習する」
つまり、
他人に強制されることなく、
「自ら決める」ということが
ポイントです。
自分のキャリアや将来を他人任せ、
組織任せにしないという意思の力が
そこにはあります。


他者から生存不安を高められることを
待つのではなく、自ら動き出し、
より負荷が少ない方法で
今後の「次のステージへの準備」を
していかなければならないと
いうことだと思うのですが、


直前までに積み重ねた
スキルや能力、経験、成功といった
ものを捨てることができない、
けれども、過去の成功体験をいかに
軽やかに捨てるかが問われます。
かつ、自分で決めて、捨てることが
肝心で、他人から捨てさせられるのは
自分で捨てるよりも痛みがともなうもの、
自ら変わる、自ら捨てるという
選択をしたほうが楽なのです。


今は無理であっても
「知的好奇心」をもって
チャレンジしてやってみる、
その繰り返しが「キャリア」を
切り開いていきます。
もちろん、折に触れても
振り返りは重要であることは
いうまでもありません。


同時に「源流に学ぶこと」と
「誰に学ぶのか」を重視することは
至言だと思います。
同じことを学ぶのにしても
「第一人者に学ぶのか、
その第一人者の薫陶を受けた人に
学ぶのでは、まったく質が
異なるということでしょうか、
(※「薫陶」=優れた人徳や
品位といった内面で人を感化して
良い方向に導くことをいいます)


第一人者は優良なコンテンツを
もっています。
そして第一人者のもとには、
志の高い優良な人が集まりやすいため、
「何を学ぶのか」も大切ですが、
大人の学びでは「誰に学ぶのか」を
重視していくとよいと思います。
教わる相手は自分で自由に選ぶことが
できますし、そしてその教え方の
クオリティは、さまざまです。
何かを学びたいと思うとき、
「誰に学ぶのか」は、よくよく
戦略を立てたほうがいいことの
ように思いますし、


社会全体を変えていく力、
おそらく教養というのは
知識をたくさん持っている
ということではなく、
その知識を自分なりに
どう解釈して他者に伝えるかという、
その伝達の部分(美)にあるのだと
思います。


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