不可視

私はタナトフォビアでは無いが、人並み以上には死を恐れていると思う。

死ぬとどうなるのか。

誰もその答えを知らない問いが多いときは日に数回、脳裏を過る。それに対するもっともらしい回答は、概ね下のようなものである。納得しているかは兎も角、何となく説得力があるように感じられる。

死ぬと、無になる。それが永遠に続く。

あなたが無神論者なら、凡そ上のような死生観をもっているかもしれない。死後の世界などない。最後の審判も天国も地獄も煉獄も、輪廻転生もない。死ねばそこまで。そこからは、永遠の無だ。

この「永遠の無」という概念が、私をこの上なく不安にさせる。無が永遠に続くとは、一体どういう意味か。有限の時間を生きる存在である私は永遠とは何であるか知らないし、今ここに在る私には、無とは何かを想像することすら出来ない。死が恐ろしいのは、それが決して理解することが出来ないという点にある。つまり、未知のものに対する恐怖である。人は皆、一度しか死ねないのだ。予行演習をして備えることが出来ない。

しかし。

死ねばそこで終わりなら、その後に待っているかもしれない永遠の無を恐れる必要など、どこにもないはずだ。何故なら、死んだ後のことを考えている時点で、私は死後の世界を信じてしまっていることになるからだ。また、仮に死後永遠の無が待っているとしても、それに恐怖するためには、それに恐怖を感じる私が、死後も継続して存続する主体としての私が必要になる。しかし、死ねばそこで終わりのはずではないのか?であれば、そのような私など決して存在し得ない。

そう。

死を恐れているのは今生きている「私」であって、死んだ後の「私」ではないのである。生者たる私が死を決して観測できない以上、死後何が待ち受けているかという問いは疑似命題に過ぎないのだ。

論理的な自分はそう結論づけるが、感情はそれを受け入れようとしない。人間というものは、とかく答えることの出来ない形而上学的問いを立てたがるものなのだ。

考えても、しようがない。

沈黙しよう。

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