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人生の振り返り ⑨入院生活

私の病名は、慢性骨髄性白血病だった。

紹介状を書いてもらい、近くの総合病院に
その足で行った。
休日だっため救急へ。
私は、先生と話せる状態では無かった為、
母が先生と話した。
私は、母の膝で泣き崩れていた。
今でも覚えてることがある。

母が「この娘、結婚出来ますか?」
先生「…..。」
なんで今そんなこと聞くの。
私は、母にそう言える気力が無かった。
今思えば、年頃の娘の結婚が
心配だったんだろう。
それは、今でも進行形である。

私は、そのまま入院になった。
大部屋で、私より少し年上で教師の
Aさんがいた。
もう既に抗がん剤をしていたから、
頭にはバンダナが巻かれていた。
とても優しい人で、私を気にかけて
くれた。
でも、私はAさんとは(病気)違う。
私はバンダナを巻かない。
と心の中で思っていた。
現実を受け止めたくなかったんだろう。

入院して数日後、数人の先生、看護師さん
兄、母、私で、今後の治療方針を聞いた。
家族の骨髄とは合致しなかった為、
移植するならドナー登録が必要。
移植したら生存率は20%。
二人の先生で意見が違った。
1人は、骨髄移植。
もう1人は、骨髄移植に反対。
私は、もう何も分からない。
ただただ、生存率が20%しか
頭に残っていない。
とりあえず、インターフェロンの
注射を始めることになった。

病室に戻った私は、カーテンを閉めて
泣いた。
主治医の先生が、病室に来て、
泣いてる姿を見られてしまった。
もう涙は止められなかった。
先生に、
「私は病気を背負って、どうやって生きて
いけば良いか分からない」
とベットの上で泣きながら訴えた。
先生は、何も言わなかった。
ただただ私を見つめていた。

25歳、これから仕事や結婚、出産、
夢や希望に溢れていた私は、
生きていく不安しかなかった。
絶望しかなかった。

母は、説明が終わった後、兄を最寄り駅まで
車で送った。
私が心配だった為、また病室に来てくれてた。
母にも泣いているところを見られてしまった。

入院は1ケ月。
インターフェロンの注射が、自分で
出来るよう練習をした。
お腹や太もも、毎日一回注射を打つ。
痛くない場所に打つ回数が増えてくる。
半年くらい、注射は打ったが、
打った場所の皮膚が、変色していった。

入院中は、母が毎日お見舞いに来てくれた。
一度、母と病院の屋上では無いが、
外に出れる場所を見つけ、座りながら、
2人でたわいもない話をした。
外の空気が気持ち良く、穏やかな
時間が流れた。
先生には、外に出たことはもちろん内緒。

同室のAさんは、移植の為、無菌室に
入った。
退院の時、Aさんには挨拶出来なかった。
でも、携帯の連絡先を交換したから、
通院の時、会いに行こうと思った。

退院後は、1週間に一回病院に行き、
血液検査をした。
ある日、Aさんに会いに行きたかったから、
携帯にメールした。
Aさんのお母様からだった。
「娘は死にました。」
取り乱しては駄目だ。
自分が壊れてしまうと思った。
私は、Aさんの分まで生きよう。
生きなきゃいけないと強く
言い聞かせた。

Aさん、あれから23年月日が流れましたが、
天国で穏やかに暮らしていますか?
今、私は生きています。






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