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どーも!!かつやです!!
まいどおおきに!!
みなさんお元気ですか?

さて、今回は「とんでもないことを学んでしまった」ということについてお話ししたいと思います。

3月9日 9時半〜11時半(実際には12時を超えました)の日程で
「坊ちゃんトーク」特別編がzoomで実施されました。

これがそのチラシ

正直言って熱過ぎました!
教育に関わっている人全員に見て、聞いてもらいたいものでした。

中でも印象に残った「学び」についてお伝えしたいと思います。

「不登校」という概念は、日本と韓国くらいにしか存在しない


このことは何かの本で読んだことがありました。
「学校に通わないといけない」から、「通わない(通えない)子ども」は「不登校」というレッテルが貼られてしまう。
「不登校」の子どもには何か特別な対応や支援を行う必要が出てきてしまう。
するとそこで浮かんでくるのは
なんで「特別」なのか?
その先には「普通ではない」が見え隠れしている。

普通であることとは何か?
教師の「指導」を従順に聞く子どもが「普通」なのか?
そこに当てはまらない子どもは「普通」ではないのか?

そこで工藤先生が幼児教育から「問い直し」する必要があるとおっしゃっていました。

デンマークには「小一プロブレム」という概念が存在しないようです。
根底に、「椅子に座っていられない」「授業中に立ち歩いてしまう」ことなんて「当たり前でしょ?」という価値観があるようです。

日本の幼児教育から「規律」「同調性」を求め過ぎているのではないかと感じる。
「遊びの時間は終わりだよ。片付けて並ぼうね。」
みんな楽しそうに遊んでいたのに、「並ばせる」ことで
「並べる子」と「並べない子」に分けられてしまう。
先生は「並べなくても仕方ないじゃん」とか「別に並ばせなくてもいいじゃん」と考えるのではなく、どうにかして「並ぶように指導する」と考えてしまう。みんなと同じことができるように「指導」しようとする。

親についても、子ども同士の遊びや喧嘩に介入し過ぎているとおっしゃっていた。
遊び道具の貸し借り、喧嘩の仲裁。
そこに親が介入するから、主体性を失っていくのだと。
主体性を失うとどうなるか?
「人のせい」にするようになるんだそうです。
「〇〇をしてくれなかったから△△になった」などと言うようになる。
幼い頃から、当事者として「貸し借り」の仕方を覚え、「喧嘩」の折り合いの付け方を学ぶ。そこには「試行錯誤」というプロセスが必要なのに、大人が介入しすぎるから、その機会を大人が奪い取っている。
子どもは生まれた時から「主体的」な存在であるから、
「子どもの主体性を育てる」なんてことを目標にしている学校はおかしい。
子どもの主体性を奪わないように「支援する」ようにしていかなければならない。

この言葉を聞いて僕はハッとさせられました。
なんて未熟なんだと。

僕は
子どもを「育てる」のではなくて
子どもと「育ちたい」と思います。


今回のお話しから、僕はより一層「教員養成や教員育成」に関わっていき、
「良い教育って何なのか?」を一緒に悩んで、一緒に考えていきたいと感じました。


「とんでもないことを学んでしまった」というテーマでお話しさせていただきました。

また次回も楽しみにしていてください!
かつやでした!

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