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秋桜

「離婚届はどこでもらえますか?」

離婚届の所在を探すことになるなんて、人生は分からないものだ。それは所得証明や戸籍謄本などの申請書が並べられている台には見当たらなくて、女性職員にまた尋ねた。

「こちらです」

彼女はさっき所得証明申請書の置き場所を教えてくれたときと一ミリも変わらない表情で、離婚届の場所も素早く教えてくれた。いや、もしかしたら彼女の表情は数ミリくらい動いていたかもしれない。冷静なつもりの自分がほんの少し動揺していて、その表情の変化を見落とした可能性がある。

彼女が手で合図してくれた場所は予想外の場所だった。何人もの職員の視界に入る形で用紙を取らなければならない窓口のど真ん中。

この市役所は離婚経験者が一人もいない幸せな職場なのかもしれない。離婚届を取りに来た人が職員の晒し者になってつらい思いをするかもしれないという想像力が欠如している。離婚届なんて窓口の隅っこにひっそりと置くべきなのに。

案の定、離婚届を一枚抜き取るときに職員からの視線を感じた。「この人、離婚するんだな」と思われている気がするなか、それを一枚、親指と人差し指で挟んで抜き取る。

「私は少しも動揺していませんよ」という表情を日頃から作りがちな私はこんなときでもそう振る舞ってしまう。でも手が震えていないかを確認している自分がいる。よかった、震えてはいない。このくらい大したことない。

彼女は私が離婚届を取り上げた瞬間を見計らって、「そちらの封筒をお使いください」というアドバイスもくれた。なるほど、こんなもの裸で持つのは躊躇われるだろうという思いやりかもしれない。所得証明書を受け取るときには特にその言葉はかけてくれなかったから。

封筒にゆっくり離婚届を入れながら、私よりいくらか年上に見える彼女に「あなたは結婚していますか。あなたのお宅は幸せですか」という不躾な質問をする自分も妄想してチラリと彼女のほうを見たら、さっき私に所得証明書を発行してくれた年配の男性職員と朗らかに雑談していた。今日の夕食は何かという話らしい。業務に全く無関係な会話を就業時間内にできるなんて緩い職場だな。漂う空気もやんわりしてて、やっぱり離婚経験者はいなさそうだ。

この市役所はもう一つ、興味深いことをしてくれている。

離婚届と婚姻届が隣に仲良く並べられているのだ。

そのことが私はとても気になった。否応なく目に入る婚姻届に、あの頃の幸せの絶頂を思い出さされる。二人で一緒にサインをした婚姻届を照れくさいような、でもどこか誇らしいような気持ちで役所の窓口に差し出した。「おめでとうございます」と言われて、眩しい笑顔を返したあの日は、もう遠い昔。

婚姻届と離婚届。まるで入り口と出口みたい。その入り口から入った日々は幸せがいくつあったのだろう。

こんな目立つ場所で、こんな置かれ方のおかげで、私は余計なことばかり考えてしまう。

それにしても、私の頭は考え事ばかりしている。だからよく頭痛が起こるのだろう。

所得証明書と離婚届を入れた封筒をエコバッグにしまい、窓口を出て、ロビーにある長椅子に座った。ふうと息を吐き、緊張を解く。

出入口のガラスドアの外に目をやると、秋桜が一輪しなやかに揺れていた。

もう秋が来ている。



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