見出し画像

先生との出会いが人生を変えた〜小中学校編

自分一人では生きていけない。
周囲の人たちと関わりながら、いろいろなことを学び、成長していく。
今回は学校の先生について、振り返りながら考えてみる。
高校編はこちらからどうぞ。

最初に感じた大人への憧れ

小学校2年の時、若い女性の担任の先生に出会った。
その先生はなにか都会っぽさを感じさせる風貌(当時でいうW浅野)で、
初めて出会う「別世界から来た人」という感じだった。
もう一人、保健室の先生。
こちらも若い女性の先生だったけど、山奥の小学校にも関わらず近くの教員住宅に住んでおられて、友達と一緒に遊びに行ったことがある。
外国の音楽、ファッション雑誌、など初めて見るものがたくさんあった。
まだインターネットなどない時代の田舎で生まれ育った私にとって、
・音楽といえば、演歌かJ-POP
・雑誌といえば、少年ジャンプやコロコロコミック
ぐらいしか知らなくて、外にはこんな世界があるんだ、と幼心にも衝撃は大きかった。

当時(40年ほど前)は、新規採用になった先生は田舎の小さい学校に赴任されることが多くあり、そこで経験を積み重ねて町中の学校へ異動、という流れだった。
そのため、大学を出たばかりの若い先生が赴任されることが多く、今思うととても恵まれていた環境だった。楽しかったし。
その先生のようになりたい、という憧れではなく、外の世界で起きているいろいろなことを経験してみたい!と思ったのがそれが最初だった。

東大に行け!

他の友達よりも少し拗ねていた私は、小学3年まではいろいろと迷惑をかけることがあった。
・給食時間に教室前の畑の土を教室に投げ入れる
・テスト中に友達にちょっかいを出すので、廊下に机ごと出される
・授業中も落ち着いていないので、後ろに立たされる
・時々むしょうに悲しくなり、学校裏の河岸から飛び降りようとした
でも勉強が嫌いとか苦手ではなく、むしろ得意な方だった。教員になっていろいろ学ぶ中で振り返ると、これは完全に発達障害だと思う。
当時は、先生も親もそんな認識がなかったというか知らない時代なので、ある意味でよかったかもしれない。

4年生になって初めて担任が男性だった。とても厳しく叱られたりしたけど、愛情もたっぷり注いでくれる先生だった。
体育の時間は、先生が女子チームに入って、私たち男子チームとサッカーの試合をよくやった。先生のワンマンチームに男子が一丸となって向かっていったのは、とても面白かった。
あるとき、その先生がこう言った。

君たちの中から総理大臣を出そう。総理大臣を助けるために、官僚になる人も出そう。君たちがこれからの世の中を創っていくんだ。
そのために、○○高校(県内一の進学校)へ進学して、東大に行け!

みんな目を丸くしていたけど、そういうことをずっと言われ続けていると、なんだかそういうことを目指せる自分たちじゃないかな、とか思うようになった。
と同時に、自分たちで何ができるか考えていくようになった。

中学校では問題を解く苦しさと喜び

ちっちゃな山奥の中学校なので、学年1クラスしかなく、しかも担任の先生は1年から3年までずっと同じ先生だった。
いかにも数学の先生、という感じで不器用だけどとても真面目な先生だった。
その先生が作るテストは、最後の問題が激ムズだった。
テストが終わって質問に行くと「授業で解説するから」って言われた。
しょうがないから自分でなんとか解けないか考えてみるけど、なかなか答えは出なかった。
テスト返しのとき、その先生はニヤッとして返却してくれるのが恒例になった。
解説をきくと「なんだー、そんなことかー」と思うことがあるけど、それに気づけなかった自分の未熟さを毎度痛感した。

なんでそんな難しい問題を出すんですか?と尋ねたことがある。
先生の答えは

100点を取ったら満足して終わってしまうでしょ。
数学に限らず、世の中には解けない問題がたくさんある。
でも見方や考え方を変えたり、調べたりしていけば、解決法が見つかることもある。
そういうこと(この先)に気づいてほしい。

だった。

そうか、官僚になって世の中をもっと良くしていくとか考えていたけど、そのためにはたくさん試行錯誤しないといけないんだ。

面白い問題を解いてみたいので、問題をください!

先生にそう言って、問題をいくつか選んでもらって解くのが習慣になった。
先生の家に行ったことがあるが、並んでいた問題集は今でいう有名私立高校レベルのものだった。
あの当時に田舎の中学生が触れていたのは大きかったと思う。

続き 高校編はこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?