アフリカのサバンナにはなくて地元のスタバにあるもの

自由とは何か。

壮大なスケールでそう問うてみる。

自由なんて抽象度の高い概念を明白な言葉で定義付けるという行為ほど
胡散臭いものはない。

自由とはこういうものだと、わが物顔で言い切ってしまえば
さぞ心地がよかろう。満足するだろう。

ただそれは解釈のひとつに過ぎないのであって
万人に通ずるものではない。

むしろ自由なんて存在しない概念なんですよ、
と言われた方がよほど真実味があるように思う。

だから自由を定義しようなんて馬鹿げている。

ただ人生から馬鹿げたことをとりあげれば、
それはもうつまらないことこの上なしというか、

むしろ馬鹿げたことこそが人生の本質であるような気がしているので

私もまた自由を定義するなんて馬鹿げたことに
自分なりに挑んでみようかと思うのです。

自由といえば、何から解放というイメージであって、
「解放」の方に重きが置かれがちですが、
自分的には「何か」のほうも同じくらい重要な気がしています。

では何かとはなんでしょう。
こういうときは具体例を考えるのが役に立ちます。

たとえば
校則から解放されたら高校生は自由になるでしょう。
あとは、
やらなきゃなんない仕事から解放された週末はさぞ自由でしょう。
ほかには
定期券を購入しておけば、ある一定期間は運賃という概念から解放されて
自由に電車に乗り降りできます。

つまり自由の背景には、かならず制約があるということです。
そしてその制約から解放されたとき、はじめて自由になれるのでしょう。

だから最初から解放だけがあっても、
少なくとも私の思うかぎりでは
それは自由ではないのです。

というか、そもそも制約あっての解放だから
「最初から解放」ってことはあり得ない気もします。

というわけで、
この理論を極限まで突き詰めると、
見渡す限りだだっぴろい自然、自分を縛るものはなにもない広大無辺の空間、たとえばアフリカのサバンナとかに突然投げ出されたとして、
それは自由とは言えないのではないでしょうか。

そもそも腕立て伏せもろくにできないような
薄弱非力な私がそんなキケンな場所にいったら
そんな哲学的なこと言っている間もなく
肉食獣に目をつけられてあっけなく終わるのが目に見えていますが笑

とにかくこの理論上では、
アフリカのサバンナには自由は存在しないことになるのです。

じゃあ、お前の言う自由ってなんじゃい。

そうですね~~

私が思うに究極の自由は、

つまんない授業から抜け出して
気の合う仲間たちとスタバで他愛もない話をする
高校生たちの夕方ってとこではないでしょうかね笑

あれほど愉快で、痛快で、刺激的で
愛おしい空間、あるんですかねえ。

と、ふと黄昏れてみるのでした。

でも、あれですよ。

自由を成立させるためにも、
制約の効力は発揮されなければならないので、
その高校生たちには翌日にこっぴどく
生徒指導の先生に叱られなければなりません笑

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