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第五十七話 小休止

もくじ

 何だかんだ言って、水に浸かっている間に体が冷え切っていた。シートに帰って仰向けになると、砂浜の熱が背中にじんわり伝わって心地いい。砂風呂に入っているような気分。隣に寝転んだ岡崎も、生き返るー、と弛緩した声を吐き出していた。暖かい潮風が鼻先をくすぐっている。耳には、ざあーっ、と波の音。閉じたまぶたの裏側が陽射しに染まって赤い。ついうとうとしてしまいそうになるが、砂浜で眠るのは禁物だ。そんなことをしたら、日焼けが大変なことになってしまう。

 しばらくして、真帆がボディボードを抱えてタープにやって来た。白いラッシュガードにピンクのサーフパンツ。ミディアムショートの髪は、濡れていても明るい色合いがわかる。真帆は、この春高校を卒業したばかり。去年までは、今をときめくコギャルだったそうで、うっすら日焼けした顔には、まだあどけなさが残る。

「よくここがわかったな」

 シートに半身を起こした松浦が言った。

「わかるって。海水浴場ガラガラじゃん」

 ブルーシートに板を倒して、デッキにフィンとソックスを並べる。

「美緒はまだ海?」

 真一が尋ねると、河口の突堤のほうを振り向き、

「そうだね。今、潮が上げてきてるから、当分こっちに来ないかも」
「上げ潮だと波が良くなるの?」
「良くなるっていうか、サイズが上がる」
「ああ、なるほどね」

 これは真一にもわかる。実際に、上げ潮時に磯で釣りをしていて、波をかぶったことがあるから。クーラーボックスを流されかけて、慌ててショルダーベルトをつかんだ。ちなみに、釣りでは 「上げ三分、下げ七分」 と言う。上げ始めと下げ始めの二時間後くらいが潮の動きが活発で、魚が釣れやすいという意味だが、真帆に訊いてみたところ、ボディボードやサーフィンでも良い時間帯になるようだ。

「お前は、もうやらないの? 潮止まりまで、だいぶ時間あるけど」

 久寿彦がタープの影の中から訊いた。折りたたみイスに座って目を落としている腕時計は、G-SHOCKフィッシャーマン。今月発売されたばかりのタイドグラフ (潮見表) 付きの時計だ。

「私はもうヘトヘト。美緒さんとは違うって。それより、おなか減った。何か食べ物ない?」
「あー、おにぎりがある」

 久寿彦は体を捻って、クーラーボックスに手を伸ばす。昨夜、店のごはんが多めに余ったので、おにぎりを作ってきたのだ。昼食にするには数が少ないが、小腹を満たす程度なら十分だろう。ひと泳ぎして体力を使った真一たちも食べることにする。

 真帆を介して、二個入りのアルミホイルの包みを受け取った。先に取っていいですよ、と言った岡崎の言葉に甘えて、てっぺんにゴマが振ってあるおにぎりを選ぶ。ゴマが振ってあるおにぎりは梅干し、振っていないおにぎりはかつおぶしだ。夏の土用の食べ物といえばウナギだが、「う」 の付くものなら、何を食べてもいいらしい。もちろん、梅干しだっていい。ほかには、うどんも 「う」 が付くし、瓜や卯の花 (おから) も 「う」 が付く。海産物なら、ウツボも 「う」 が付くし、蒲焼きにもできる。もっとも、今日が丑の日かどうかは知らない。

「海で食べるおにぎりっておいしいね」

 しみじみと言った真帆は、すでに折りたたみイスに座っている。

「泳いで口の中が塩辛くなってるからかな」

 海を見つめながら久寿彦が答える。

「あと、海苔がしんなりしてるのもいい」

 これは、真一が前から思っていたこと。海では、海苔がパリッとしたおにぎりより、しんなりしたおにぎりのほうがおいしく感じられる。理由はわからない。潮風のせいだろうか。

「あ、あそこ、何かやってる」

 真帆が東の方角を指さした。

 一キロくらい先だろうか、延々と続く砂浜の途中に、隣の海水浴場が見える。陽炎に揺れるいくつかの小さな人影とパラソル。手前に横たわる逃げ水もくっきり現れて、本物の潮溜まりと何ら変わらない。熱砂が生み出した夏の幻。エジプトに遠征したナポレオンは、これを砂漠のオアシスと勘違いしたのだとか。

 だが、真帆が言っているのは、そこではない。海水浴場の少し先に出来上がった行列のことだ。

 行列の先端は波打ち際まで達し、大勢で何かを引っ張っているようだ。

「地引網だな、ありゃ」

 岡崎が目を細くして言った。海が穏やかな今の時期、砂浜がしっかりした海岸で行われることが多い。穫れる魚は、アジ、イワシ、サバ、イシモチ、カマス、タチウオなど。ただ、網を引き上げてみるまで、実際は何が入っているかわからない。真一は、過去にシュモクザメの幼魚が大量にかかっていたのを見たことがある。

「ホント!? 行ってみたい」

 真帆は声を弾ませたが、隣の海水浴場まで歩いている間に、地引網は終わってしまうだろう。水浴び用の水に限りがあるから、車は使えない。岡崎にそう伝えられると真帆は、なーんだ、と残念そうに折りたたみイスに沈み込んだ。

 おにぎりを食べ終えた真一は、またシートに仰向けになった。閑散とした浜辺で、相変わらず木製電柱のスピーカーだけが気を吐いている。梅雨が明けたとあって、夏をテーマにした曲がよくかかる。サザンオールスターズの 「太陽は罪な奴」 に続いて流れ出したのは、プリンセスプリンセスの 「世界でいちばん熱い夏」。懐かしいメロディーに耳を傾けながら、海外旅行に行ったことがない自分にとって、世界でいちばん熱い夏は土用の丑の日だな、とどうでもいいことを思った。

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