見出し画像

断片小説 「みちひき」

 ノボルが、血を吐いたのだ。

あまりの突然で、うろたえた。
日に、三度も血を吐くだなんて。
きっと、どこか悪いのだろう。
でも、この時間、通常診療しているクリニックなんてないだろうし、夫は苫小牧の方へ出張だったため、三日も、いや、一週間もまえから不在だったのだ。
救急車を。と、一時的に考えたが、わたしは首を振った。物言えぬノボルと今は、二人きり。わたしって、まるで。
シナリオのようで、いかにも、わたしわざとらしかったし、厭らしい女だ、わたし。

もう、救急車は呼べないのだ。わかっていた。
この町は狭い。人の口に、障子はたてられないのだ。
……きっと、噂は例のごとく、もう広まっているだろう。
その証拠に今朝なんか、玄関のドアを開けると、黄色い花が手向けられていた。不燃ごみの小さな五リットルの袋の中の壊れ物、かちりんと、鳴った。アパートの2階の若夫婦が挨拶する声に、会釈を返す。わたしの声震えていたと思う。
……菊の花は、きっとスーパーで買ったものだろう。活きが悪く葉の部分が萎びているのに、花弁だけ造花のようなみずみずしさがあった。
誰の仕業だろうか。思いうまでもなく、すぐに目星がつく。
町内会長のあの男だろう。花壇の手入れと、町内会主催の日帰りバス旅行を生き甲斐にするあの男。耳たぶが伸びたあの男。吝嗇な輪郭をしたあの男。
いやがらせにもほどがある。菊の花にまぎれて合鍵と、千円札が三枚。
札が風で飛ばないように、と、石ころを重石においてあった。いかにも、あの男らしかったから、一抹、郷愁を感じた。

ノボルがうめく。遠くの汽笛みたいに、聞こえる。男の子を生んでよかった。ノボルの小さな印を見つけたとき。分娩室で痛みを忘れて嗚咽したのだ。

ノボルの胸にできたしこりのことで、救急車を呼んだあの日を思い起こす。
二日酔いのように、苦い唾がわいてくる。

外科がだめで、内科にまわされたが、受付で診療不可と告げられ、その場で心臓血管外科にも電話した。しかし、すげなく断られた。あせったあげく、わたしは、「動物病院でもどこでもいいから、ノボルを診てやってください、命がかかっているんですよ」と取り乱したのだ。
ノボルも、半狂乱のわたしを見てぎょっとした。
すると、ノボルの乳首と乳首の間に、小高い丘のように(思春期のしょう女の胸のふくらみのようでもあった)なだらかにあえいでいた、憎きしこりが、すうっと消え去っていたのだ。

精神的なものですね、お母さん。と救急隊員は、あきらめたように言いはなった。お母さん、区の相談にはいきましたか?お母さん。ご主人はオムツを変えてくれますか?
わたしは脱力した。が、すぐに怒りがこみあげた。馬鹿にするのも大概にしてください。わたしは、ノボルをラグビーボールのように脇にかかえて、逃げるように自宅に戻ったのだ。

 ノボルは、口がきけない。まだ、まだ母乳を飲む乳児である。離乳食は進まず、大人の食べ物をそのくせ欲しがった。わたしは次第にノボルは他の子供と違うのだろうか?と。考えざるをえないという屈辱に、舌なめずりしていたのだ…。
唯一の産みの親である母親の、わたしだからこそ、ノボルの掻痒感にいち早く気づくことができたと言うのに。親子は見えない臍の緒で繋がりあっている、とオラーベスク・イ・ベルマーゼンの著作で読んだばかりだった。一歳半の検診では、意味のあることを声掛けをしてくださいと保健師から言われたが、無責任な立場から偉そうに物を言う人間が信用できると言うのか。

 吐血の直前に、もよおしていたため、わたしはトイレにて小用を足していた。途中で、さらに催し、まるでバーゲンセールのように、とめどなく排泄した。

 トイレをでたところの向かい側にある脱衣室と洗面所をかねた場所で、今月数回目となるめまい・貧血症状がでたため、しばし洗濯機にもたれかかり、目をつむる。ふいに、がたごとと、洗濯機は動きだし、わたしは、ひやあ、と声を出した。電源にふれてしまったらしい。

 リビングの方から、ママ、ママ、ママ、とノボルの声がした。ママとは、わたしのことかしら。わたしは、あわてて、洗濯機の電源ボタンを押そうとすると、体のまん中が、貫かれるような甘い気配がした。ママ。

「ノボル、ノボル」わたしは、息絶え絶えに、リビングに向かう。ノボルの吐いた血が、点々と絨毯にこびりついている。赤黒く、粘土のような血がべったりと。わたしは、朦朧の中、その血のあとにそっとひとさしで触れた。凹凸が感じられた。わたしは、病院で働いていたことがあったのだと、蜃気楼のような記憶がうすぼんやり。わたしは、看護師をめざしたけれど、准看護師どまりだった。採血においては、狭い医院だったけれど、腕利きだとほめられたものだ。ノボル、それより、ノボル。

「あ」

 わたしは、膝から崩れ落ちる。とめどなく、透明な水がまんなかよりあふれ、わたしの股の間から、生き物の気配がした。

 あんなにも、わたしを呼んでいたノボルは、バウンサーの上で眠っていた。なんだ。騙された。狐につままれた。狸に化かされた。夢うつつ、きっとそうだったんだ。ノボル。かわいいノボル。
まどろみの途中の、ため息のような声を思い出す。世界が動き出したように小さな寝息がきこえた。わたしは、無言で感嘆する。ノボルのかわいい寝顔スマホで撮影する。夫に写真共有のアプリで送ると、かわいくて食べちゃうぞというstampが送られてきたため、わたしは、「わたしも、破水した」と送る。夫の既読を確認して、スマートフォンを床に伏せた。電磁波の影響が心配なのだ。ノボルさえ健康であればいい。
テレビからは、大阪の道頓堀でみつかったという男女の死体のニュースが流れている。あまりに奇妙な事件だった。連日ニュースはにぎわっていたのだ。女の顔にかぶせられていたという馬の被り物は、今年の猛暑のせいで、顔に癒着し、特殊な薬剤でもってはがすのに苦労したようだ。

 あ、っと、立ち上がると、潮はひいていた。わたしの、潮で、膝頭は粉をふいていた。羊水が絨毯にまだらのシミを作っている。これは、ギャッベだから、クリーニング代が嵩む。夫はわたしを、風呂掃除用のデッキブラシでぶつだろう。ああ、とわたしは嘆息した。スマートフォンが震えて、わたしは、いまだ痙攣している体をよじり、画面を確認する。苫小牧でホッキカレーくったよ、と夫からメッセージとカレーをこそげた皿、福神漬けの画像などが送られてくる。 わたしは、生まれたばかりのノボルの弟を指で摘み、そっと口づけした。
そして、あまりに小さいそれに、乳を吸わせなければと、胸をはだけさせた。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?