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「好きな人の手を離すということは美しいことだろうか」〜羽生結弦さんの別れに寄せて


訃報に打ちひしがれていたところに飛び込んできたのは
羽生結弦さんによる
「大切な人の幸せのために別れます」

宣言でした。

聞いた瞬間、思いましたね…フラッシュバックしましたね。

あかんぞ、これはいかんぞと。
遠い昔、「誰かの何かのために、相手の幸せを祈りながら手を離した」オンナがここにいたからです。
当時を振り返り、今思うことは
「あれは一体何だったのか…明らかな悪手だったとしか、いいようがない」でした。

最近、しみじみ親しい友が言うんです。

「恋ではイイ子にならなくていい。

ワガママくらいでちょうどいい」と。

「お酒はぬるめの 燗がいい
肴はあぶった イカでいい」

まるで「舟唄」かのように言うのです。
まるで八代亜紀さんの渋い歌声が聴こえてくるようで、友の言葉がしみじみとぉ~五臓六腑に沁みわたります。

そう、私は自己肯定感が低く、どうしても好きな人の前でワガママが言えなかったのです。それが素晴らしいこととすら思っていました。イイ子であれば愛されるのだと、長い間、そう思っていたのです。そんな過去の傷も今ではかさぶたどころか、黒歴史として消したつもりでいましたが、今回の発言によって、少しだけチクチクと傷が疼く感覚を覚えました。


果たして、羽生さんの美意識は一体どこまでいくのだろうか…。
まるで恋までも、彼のスケートの一部として神の領域の美しき世界へと続いているようで、果てが見えないのです。
「究極の美しさを見た人にしか分からない感覚」の延長線の世界を見せられているようで…。

彼は一体、こんなにも崇高で美しすぎる物語を
どこまで描き続けていくのでしょうか。
氷の上に美しい弧を描くように、恋においても描こうとする孤独のプリンス。

今回下した決断よりもそうした生き方しかできない、望めない、それが彼の生き様だとするのなら、とても残酷なことです。

一見とても美しくみえるかもしれませんが、
ああ、美しさとは、かくも残酷で悲しいものなのでしょうか。


思うに人生は苦行です。私なんてもはや恋愛、仕事、人生全てにおいてボロ雑巾。けっして人生は平坦じゃありません。難題、珍問題をクリアしてもクリアしても道のりは続いていくのです。

「高ければ高い壁の方が
上ったとき気持ちいいもんな」

なんてミスチルの桜井さんのように爽やかな気持ちには、未熟な私は到底思えそうもありません。

大ピンチだって訪れるのが人生なのです。

「さあさあ、はっきりカタを
つけてよ!」

「絶体絶命」の百恵ちゃん、よろしくすごんで見せる…なんて瞬間だってあります。

だけどですよ。
例え目の前に「我が人生に一片の悔いなし」とのたまうような最強ラスボスが現れたとしても、パートナーには闘ってほしい。

一方的にボコられ鼻血垂れ流しながら顔は変形、「お前、誰だよ?」というくらい超絶ブサ顔になったとしても、そこでいきなりの手錠プレーを発動したっていい。
「君とは離れない、離さない」というくらいの心意気で闘ってほしい。そんな気持ちで人生を闘ってほしい。
「立つんだ、立つんだ、ジョー!」

恋にかっこよさなんているでしょうか。
一緒にいることに、そんなに小難しい想いが必要でしょうか。
「頭使うより、まず体と心使えよ」と、私の心の中でダークなこびとさんがささやきます。

がむしゃらに「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られてし△でしまえ…」くらいの心意気で闘ってほしいし、そんな人のほうがカッコよく見えてしまうのは…
そうしたことを望んでしまうことは…
酷なことでしょうか。

遠い昔に同じような気持ちから手放した恋をしたオンナからすると、今思うことは悲恋に浸る悲劇のヒロイン期なんて、そう長くはなかったということ。
どう見繕っても30代くらいには「いやあ、あれは、間違ってたなあ。なぜ闘わなかったのだろうか…」と疑問が湧いてきましたから。

そして結局、考えても考えても、行き着く答えは毎回これなんです。

「まぁ、負けたんだろうな、
何かに。
負けたってことは、
そんなもんだったんだな」


何か崇高な理由をつけて終わらせた美しき恋物語というのは、自分の思い出という名の引き出しの中では、やたらと特殊な光りを放ちます。

ほら、思い出って、どんな辛い事柄も、おぃふざけんなよ的な恋も、なぜか不思議と時間の経過とともにキラキラして見えるじゃないですか?

そんなところに
「互いに好きだったけど引き裂かれた2人」なんてスパイスが加われば、そりゃーもうキラキラなんてもんじゃなく、六本木のネオンがごとくギラギラですよ。

ギンギラギンにさりげなく

と、どんなにマッチがイキって歌っても、さりげなくなんてなりません。


一体、恋愛において

「相手の幸せを思って別れます」

「絶対何があっても別れません」

とではどちらが正しいのでしょうね。
いや、恋に正しいも間違いもないのは百も承知ですけれど、ついつい考えずにはいられません。

前者は美しさでは圧倒的に勝利…。

でも、そもそも

 恋に「美しさ」って必要ですか?


人を好きになるということは最も泥臭く、
リアルでドロドロしたものではないですか? 
そりゃ確かに楽しいし、幸せでヒャッハーと喜びも大きいですけど、
半分くらいは、せつなさや苦しみ、痛みでできてるものじゃないですか?
それに、嫌な自分を突きつけられもするし、新しい自分にも出合ったりもする…。

そもそも美しさや崇高さなんて
要るのでしょうか?


それを言うなら


「好きになること」、
「好きな人に出会うこと」
自体が、
もうすでに素晴らしいものでは
ないですか?

と、私はそう思うのです。


過去の自分と決別した
今の自分なら

「重ね合う手と手 解かないで
ふれる胸と胸 はなさないで」
 「SWEET SWEET SWEET」

と高らかに歌うドリカム吉田美和の歌声に
激しく頷き


「僕は死にましぇん、
あなたが好きだから」

                                  (
ドラマ「101回目のプロポーズ」)

と鼻水だか涙だか、もはや判別不能な謎の液体を垂れ流しながら、トラックの前に飛び出す突飛なオジサンであっても、鉄矢についていくでしょう。
そりゃ、浅野温子だってナットを
指につけるっちゅーもんです。

今の自分なら、そんな人に人生かけてみたいし、
自分だってそんな心意気で人を好きになるでしょう。

(いや、だから結婚できないのか。
いや、そもそも結婚したこともないのに語るなよ…確かにです)

もちろん羽生さんと比較できるような恋ではないでしょうけれど。



しかしなぜ、遠い昔、同じように好きだから別れるという「美しき献身」を選んだオンナがこんな風に変化したのでしょうか。

それは

「あなたの幸せは、
私と一緒にいることです!」

と、そう言い切る
〝図太さ〟という武器を
  手に入れたからに
ほかなりません。

それはもちろん
(無駄に)経験を積んだ、
(無駄に)年齢を重ねた
からなのかもしれません。

けれど、そこには、はっきりとした理由があります。

それは
①自己肯定感に変化が生じたこと。
②「絶対に大切な物は手放すことはできない、手放さない」という「強い気持ち」が芽生えたこと。

これがすさまじく自分を変えたように思うのです。

こうした想いが生まれたことにはもちろん大きなきっかけがありました。
それについては、おいおい書いていこうと思います。


こうした図太さは
崇高でもないし、
もしかすると自分自身のただのワガママなのかもしれない…
けれど

「愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない」

と、B'z先生もシャウトしてるじゃないですか。


本当に本当に好きで大好きで、

「とってもとってもとっても大好きよ」

なら手を離さないと、広末涼子さんだって言ってます、パティシエさんに!


カッコ悪くてもいい、

世界中敵に回しても構わない。

世界を逃げ回ってもいい

「離したくはない」
        T-BOLAN

そう考えていくと、なにやら
ひと組のカップルが頭に浮かんできます。
みなさんもきっと、
そうですよね…

悲劇の恋のプリンセスどころか、正真正銘のプリンセス

「それゆけ、
プリンプリンプリン、
どこまでーも(ぷりんぷりーん)」

そう言って、
手に手を取ってNYへ飛んで行ってしまった小室眞子さん、圭さん夫妻です。

世界中を敵に回してもいい、
絶対に手を離さないという
パワーと捨て身の覚悟。
誰にも渡さない。この人と生きていくためならなんだって捨てる!
というアクティブさ、
そしてなにより悲恋に対し
ポジティブに取り組む前向きすぎるほどの前傾姿勢。
推せる…。

なんだかんだ、すったもんだ、
ありましたけど、
すごい想いの強さだなと改めて思うわけです。


恋物語に
悲恋というラベルを貼って
思い出という名の引き出しにしまうのか。

血まみれになりながらも
「離しません、勝つまでは!」
の精神でいくのか。


愛のありようや、
愛の深さははかりようがなく、
答えは出ませんが…

だけど私は信じたい。

いつだって

「必ず最後に愛は勝つ」


(KAN ~完~)


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#恋愛エッセイ

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