ネアカとネクラ

また、エッセイです。

ネアカとネクラ。いやな言葉だ。いまでも、ぞっ、とする。ぼくがコドモの頃、流行った言葉だ。若い人は知らないだろう。

今風に言えば、陽キャ、陰キャ、だろうか。ネアカは、性格が明るい人、ネクラは、暗い人の事だ。

学校教育は、ネアカを生産する場所だ。とにかく、明るく元気なコドモを作ろうとする。陽気で快活なコドモは、クラスのなかでも人気者だ。ネクラは隅に追いやられる。

すると。明るく元気と認知されているコドモたちが、ネクラのコドモをいじめるという現象が起きる。あれだけ、いじめはいけません、と教えておいて。

ネアカがネクラをいじめる。学校の先生たちも、言い訳しやすい。あんなに明るい子は、いじめなんてしません、と。こうして、いじめは揉み消されて、なかった事にされる。

学校教育は、いじめを量産してしまう、という弱点をもっているのである。

だから。声を大にしていいたいのだ。ネクラをいじめては、いけない。彼らの力を引き出してあげないと、いけない。そう思うのだ。

暗い人間でないと、成し遂げられない仕事は、たくさんある。たとえば現代詩。その代表作品の多くは、暗く沈んだものだ。暗い目でしか、みえないものは沢山ある。うつむき勝ちな表情から産み出されるものも沢山あるのだ。

そして現代。相変わらず、陽キャ、陰キャで人を区別する誤った見方がまだ、残っている。明るい性格というだけで、何にも出来やしない、という人、山ほどいる。

性格は明るいのに、目が曇っているのだ。そんな人間よりも、暗く確かな眼差しの人間を活躍させるべきなのだ。

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