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イタリアその2

イタリアでは生まれて初めて一人暮らしを経験した。
私は30歳の時に結婚して実家を出たため、20代で一人暮らしを経験することなく結婚生活が始まった。

家具、食器、寝具、タオルなどの一式が揃ったホテルアパートを借りた。語学学校からの紹介のため、通常よりかなり安く借りることができた。
今回も同じアパートを借りている。
コロナとインフルエンザを乗り越えられたアパートなので、なぜだかとても安心感があるのだ。

食事はいつもスーパーで食材を買ってきて自炊している。もちろん稀に外食もする。
朝はジャムを塗ったりチーズをのせたりオイル漬けまたはマリネ漬けされた野菜をのせたりした小さな食パン4切れとヨーグルトを食べて、豆乳とエスプレッソを飲んでいる。
朝からこんなに食べるイタリア人はおそらくいないだろう。

ヨーグルトは量が少なくなったら直接食べる


昼兼夜は16時頃に大量に食べるようにしている。たいていワインを一緒に飲む。

これではタンパク質が足りないので、翌日は必ずお肉

語学学校はグループレッスンの場合、必ず初日にレベルチェックテストがあり、初級クラスか中級クラス、もしくは上級クラスに分けられる。
私は日本人あるあるで、ペーパーはわりと良くできてしまったため、中級クラスに入れられて大変な思いをした。あまりにも大変だったためコロナ回復後は初級クラスに替えてもらった。
私が2週間休んでいる間に初級クラスのレッスンもかなり進んだため、こちらですらついて行くのが大変だった。でもこのクラスはとてもフレンドリーな雰囲気で、いつもイスラエル人とパレスチナ人の男の子たちができない私を助けてくれた。
特にイスラエル人の子とは歳が親子ほど離れているにも関わらずとても気が合い、付き合っている彼女を紹介してくれた。
私はその彼女ともとても仲良くなり、今回2回目の滞在では彼らとの再会を本当に楽しみにしていた。

今回の滞在ではプライベートレッスンを選んだ。
いったん帰国した8か月の間に私は自分が理解できていない文法箇所を徹底的に勉強した。会話の時間をたくさん確保したかったからだ。
そして、友だちに関してはグループレッスンの時の友だちとたまに会えればそれで充分だと思っていた。
しかし情勢が変わり、会いたかった彼らのほとんどがイタリアからいなくなってしまった。

そんな中、ウクライナの友だちと11月4日に会う約束ができた。
「朝、バールで朝食を食べながらおしゃべりをしよう」という何ともワクワクする再会の約束だった。
しかしその日の朝、出かける支度をしている時に私は大好きな人の訃報を受けた。
悲しさでおかしくなりそうだったが、私はウクライナの友だちにとても会いたかった。
彼女の優しい顔を見て、抱きついてやっぱりワンワン泣いてしまった。
53歳なのに。
しかし10年後、63歳になったとしても同じような状況になった時、同じようにやっぱり私はワンワン泣くのだろう。

おそらく彼女と会って、全ての悲しみが溢れてしまったのだ。
イスラエル、パレスチナ、ロシア、ウクライナ。
どうにもならない、何もできない状況に。

でもその日彼女は私にとても嬉しい報告をしてくれた。
イタリア人の彼からプロポーズされたこと、来月結婚すること。
心から本当に嬉しく思った。結婚式にはウクライナからお母さんも来てくれるという。
亡くなった彼女にこの話をしたら、間違えなく「良かったね!!!」と満面の笑みで言ってくれるだろう。そう考えると心がとても暖かくなった。

イタリアでは物乞いをしている人、歩きながら傘や造花を売っている人、路上で寝ている人と様々な人がいる。
国籍に関しても、ひょっとしてニューヨークを超えるくらい様々なのではないだろうか?
でもどんな人でもなぜかジェントルさを感じるのはなぜだろうか?キリスト教の国だからか?

予定していたレッスンは全て終えた。
今回の私の目標は言われたことに反応すること。
前回は単語自体わからないものがたくさんあったので、「何を聞かれているのかさっぱりわからない」という場面がたくさんあった。
今回は概ね相手が何を言っているのか理解できるようになり、わからない時は「どういう意味?」と冷静に即座に聞き返せるようになった。
接続法も条件法もわかってきた!
そして前回ドロップアウトした中級レベルのレッスンを終えることができた。
楽しい!イタリア語は楽しい!
こうして自分の世界を少しずつ広げて行くのだ。
53歳だけどね。
53歳だからね。

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