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言葉を残すこと、不安、混濁した街。



言葉を出したい言葉を出したい言葉を出したい

ふいにその衝動に駆られることが多々ある。

でも、一度書き出してみても、それが自分の好きな言葉の並びでないと、蓋をしてしまってしまう。

大体、言葉を出したくなる時、私は不安か、思考の堂々巡りを抱えている。

一つのことを考えて、端っこの違うことが派生して、悩んで、また違うところが大きくなって、悩んで、悩んで、悩んで、

何か残さねばならないという気持ちが生まれる。

私は浮かんだ泡を放っておくことができない。
割れてしまってなくならないように、何かに残しておかなければいけないと、警告が鳴る。

不安でも
アイデアでも
高揚感でも
怒りでも

全て、言葉にして、見えるように残しておきたい。

「言葉の並びが気に入らない」というのは
その書き方では頭の中を正確に表現できていない、と感じるからだと思う。

彼が何度言ってもわかってくれなくてイライラする。

ではなくて、

彼が分かってくれないのは分かってるのに、
自分は分かってもらおうとしかしてなくて、
相手のことを考えられなくて不甲斐ないし、
もっと寄り添った言い方とか表現ができない自分を隠すために
相手に腹を立てているのを自負しているのに、直そうとしない自分に対してイライラする。

くらい詳細に残さないと気が済まない。

どこまでも感情の出どころを探していたい。

すぐに感情が出る人は「子供っぽい」とか「単細胞」だとか、考えてない人みたいな捉え方をされる時があるけど

私はその豊かな感情の出どころを探すのが趣味だと言っても過言ではない。

考えても考えても出どころが見つからない時、何かに書き出す。誰かに話す。

答えが見つかるまで、感情を追い求めたい。



一度、衝撃的な光景を見て、自分でも訳もわからず涙を流したことがある。

マレーシアの中心地、クアラルンプール。

高層ビルが立ち並び、車通りも多く、現地の人も観光客もその景色の一部のように楽しそうに、煌びやかに存在する場所。

ある日、夜市に行った帰り道。

クアラルンプールはお金のある人が沢山いるところでもあるけれど、少し視線を下げれば道路で寝る人、物乞いをする人、パフォーマンスをする人、体に障害のある人々も同時に存在する混濁した街だった。

ふいに、日本語の歌が聞こえて来て、聞きなれた言葉に振り向くと、

そこで歌っていたのは、目のないおばあさん。

見えなくて瞑っているわけではなく、ポッカリと、私たちの目がある部分が窪んで、なくなっていた。

力強く、日本語の歌を歌っていたその人を凝視することも、お金を渡すこともできず、ただただ涙が流れた。

その涙が、同情なのか、ショックなのか、恐怖なのか、その時は全くわからなかった。

フィールドワークだったので、ついて来てくれていた先生にその話をしたら、「なんで涙を流したのか、もっとよく考えてみな」と、私の体験を大切なことだと言ってくれた。

たくさん考えてたけど、なんだか、その話をたくさんの人にしていいような気がしなくて、長いこと自分の中で留めていた。

落ち着いて来て、思い出した時に人に話していたけれど、結局あの感情は私のどこから出て来たのかわからない。

もしかしたら明日わかるかもしれないし、10年後にふと気がつくのかもしれない。

いつだっていいけど、その感情が何者なのかわからないままではいられない。

いろんな人のnoteを読んでいると、自分の感情がわかってくることがある。

もしかしたら、私のこんな汚いnoteでも、誰かの感情の引き出しになるのかもしれない。

だから言葉を残すことはやめられない。

せっかく温泉で体をあっためて来たのに、書くのに夢中になって、布団も被らずにいたら足が冷たくなってしまった。

もう、すっかり冬がこんにちはしていて、お気に入りの緑のワンピースは来年までまたねをしなければならないんだね。

今日の夜は静かで、雨の音も鹿の鳴き声も聞こえない。

聞こえてくるのはいつも通り、私の頭の声だけ。

なんならこれが1番うるさい。

自分の怒りを、悲しみを、喜びを、もっともっと知りたい。そして、残したい。

あわよくば、それが誰かになんとなく届けばいいなと思っている。

目的もなく書き始めたnoteだったけど、心が落ち着いて来たから今日はここで終わり。

最近は「言葉を残すこと」についてよく考えています。

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