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さし出された愛に、愛を感じない、という自由。


こんにちは。スピリチュアルネイティブのタケルです。やっとこさ一仕事終えて、ノートを開いたところです。

はてさて、最近ぼんやり考えていたことを、整理しがてら書いてみる。


「愛」をアートで表現する

友人に、趣味の延長で絵を描いている人がいる。本業は普通の勤め人なんだが、彼女は持ち前のスピリチュアルな能力を活かして、いわゆる「降りてきたイメージ」で自動書記に近い絵を描き、時たまギャラリーなどで展示したりしている。

俺は彼女の絵が結構好きで、いくつか購入したこともある。見ているだけで落ち着くような、抽象的なデザインが多く、今でも机の上に飾ったりしている。

ただ、つい最近の彼女の絵を見た時、なぜだか、違和感が湧いたんだ。それがなんなのか、彼女をジャッジするのではなく、あくまで自分の違和感がどこから来るのかに集中して、整理してみたい。

彼女(以下、Wとする)の最新のアートテーマは、ズバリ、「愛」だった。

Wはそもそも、宇宙は無限の愛、みたいな考え方や、許しあい、慈しみあい、愛し合うことを、最大価値に置くタイプだ。なので、Wがテーマを「愛」に据えるのも、とても自然な流れのことのように思えた。

俺も、愛は大切だと思う。先日、宇多田ヒカルの新アルバムを聴いていて、「Electricity」という曲の中で、こんなことを歌っていた。


解明できないことを恐れたり
ハマる、陰謀論に 
そんな人類みんなに
アインシュタインが娘に書いた手紙
読んで欲しい
愛は光 愛は僕らの真髄

宇多田ヒカル「Electricity」より一部抜粋

なんていうか、しっくり入ってくる歌詞だった。言葉で説明できないけど、妙に納得してしまう強さがあった。思わずアインシュタインの手紙をググって読んでみた。これもかなり良かったので、興味のある人はぜひ。

話を戻して。あらゆるアートの中でも、「愛」は大きなテーマだと思う。ただ、俺はWのアートを一目見た時、なんていうか、そこに愛を感じることができなかった。

まあ、これは完全に受け手の俺の問題で、俺が感じる愛と、Wが表現している愛が別物だっただけなんだと思う。Wのアートには詩がついていて、それが絵の補足にもなっているのだが、それを読んでも、例えば宇多田ヒカルの歌詞みたいな「妙に納得する感」は得られなかった。

Wの詩をここに晒すわけにはいかないが、大まかにいうと、

愛は全ての源

という感じの内容で、彼女の、世界がこんなふうになってほしい、という願いが込められたものだった。

俺はそれを読んで、うん、それはそうだね。と思った。それはそうなんだけど、でも、愛って、実は表現することがすごく難しいのでは、と考えてしまったんだ。

Wの愛の絵には、暖かな温もりがある。誰かに抱きしめられたら、こんな気持ちになるよね、という感じ。それはもちろん、愛、なのだろうけれど。


父がくれた、愛?

これを書いているうちに、ふと思い出したんだが。俺はかなり昔に、父親から「愛してる」と真正面から言われたことがある。当時はすでに離婚していたんだが、小学生を卒業する頃、父親と再会した時に、こう言われたんだ。

「タケル、お父さんは、離れていても、お前を愛している」

父は、俺をまっすぐ見てこう言った。なんていうか、父もまた古い時代の男ではあるんだが、一方で「愛してる」ということを恥ずかしげもなく伝える、まっすぐな男だった。すでに他界しているが、俺は今でもそんな素直な父さんを尊敬している。

でも、当時の俺は、そこに愛を感じることができなかった。俺は父さんと一緒にいたかったし、この時も離れたくはなかった。離れていても、愛してる。それって、素敵なこと。だけど、俺は一緒にいられないのが寂しい。寂しくて、父さんの愛を感じることが、この時はとても難しかった。

愛してるなら、そばにいてくれよ。
ちゃんと俺そのものを見てから、言ってくれよ。

今にして思えば、これが俺の本音だったんだよな。

話を元に戻そう。Wの愛の絵には、父さんの「離れていても愛している」と似たようなものを感じたんだ。愛を、ただ表現することは素敵だし自由だ。けれど、愛を捧げられた側は、それを受け取る側は、「それが愛かどうか」を感じ分ける自由があり、また受け取るか否かを決める自由もある。

また、純粋に「愛って言ってるけど、俺はそこに愛を感じない」自由もある。

もちろん、Wは自分のアートによって「愛を感じること」を誰にも強制していない。ただ、俺が彼女のアートに愛を感じられなかったのは、そういう「Wの言ってる愛が、なんかふわっとしてる」という、漠然とした感想によるものだということが、見えてきた。

ニュースを見ない彼女

 Wの「愛のアート」に疑問を感じた理由のもう一つは、ふとした会話にもきっかけがある。ギャラリーで久しぶりに会った俺は、その場の思いつきで、朝方見たイスラエルのガザ侵攻のニュースについて、話題を振った。

するとWはこういった。「あー、ごめんタケル、私、ニュースって見られないんだ。見ていると、辛くなる映像が多くって、1日中落ち込んでしまうの。だから自分を守るためにも、見てない」

「あ、そうか。そうだよね、ああいう映像ってしんどいし。じゃあ、新聞とかは…」

Wは、黙って首を振った。ちょっと、気まずい空気が流れた。てかなんで俺も、ガザの話題を振ったんだろう。今思えば、彼女の定義する愛について知るために、今現在世界で繰り広げられている戦争についてどう思うか? 聞いてみたくなったんだと思う。

言葉に詰まった俺は、まあ、そうだよねと言って、すぐに話題を変えた。Wの言いたいことは、俺にもよくわかる。実は俺も、犯罪系のニュースはほとんど見られない。感受性が高いのか共感性が強いのか自分でもよくわからないが、どうにも息苦しくなってしまう。なので、なるべく映像に触れなくて済むよう、この手の話題は、ネットの新聞媒体を中心に、最低限これはと思うものを、チェックするようにしてる。(ちなみに俺は、暴力的な描写のある作品もNG)

ただ、俺はそれ以外のニュース(国際政治や国内の諸問題など)はなるべく時間のある時に、録画したものに目を通すようにしてる。戦争関連のニュースも、映像としては目を背けたくなるものが多いが、自分の身近な問題として受け止めたい思いもあって、ある程度しんどくても、目を背けないようにしている。

俺は、Wの愛溢れるギャラリーで、モヤっとした思いがわいた。家に帰って、これってなんだろう、と考えてみて行き着いたのは、

大事なものから目を背けた「愛」は、俺にとって、「愛じゃないのかもしれない」ということだった。

ちょっと乱暴なまとめかもしれないが、俺がWの愛アートに愛を感じなかった理由が、これではっきり見えてきた。

俺をよく見ずに、「愛してる」という父。
世界情勢から目を背けて、愛を表現するW。

そこに、確かに愛はある。その有無は、誰にも侵せないし、否定すべきではない。
ただ俺は、「大事なものから目を背けて表現された愛」に、「愛」を感じることができない人間なんだな。

一方で、宇多田ヒカルの歌詞に、素直に愛を感じることができたのは、真実のところはわからないけれど、彼女が見るべきものと向き合った上で、放たれた言葉だと、感じたからなのかもしれない。

書いたらスッキリした。読んでくれてありがとう。

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