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悲劇のヒロインはもうやめだ

ゲイだから辛かったことと、幸せだったことを比べてどっちが多かったか?なんて質問を受けたら、現状の僕は「幸せだったこと」と言ってしまう。

なんで、「言ってしまう」という表現をしたかというと、世間のイメージは未だに「ゲイであることを抱えて生きることは大変だ。」というものが強いのかなと感じているからなんですよね。

確かに、実際大変は大変なんですよね。
「ゲイです!」とカミングアウトした瞬間、人間関係が破綻する可能性も大いにあるし、職場や学校で無視されたりして、大切な居場所を失う可能性だってあるし。
ありのままの自分を受け入れられないことは、とても辛いことなのかもしれないですし。

でも、でもですよ?
これ、世の中の90%が同性愛者で残り10%が異性愛者だったと仮定しますよ。それで、異性同士付き合うことはなんらおかしくない!普通のことなんだ!と声高に世の中が叫んでいたとして、同性愛者全員が、「その通り!自分とは違う人間も受け入れなければならない!」となると思いますか?

ゲイの自分の意見を率直に言わせてもらうと、「ならない。」です。

LGBTQは性的マイノリティ同士、みんな仲良くやっているというイメージが強いかもしれませんが、残念ながらそうでもないです。しかも、お互いの世界をわかっているかというとそうでもないです。
僕に関していうと、LGBTQのG(ゲイ)の世界しかわからない、いや、ゲイの世界もまだよくわかっていないというのが事実です。

例えば、僕にはレズビアンの友人がいません。なぜなら、普通にゲイとして生きていてもレズビアンの方に会うことがないからです。
僕の交友範囲が狭いというのも大きな原因だとは思いますが、僕のゲイの友達もレズビアンの友人や知り合いがいないと言っていたので、意外とそういうものなのだろうと思います。だから、レズビアンの方達の悩みや幸せなんかも、本質的には理解できておらず、僕たちゲイと同じようなことで苦悩したり、幸福を感じるんだろうな、という荒いイメージしか抱けていません。

それに、ゲイがみんな仲良しでもないです。
普通に苦手な人だっています。いや、むしろゲイの真の絶望は同じゲイに信用できる人間が少ないということなんじゃないか?とすら疑ってしまうくらい、色々面倒なことがあります。(論点がずれてしまうので、この話は別の機会にでも。笑)

つまり、同じ同性愛者同士でも理解し合えていないのに、異性愛者のことを理解するなんて相当難しい、なんて思っちゃうのが率直な意見です。

だから、理解できない人がいるという現実を受け入れることが大事なんじゃないかと思うわけです。

いや、さらに厳密に言うと、理解はできるけど受け入れられない人がいるという現実を受け入れることが大事だと思うわけです。

頭では理解しても、心が受け入れられないということはセクシャリティの問題に関わらずたくさんあるわけでして。
だから、例えば僕が「ゲイです!」と誰かにカミングアウトしたとして、カミングアウトした人に距離を置かれても当然といえば当然だなと思ったりするわけです。

いや!めっちゃ悲しいですよ?
あー、ゲイに生まれなきゃよかった・・・、なんて思うこともあったりしますよ?
でも、絶対受け入れろ!って強制的に押し付けるのは何か違うな?とも思うわけです。

例えば、僕がゲイの友人に、いわゆるイケメンなゲイを紹介されてですよ。この人めちゃくちゃ良い人だから、付き合えよ!って強制されたとしますね。
確かに、見た目も性格も良い、付き合ったら幸せになりそう・・・と頭では理解できるんですが、心の中では、

「だが、断る!」

なんですよね。

俺は、太くて見た目がムーミンみたいな男が好きなんだ!
見た目は草食系だけど、中身はしっかり者な太い男が好きなんだ!
いわゆるイケメンには興味がないんだ!笑

ということなんですよ。

頭で良さは理解できても、心が受け入れるかどうかは別というのは、普段の恋愛でも頻繁に起きていることなんじゃないでしょうか。

だから、誤解を恐れずに強い言葉で言わせていただくと、
同性愛者である自分を受け入れない人間や社会は悪だ!
なんていうのは少し違うんじゃないか?と思うわけです。

裏切り者!なんて言われちゃいますかね?笑
いや、何も裏切ってないですからね。
僕が言いたいのは、弱者だからこそ持ちうる暴力性に気をつけなくちゃいけないんじゃないか?ってことです。

弱者が社会的に受け入れられ始め、社会的な正義が与えられた時、これまで正義だった側の人間が悪になるという図式は長い歴史の中で繰り返されてきたと思います。

誰かを悪者にして、逆の立場の人間を正義とする構図は終わらせた方が良いと思うんですよね。だって不毛にも程がありません?ずっとループするんですよ?
時代によって価値観が変動する度に、誰かが悪役で誰かが正義の味方をやり続けるんです。終わらない茶番を見せ続けられている気分になりませんか?

「お前は、同性愛者が苦しんだ時代を知らないからだ!苦しんで勝ち取ってきた権利にあぐらをかいているような人間が偉そうなことを言ってるんじゃないよ!」って仰る人がいらっしゃるのもわかります。確かにその一面があるのは否定できません。でも、意外と僕のような意見の方って世代を問わずいらっしゃるんですよね。
それこそ、僕が知る限り20代〜70代まで。

彼らや僕が求めるものは何かというと、
無理矢理な理解なんかよりも、そっとしておいてくれ、ってことなんです。

別に肯定しなくても良いから、否定もしないでくれって感じです。
こっちはこっちで迷惑かけない範囲で好きなようにやるから、そっとしておいてくれって感じです。

もちろん、頭でも心でも理解してくれる人には感謝しかないです。
そういう稀有な方がたくさん増えるといいなと思っています。
でも、心で納得していない頭でっかちな理解ならば、
「理解できないわ、ごめん。だから、そっとしとくね。」と言われた方がよっぽど嬉しいです。

今は心で理解できない人も、いつか理解してくれる日が来るかもしれないですしね。

多様性を受け入れるということで、受け入れられ始めてきた僕たちセクシャルマイノリティが、僕たちを受け入れられない人がいることを否定するのは、それこそ多様性を受け入れることの否定になるんじゃないか?と思っちゃうんですよね。

何かを否定せずに共存することって、無茶苦茶難しいことだとは思うんです。
表と裏の関係性の価値観って山ほどあって正当性を主張すればするほど、相手の否定になっちゃいますし。
でも、そこを程よい無関心で共存できないかな?なんて期待してるんですよね。

「セクシャリマイノリティを否定してはいけません。」と、セクシャリマイノリティではない人たちが作ってくれたルールのもとで、「否定する人間は悪だ!」なんて誰かを糾弾するのではなく。

否定されたり、理解されなかったりすることの苦しさを人よりもたくさん経験しがちな僕たちセクシャリマイノリティこそが、「受け入れられないこともあるよね。でも、いつかわかってもらえると嬉しいな。」という姿勢でいることが、傷つく人が少ない共存の仕方なんじゃないかなと今は思うわけです。







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