生きてるだけで創造神 と思った話。
ずっと、長いこと、生きる目的は何だろうって考えていました。
街で人とすれ違うたびに、「この人たちは一体何が楽しくて生きてるんだろう」って考えてました(失礼極まりないですがw)。
精神科に通っていたときぽろっとそれを言ったら、いつもはあたたかくて優しげな先生が、急になんだかピリッとした顔つきになって嫌でした。
答えられなくてもいいけど、そんな嫌そうな顔しないでほしかった・・・わたしはあの顔を見逃さなかった。w
でも今は、自分で答えられます。
生きる目的はない。目的が生きることだ。
人間って、生きているだけでいろいろ感じますよね。
「おいしい」とか「心地よい」とか「暗い」とか「怖い」とか。
そもそも「これは椅子だ」とか「この人はお母さん」とか、概念を構築しながら生きてます。
この前寝起きに、部屋に謎の木材が浮かんでいて
「なんじゃこりゃ!?」と思ってよく見たら椅子の背もたれだったんですよ。ww
ああ、概念がないとこんな風に見えるんだ。って思いました。
概念、つまりゲシュタルトですね。
ゲシュタルトをわざわざ生成している。それが人間なんだなーって漠然と思いました。
本当は「おいしい←→まずい」とか「明るい←→暗い」とかもないのに、自分でわざわざルールを決めて認識しているわけですね。
てことは、自分の勝手に作ったルールでしんどいときは、いったんゲシュタルトを意図的に崩壊させちゃえばいいんだな。なんてことも思いました。
たとえば「好きな人のこういうところが嫌!」ってなったときに、それを決めてるのは自分だなーって思ったら、
そのルールで苦しむの馬鹿馬鹿しいなってなります。
むしろ、「この人がわたしの好きな人」っていうルールを自分で作っていることに、幸福感があることに気づきます。
・・・もし幸福感がないんだったら、それはもう「好きな人」じゃないですね・・・w 自分にうそをついていることがわかってしまいますね。
ゲシュタルト、ルールは全部自分で作っている。いくらでも作り直せるし、やりたいようにやればいいんですよね。
まあ生理的嫌悪感とかはゲシュタルト崩壊させるの難しいですけどw 少なくとも肉体に乗っている間はw
それから、以前、明晰夢を見たときに
いちいち夢の中のすべてのものを自分が思い浮かべているわけではないのに、そこに壁があって机があるってすごいな。って思いました。
この壁とか机とか、自分のご神体が作ってるってことじゃん。かっけえ。
・・・ってことは、起きているときも明晰夢なのでは??
舞台が設定されて、その中を好きなように動くんだから、同じじゃん。
明晰夢だと思って現実を認識したら、なんかめっちゃ感動しました。
「すげえ、引き出しの中にちゃんとペン入ってるわ!」みたいな。
「全身に重力を感じる!おおお!」みたいな。
全部、クリエイターである自分、神様が作っているんだ。
認識が世界を作るって、そういうことか。すげえ!
本当は何もないのに、わたしがいることでわたしの世界が出現している。
当然のものなんかなくて、奇跡しかない。
クリエイターである自分(神、魂)が楽しみたくて、プレイヤーとしての自分(生命、人間)をわざわざここに送り込んでいる。
わたしは魂がやりたいことをやっているんだ。
むしろやりたいことしかしていない。
心からそう思えました。
しかもわざわざ脳みそがルール作って、これはOK、あれはNG、って認識しているなんて、もはや自分が創造神だ。
そしたらなんかワ――って幸福物質?みたいなのが出て、頭頂部がうずうずしましたw クラウンチャクラってやつでしょうか?よくわかりませんが。
第7チャクラの開き方、なんて偉そうなタイトルはとてもつけられませんけど。
生きるって最高ですね。そのとき初めて知りました。生きる理由とか必要なかったです。生きててよかったです。
読んでくださってありがとうございます^^
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