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思考と視野狭窄

不幸な事件

人間、考え事や悩みを持つと、どうしても思考の視野が狭くなる…
その狭くなったところに、何かのつながりのようなものを見出すと、それと、さも因果関係があるかのような錯覚を抱く人も多い…

この不幸な事件も、犯人の一方的な勘違いという内容かと…
それでも家庭の不遇に関して、その矛先は自分の親ではなく、親をたぶらかしたと犯人が思う宗教団体、そしてその宗教団体に言葉を贈った元総理ということで、いつの間にか、犯人にとっては、悪いのは元総理に転嫁された。

その宗教団体がどういったものかは知らないが、ビデオメッセージで深く関係していると思うのは如何なものなのだろうか?

例えてみると、町内会の運営が嫌で、町内会役員に何かギャフンと言わせたいと思っていると仮定して、たまたま町内の盆踊り大会に、県知事さんが挨拶にきた時に、町内会を操っている奴は県知事だ、県知事に復習だって思うんだろうか?

明らかに思考が飛躍しているし、そのような考えに至るのは、視野狭窄の果なのではないだろうか…

視野狭窄

それだけに視野狭窄を排除できる術を自分で知らないと、思考の勘所が完全にズレていても、本人はそれが正解だと勘違いしていることに気づかず先に進もうとする…

一人悶々と笑いであれ、恨みであれ、問題であれ、行動であれ、何かにとりつかれたように考え込むと、どんな人であれ、その熱中度の高さにより思考の視野狭窄の罠に陥ると思う…

まあ、思考の視野狭窄を逆手にとって、試験勉強とか、学校の定期試験に向けて学習する際などは、周りの雑音を遮断し、のめり込む点で良い方向に作用すると思われるが…

それでも、それが慣習となり、勉強や資格試験等で発揮する分は良いかも知れないけど、変な宗教や信条等に転嫁してしまうと、途端に変な人扱いされなくもない…

時折やらかす

昔、優等生だったと評判だった人とか、高学歴の人が、時折変なことをやらかすのは、そのような慣習と、そして論文などでの先行研究が疎かだった人に共通するのでは、と思ったりする。

優等生も、オールマイティな人は少ないかも知れないけど、いわゆる勉強だけできるタイプって、もう暗記的なことだけに特化してるって感じですよね〜♬ 逆にそれと違うことに関しては、そうでもなかったり…

先行研究は、自分の考えや成果がオリジナルであるのか否かを徹底的に調べ上げるというものです。過去に誰もそれを表明せず記録していないことをひたすら地道に調べるとともに、過去の研究成果と、自分の持つオリジナリティの論とは、どういう点で異なるのかが説明できなければならない。

この過程で、少なくとも自分のオリジナリティがあると思われる論に関係する分野は一通り総ざらいすることとなるわけで、博士学位を持っている研究者や専門家の研究内容に近いところの質問をしても、そこそこ妥当な見解を返してくれる人が多いのは、そういうところの努力に起因している。

逆に、その研究者の周辺分野の知見に関する質問を、それに近いところから遠いところまで色々としていくと、その人の研究の土台がどの辺まで及んでいるのかよく分かるというもの…。しかも、これって、10年そこらで忘れるようなものでもない…。

おっと、話がずれてきたので軌道修正で元に戻ると、高学歴の人が変な宗教や考えに染まってしまっている場合は、その先行研究のやり方が杜撰だった人なんだろうと個人的には思っています。

もっと具体的に言うと、自分の論というものがあって、その論に似たものだけを拾って、自分の論の周辺に配置し、さも自分の論はオリジナリティがあるのだと思っている輩なのだろう… こじつけとも言うべき論述は、最近の論文に多いので、質の低下を憂う人も多いけど、それは日本に限らず、欧米系も中国系(わたしは中国語はわからないので、英文の論文を読んでの感想)も同様かと…

つまりは自分の論に似たものだけを選りすぐるだけなので、考察範囲は必然的に狭くなり、かつ考察の深さもないということになるわけで、あまたある先行論文の中から、自分の研究の位置づけというものが出来ていないとも言える…

故に、先行研究で思いっきり考察出来ていないような者は、研究以外でも周りを俯瞰し、自分の論や主張の立ち位置がわからないことに繋がるように思うわけです… もちろん学問と生活にきっちりと壁を設けている人もいるかも知れませんが…

まあ、論文などでは、仮に全体が視野狭窄に陥っていても、それを指導する人や査読者から、その内容を問いただすことがあるので、そこのところは軌道修正も含め、指導者や査読者の力量によるところが大きいかも知れないけれど、独り立ちした研究者や専門家は、その後、自分の勉強不足からの泣き言なんか言えなくなるよね~♬

最近は研究者や専門家と言われる人でも「?」な人が多くなって、まずはその人達を見極めるところからスタートしないと、とんでもな人から指導を受けることになるから注意が必要ですね… 「?」のところは、みなさんのご想像におまかせします。

個人での視野狭窄対応

さて、個人で視野狭窄に陥らないためには、日頃からブロードにものを見ていく、認識していく習慣が必要ですね…

視野狭窄に陥っているなと個人的に感じたら、別のことに一時的にでも関心を向けることは必要かと思います。好きな映画のDVDを観るなり、音楽を聴くなりして、一旦、思考から抜け出ることはおすすめですね…

わたしの場合は、人にはあまりおすすめしませんが、自分の思考の訓練として、本を複数冊同時に読んでます…

これは、ある本の著者になったつもりで、他の本にツッコミを入れながら読んでいくっていうものです。別に難しい本を読む必要なく、必ずしも本を書いた著者の言葉をすんなり受け入れるわけでなく、自分で考えながら読み進めるので、薄い本でも色々と活用でき、ためになります。

昔は通勤バックに5~6冊入れて持ち歩いていましたが、今は紙の本1冊と、あとはiPad miniにいれているKindle本を活用しています。

まあ視野狭窄対応というか、考えながら読む習慣が第一かと思います。それ以外に、わたしの文章は若い頃からお硬い文章しか書けなくて、わかりやすく簡易な文章を書く訓練の一つとして、簡単に述べられているような、内容は問わない本を参考にしたりしています。なので、ノウハウ本とか、何かの説明本などは結構目を通していたりします。

昔から

学校の勉強でも、60分、ないし90分に1回程度休憩時間が設けられているように、何かに集中して煮詰まってしまうと、人間ろくなことを考えなかったりするわけで、適度な休憩が必要なのだろう…

集中している時は、不思議と物事の進度が早く感じられるけど、後で思い起こすと、そうでもなかったりしますよね~♬ 自分の感覚だけが高ぶっていただけとか…

まあ、そうならないように適度に集中し、適度に緩めることって、人間にとっては重要なのかも… 思考の視野狭窄は思わぬ帰結になることもあるので、それをいつでも俯瞰で眺めることができるように、自分を制御するって大事なんですよね~♬

さてと、ではわたしはこれからコーヒーブレイクでも…

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