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ぶざまな退職/企業からの現実逃避 (前編)

就職活動から内定まで

他の投稿でも書いていますように、私は高校三年生の秋に事故に遭い3度の入院手術のために大学に入るのも人よりも数年遅れました。それは言い訳で単に頭も悪かっただけなのですが。

大学4年生の時にバスケットのコーチになりあまり就職活動ができなかったのですが、そもそも人より遅れて大学に入っているので、まず金融機関などは最初から応募資格もありませんでした。

大学4年時の8月まで夏の合宿は続き9月末から2か月の秋のリーグ戦のコーチ(春の時はノイローゼ気味にまでなったコーチ役なのにすっかり慣れていました)をしながら就職活動をするのはやはり大変なことでした。

私の希望はただただ海外勤務(international assignments)の可能性が高い企業のみを回っていました。

ジェトロ(日本貿易振興会)などで働けたらいいなあと淡い夢を抱いていましたが、ハードル高すぎ。商社は全滅。航空会社もすべて行く前から何らかのコネで決まっていたそうです。

結局、内定の可能性があるのは、 3社のみ。外食産業、旅行会社そして輸入産業の大手企業。

外食産業は早々に決まりましたが、その会社は九州発祥で内定者が集められある店の責任者の話を聞いていたら「うちは九州の発祥だから、もう九州の人間はいらないんだよね」と。

私はその言葉を聞いた直後に席を立ち、「だったら自分は九州出身なので内定を辞退します」と告げて帰りました。

海外での研修があることのみが魅力だったので悔いはありませんでした。旅行会社に関しては、バスケット同期から「おまえは旅行会社には向いてないって!」と皆から言われ、ではどこに行けばいいのか旅行会社内定を断れば、残るはまだ内定していない輸入産業一つのみ。

幸い、輸入産業の会社最終面接まで残りその段階になるとさすがにつわものぞろい。たとえ落ちても添乗員で旗を持っての旅行代理店はもう想像できませんでした。

この第5次最終面接の結果通知が来るまでどれぐらい待ったか忘れましたが、多分人生で一番緊張していたんじゃないかと思います。

その採用合格通知が届いたときは信じられないのと嬉しさで、多分、叫んだのではないかと思います。地元でも少し評判になったくらいの企業でした。

入社後の研修期間と実践

私が入社した当時は円安傾向が進み輸入産業にとっては逆風で、それまで研修期間は 1年間あったのですが私の代から 4カ月に短縮されました。

研修期間は全力で日々充実していてどんなにきつくても楽しく過ごしていたのですが、いくら大看板があるとはいえ入社5か月目から実践に出ていったい何をすればいいのか全く分りませんでした。

最初は地元採用の 40才前後の人に付いて仕事をしていましたが、失望の連続でした。それで課長に申し出て付く人を変えてもらいました。

この時点で現地採用の人たちをほぼ敵に。

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