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糞フェミでも恋がしたい (その36)

私の名は能條まどか。糞フェミだ。

糞フェミでも自由になりたいのだ、なりたいというより、なるべきだ、いや、本当はすべての人が自由になるべきなのだ、しかしなれない、皮肉なことに、私を含めて糞フェミは、それを体現している存在だ、自由になりたくてもなれないのだ、それは、価値観の狭間に押し込められ潰されてしまったがために、逃げ場を失ってしまったがために、従順ないい子であることを己の中で義務づけてしまったがために、自由は、手の届かないところに行ってしまったのだ、哀しいかな、自分でそれに気付きすらしないほどに、自由は、遠い遠いところに行ってしまったのだ。

だから。

糞フェミは可哀想な化け物だと言われてもそうですねとしか言えない。

理想の価値観と現実の価値観の差異、差異こそは元凶だ、私の場合は、圧倒的に強大で魅力的で雄として傍若無人なまでの優位性を持った父親という存在に、骨の随まで心酔してしまったこと、そして、いままで言わなかったけれど、もうひとつの大きな原因、思春期のころに、愚にもつかない低脳で矮小で卑俗でまるでゴミ虫のごとき塵芥のごとき無価値で下衆な同級生の男どもに、容姿や体型を揶揄われ虐められたこと、この、あまりにも苛烈な二極対立の間に、私の心は歪められ、捻じれ、軋み、悲鳴を上げて、そしてその悲鳴は誰にも聞かれることなく、静かに、そして確実に慈愛は死に、禍々しい何かへと変貌し、真っ黒な感情となって、ヒステリックで衝動的な欲望に取って代わられてしまった、嫌で嫌でしかたがないのに、自分が、嫌で嫌でしかたがないのに。

実際のところは知らないし、知りたくもないけど、きっと世間を騒がせている糞フェミ怪物化したみんなにも、そういった軋轢の人生があったのではないかと思うし、あったと語る友人もいるし、まあ、だからといって、そんなの、誰のせいすべきことでもないだろうし、みんな黙って自分の人生を背負って、老いて死んでいけばいいんだろうけど、少しぐらいは分かって欲しいと思うのが情で、少しぐらいは泣きたいと思うのが情で、少しぐらいは幸せを感じたいと思うのが情で、少しぐらいは自由になりたいと願うのが情なのだ。

だから。

糞フェミは可哀想な化け物だと言われてもそうですねとしか言えないのだ。

同情されることなど、まっぴらなのだが、言えることはひとつしかない、神を信じるな、絶対者を信じるな、そこに自分のすべてをあずけてしまえば、いずれ逃げようのない陥穽に落ちてしまう、いい子であろうとすればするほど、その陥穽は深い、善を疑え、常識や良識を疑え、つばを吐きかけろ、邪悪の中にこそ救いはある、破戒と、罪業の中にこそ、救いはある、捨てろ、放棄しろ、なにもかも投げてしまえ、それが答えだ、自分の中の価値観をなくしてしまえ、駄目にしてしまえ、ぶっ壊してしまえ、たとえそのために自分がぶっ壊れたってかまうもんか、きっとそれが、生きるということだったんだ、生きるということは、石器時代の昔から、環境や状況に柔軟に機敏に対応するということで、臨機応援ということで、瞬発力ということで、何かに拘泥して思考を鈍らせたり、執着して判断を誤らせたり、逡巡して行動を遅らせたりするのが本来ではないはずだ、枠組みの中で開花する才能は、そのときだけのもので、一時的な、局所的な、限定的なもので、人間本来が持っている、生きるという才能は、枠組みなどと関係なく、変転する自然の中で縦横に開花するべきものであって、もちろん己の能力を超えた試練に迫られれば、当然のように死はやってくるけれど、それすらも生の一部として、柔軟に受け入れて行くことこそ、生きるということの強さなのではなかったか。

幸いにも私は、神などという曖昧で不定形な価値観に隷属することなく、苦しみの輪廻から脱する機会を得た、糞フェミにもチャンスはあったのだ、自然の摂理によって、生かされているというそのものによって、私にも自由への扉に手をかけるタイミングは巡ってきたのだ、ならば、開けよう、その扉を、素っ裸になって、感情を解放させて、恥も外聞も、なにもかもかなぐり捨てて、自分の中の、慈愛と、淫乱と、誠実と、欲望と、そして自分はこんなにも自分のことが好きなのだという自己肯定の意識とともに、開けよう、その扉を、そして、優しくて、愛しくて、ちょっとだけ逞しい、綺羅君の腕に抱かれよう、心から隷属する雌として。

さて、アジ演説はこれくらいにしようか。

綺羅君と私の輝ける未来のために、命懸けでも通らなければならない関門、私の父親へのアプローチはまだまだ時期尚早として、まずは母親へのアプローチを実行、イベントで出会ったフェミ仲間や、すみれちゃんや、原宿のハイブランドのアパレルの知り合いや、ちょっとした有象無象を集め、家に招いて夕食会、そこに綺羅君を混ぜて、将来有望な若者として、それとなく母親と顔合わせだ、もちろん女装はいけない、小綺麗で清潔感のある、細いながらも男らしい服を着せて、髪もワックスで整えて、ああ、綺羅君はこういう雰囲気にしても、もちろん素敵だなあ、惚れなおすよ、ふひひひひひひひひひ、そして私の母親の前へ、雌の直感鋭いあいつのことだから、こちらが何も言わなくても空気で察する、私と綺羅君の距離感や、手の触れ方で、それはもう見たまんま伝わる、中学生だといって紹介したら、さすがに母親も面食らっていたけれど、口には出さなかったな、そういうのを飲み込んで、状況を計算するのが得意なのだ、あれはそういう生き物なのだ、そしてなにより、人間を洞察するというか、値踏みをするというか、綺羅君というひとりの男がどれほどの器か、度量か、推し量るだけの力を持っている、その家柄や、生まれや、育ちや、社会の中でどれほどの実績を残せる雄であるか、見抜く目を持っている、花街で、海千山千の官僚や政治家や胡散臭い男どもを相手に、看板を切り盛りして行く才覚は、伊達や酔狂で身につけられるものではないと、本人も言っていた気がする、ああ、そうでございますとも、毒親さまのおっしゃるとおりでございますとも、こっちは反論をすることすら許されない、辟易するが、こいつは辟易するだけの実力を持った雌だ、その雌に、どうにか見込まれたらしい綺羅君に、拍手するしかない、喝采するしかない、前途多難なれど、天気晴朗で、波はまあ、ぼちぼち凪いでるのだから。

つづき→ https://note.mu/feministicbitch/n/n92aa1c9f875f

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