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『孔雀とナイフとヒエラルキー』第4幕

ナイフ

1

 友美が姿を消してから一晩。朝のニュースでは相変わらず話が続いていて、私たちの学校の前には報道陣が昨日よりも多い数で押し寄せていた。私は両親や先生方から勧められて学校を休むことにしていたが、この状況では行かない方が良かったとニュースを見て思った。登校中の同級生たちが何人か映った。マスコミの人々が彼らに声をかけた。

「すみません、今回の事件について何か知っていますか?」
 リポーターが訊ねる。
「いえ知らないので、ちょっと……」
 みんな、どう答えていいのか悩んでいたようだった。ある者はずっと考えて答えを絞り出し、またある者は簡単に答えて駆け足で去っていった。

 それはそうだと私は思った。私だって理解が追いついていない部分があった。友美は一体何を考えているんだろう。そう思った瞬間、私は咲と初めて会話した時のことを思い返した。放課後、廊下で言われた言葉が思い返された。あの時私は咲の考えていることが理解できずにいた。だが、この二日間は友美の考えていることがわからなくなっていた。

 状況は刻一刻と変化していた。警察が友美の家を調べはじめた。彼女の家がテレビの画面に映し出される。何人もの警察官らしき人物たちが家を出入りしていた。あの家には友美以外の住んでいる人はいなかった。彼女の人生が調べられていくのを見て私は彼女の人生に思いを馳せた。

 テレビを夢中で見ていると玄関のチャイムが鳴った。お母さんがすぐに出ると警察の人が私に話を聞きに来たとのことだった。私が玄関に出ると、整った顔の男性と綺麗な女性が二人立っていた。男性の方が先に話をはじめた。
「……署の青木です。隣にいるのは吉原といいます。昨日の件についてお伺いしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
 私は青木さんという男性刑事と吉原さんという女性刑事の二人を家の中に入れた。お母さんが人数分のお茶を用意してくれた。
「まずは昨日の件で心が落ち着かないかとは思います。怪我の具合はどうですか?」
「まだ落ち着かないです。怪我もまだ痛みが残っています」
「そうですか。私たちも突然のことだったので今でも状況が飲み込めずにいます」
 青木さんがお茶を飲んで、一呼吸置いた。真剣な目でこちらを見てきた。
「早速本題に入らせていただきます。昨日の夕方の詳細を教えてください」
「わかりました」

 青木さんと吉原さんがそれぞれメモ帳とペンを取り出した。青木さんが質問を始めた。
「それでは、まず昨日の夕方何がありましたか?」
「昨日の夕方、私は石崎さんに呼び出されて、誰もいない教室で話をしていました。その途中で石崎さんがナイフを持ち出して、私のことを切りつけようとしました」
「それで?」
「慌てて左腕で庇ったら、切られました……」

 私は切られた左腕の方を見せた。包帯を巻いてはいたがまだ痛みが残っていた。
「わかりました。佐野さんと石崎さんの関係は?」
「友達です。高校に進学して部活に入ったらなんとなく遊ぶことが増えて、友達になりました」
「なるほど」

 青木さんが何かをメモに記した。両者無言になったところでずっと話を聞いていた吉原さんが手を挙げた。
「すみません。今聞くのもあれなのですが、石崎さんはどういった人ですか?」
 頭の中で私は悩んでいた。この二人の刑事さんにどこまで言っていいのかを。どこまで言わなければ友美のことを守れるのかを。何も言えずにいると吉原さんはため息をついた。
「佐野さん。あなた友達だからと言って石崎さんのことを悪く言いたくないんでしょ。わかるよ。でもね。事はもう彼女のことを擁護できる段階ではないのよ」

 彼女はバックの中から紙を一枚取り出した。それは写真だった。場所は街にある大きな公園で制服姿から着替えた友美の姿が写っていた。手にはナイフが握られていて、彼女のそばには倒れた犬が写っていた。
「昨日の夜中に撮られた物よ。朝になってその場所で刺し殺された犬が見つかっている。つまり、わかるよね」
「そんな……」
 友美は超えてはならない一線を越えようとしていた。いや、私を殺そうとした段階で彼女は一線を越えたのだとこの時気づいた。
「彼女は人を殺す気満々よ。一刻も早く見つけないと取り返しのつかないことになる」
「吉原、それは言い過ぎでは……」
「うっさい、青木お前は黙ってろ」
 吉原さんは青木さんのことを睨みつけた。

「佐野さん、あなたわかっているでしょ、あいつはもう擁護し切れないって」
 それはその通りだった。私にはもう彼女のことを擁護できそうになかった。だからと言って、この高圧的な刑事を前に何も言うことができなかった。
「何も言わないってことはそれを認めるってことね。だったらあいつが何を考えているのか見当もつくんでしょ。教えて。教えなかった、あなたのもう一人の友達のことも捕まえるけど」
「吉原やめ……」
「引っ込んでろ、この能無しが!」

 この刑事は青木さんのことを蹴り飛ばした。青木さんが倒れ込み、慌ててお母さんが駆け寄った。青木さんは気絶したようだった。
 この刑事は狂っていた。誰かを捕まえるためならどんな手段に出ても良いと思っている。そんな狂った人間だった。
「それはやめてください!」
「あんたにそれを言う権利は無い。邪魔するならあなたも捕まえるわよ」

「うちでなんてことしてくれるの!」
 お母さんがついに口を出した。
「お母さん。じゃああなたも逮捕しますよ」
「上等じゃない! 捕まえられるものなら捕まえてみなさい!」

 そこから少しの間膠着が続いた。睨み合いが続いている中で誰かのスマホが鳴った。吉原刑事のスマホだった。
「はいもしもし、吉原です。はい。はい。わかりました。すぐ向かいます。え、青木? あいつは後で向かわせます。じゃあ失礼します」
 通話切った吉原刑事は荷物をまとめ始めた。
「よかったわね。事件に進展があったわ。私は現場に行くからこの能無しのことは頼んだ。じゃあ」
 言い残して彼女は颯爽と家を出ていった。

 それから三十分ほどが経って青木さんが目を覚ました。私とお母さんはあの後のことを詳細に伝えた。
「うちの吉原がすみません……」
「何なんですか、あの刑事は!」
 お母さんが責め立てた。青木さんは申し訳なさそうな顔をしていた。

「うちの署でもマッドドックと言われている刑事でして。まあ、さっきからずっと音声レコーダーで会話を録音していたので、後で上に報告しておきます」
「ありがとうございます……」
「こちらこそ、すみませんでした」
 青木さんは深々とお辞儀をして帰っていった。

 いくら狂った刑事だったとはいえ、吉原刑事が言っていることは間違えではなかった。友美はもう取り返しのつかない領域まで足を踏み入れていた。やはり彼女を助けることはできないのだろうか。いや、まだ手はあるはずだ。それを探そう。そんなことを思っていた矢先だった。

 青木さんが帰ってから時間が経って日が傾き始めた頃、私のスマホが鳴り始めた。お母さんは買い物に出てしまっていて、静かな部屋に着信音だけが鳴り響く。佐伯くんからの着信だった。私は嫌な予感がした。急いで通話に応じた。
「もしもし」
「もしもし、佐野さん。大変なんだ。咲ちゃんと連絡がつかない。咲ちゃんのお母さんも心配している」
「そんな……」

「もしかしたら、石崎さんが……」
 私は急いで外に出る準備を始めた。
「探しに行く」
「待ってよ。今、佐野さんが出たらまずい」
「そんなことはわかってる。でも、私が探さなきゃいけない気がする」
「……わかった」
 私の言葉に押し切られたのか佐伯くんは渋々了承してくれた。

 私は万が一の時のためにお母さんやお父さんに伝言を残して私は家を出た。冷たい夜に自転車を漕いだ。白い息が空に浮かんでは消えていった。

 咲がいるとしたらどこにいるだろうか。私は思いつく限りの場所を探した。喧嘩をした川辺。映画館。アクセサリーショップ。どこにもいなかった。話によれば今日はいつもよりも多くお金を持って家を出たとのことだった。どうして連絡がつかないのだろうか。まさか友美が彼女のことを……、とも考えた。
 私は彼女のことが心配だった。探し続けて一時間ほどが経って私は夜の道を歩き続けていた。すると、前方に人影が見えた。私は急いで近づいた。うっすらと顔が見えた。咲だった。

「咲!」
「……由香里」
 彼女は泣いていたようだった。どうして。そう思った瞬間、自転車のライトに照らされて彼女の全身が見えた。
「何があったの……」
 私の目の前には血塗れのナイフを持って傷だらけの咲がいた。
「私、友美を、友美を……」
 泣きじゃくる彼女は今にも壊れそうなガラス細工のようだった。

2

「ねえ、何があったの?」
 私は咲の姿を見て、思わず聞いた。彼女はただただ泣き続けていて、答えられそうな状況になかった。それでも、咲は必死で何かを伝えようとしていた。
「私ね、とも、みを……」
「友美をどうしたの?」
 彼女は泣きながら元来た道を引き返しはじめた。私は彼女の後をついて行った。

 歩き続けること数分。人気の無いところで咲は立ち止まって、膝から崩れ落ちた。
「あああ!」
 彼女は悲鳴に近い泣き声を出した。
「ねえ、何があったの?」
 私の問いかけに彼女は答えることができなかった。その代わりに彼女は向こうのほうを指差した。その方向には少し広い空き地があって、この時は真っ暗だった。目を向けると何も無いじゃないかと私は思った。だが、違和感があった。地面に寝ている人のようなものが見えた。

 私は嫌な予感がした。明かりを向けるのが怖かった。このまま、なんだ人が寝ているだけじゃないと言って、彼女と家に帰るべきだった。あるいは昼間の吉原刑事は怖いが覚悟して警察を呼ぶべきだった。だが、私はそれをせずに自転車のライトを向けてしまった。

 そこにあったのは、もう二度と動くことのない友美の亡骸だった。

 眩暈がした。この後十分間くらいのことを私はあまり覚えていない。意識が明確になった時には私は咲と抱き合って一緒に泣いていた。泣いた。泣きあった。泣き喚いた。人として正しい反応が起こった。私たちは二度と立ち戻ることのできない時点まで来てしまった。

 友美が死んだ。私は咲が言いたかったことと友美が何をしたかったのかを悟った。友美は咲を殺そうとした。だから彼女を襲ったが、最後は咲の方が友美を殺してしまった。咲が握っていたナイフはおそらく、友美のことを刺した物だろう。

 私たちはどうすることもできずに友美の前で座り込んだ。これから私たちはどうなってしまうのだろうか。私が黙り込んでいると咲は夜空の方を見上げた。私もそれにつられて見上げると星がそれなりに見えていた。咲は見上げながらようやく声をあげた。
「私、もうだめみたい」
「えっ?」
「孔雀座が見たくなっちゃった」

 突飛な言葉だった。私はその言葉の意味を理解しきれずにいると彼女は覚悟を決めた目を私に向けた。
「ねえ、私と来て。私のサイゴの旅に付き合ってほしいの」
 咲は私の方にナイフを突きつけた。だが、不思議と怖くはなかった。私は彼女がそこまで言うのならどこまでもついて行くしかないと思った。
「わかった」

 咲はナイフを仕舞って歩きはじめた。私もその後を追いかけた。
 じきに友美の亡骸は見つかってしまうだろうと思った。その時は警察が咲のことを全力で探し始めるとわかっていた。私たちに残された時間は少なかった。
「どこまで行くの?」
 私は咲に聞いてみた。
「九州の端の方まで。そこなら孔雀座が少しだけ見れるらしいの」
「どうやって九州まで行くの?」
「お金的に電車で移動するしかないかなと思ってる」
「そうだね」
 近畿地方にあるこの街から九州の端の方までは時間がかかる。私は長い旅なることを理解した。

 私は頷いて、それから彼女の身なりを見た。彼女の服が傷だらけで彼女自身も怪我をしていることを改めて理解した。
「ねえ、まずは身なりを整えようよ」
「どうして?」
「怪我もしてるし、服もぼろぼろだし」
「じゃあ、服を買おう」

 そこで私たちはひとまず開いている服屋を探した。幸い、まだ開いていた服屋があったので私たちはそこで服を買った。路地裏で私たちは服を着替えた。なるべく目立たない服装に着替え、咲の傷の手当てを済ませると私たちは最寄りの駅まで向かった。その道中でさっきまで着ていた服はゴミ箱に捨てておいた。移動しているとパトカーが何台も走っていることに気づいた。私たちは顔が見えないようにしながら道を進んだ。暗い夜道が延々と続いていた。

 最寄りの駅にたどり着いた私たちは九州まで行ける道のりをスマホで調べた。調べ終えた私たちは電車のチケットを買ってスマホを捨てることにした。私たちの状況を誰にも知られないために。近くにあったゴミ箱にスマホを捨てた。ここから先はもう引き返すことのできない道のりだと覚悟した。

 電車に乗り込んで出発を待っていると左隣に座っていた咲が私の左手を握りしめた。彼女の手は震えていた。
「怖いの?」
「……本当はね。でも、もう私たちにはこれしかないから」
「……そうだね」
 私は彼女の手に右手を重ねた。直後、発車メロディーが鳴った。合図だ。電車の扉が閉まり動き出した。もう戻れない。そう思った。

 電車は進んでいった。途中で何度か乗り換えながら目的地を目指した。移動中、咲は眠っていた。とても深く寝ていたようで、乗り換える時に起こすのが大変だった。
 気がつけば、この旅を楽しんでいる自分がいた。友美が死んでしまったというのに。もしかすると私は心のどこかでこうなることを望んでいたのかもしれない。日々の何もかもを捨て去って旅に出ることを。

 やがて、終電の時間になった。行けるところまで行ったがこの日は足止めとなってしまった。私たちはまともな場所に泊まれるような状況ではなかった。仕方ないので、駅の近くにあったベンチで仮眠をとることにした。冬の夜はとても寒かった。布団はないので私たちは寄り添いあった。咲の温度が伝わってきた。咲と私はこの先どうなってしまうのだろうかと思った。だが、それがどうしたと心の中で叫んでいる自分もいた。私は彼女とならどうなってしまってもいいと考えていた。次第に眠くなって私は目を閉じた。

 やがて朝が来た。近くの時計を見ると時刻は朝の五時くらいだった。もうすぐ始発電車が駅に着こうとしていた。私は咲を起こした。彼女は眠たそうにしながらも歩きはじめた。私たちの長い一日の始まりだった。

 始発電車に乗った私たちはしばらく無言だった。ただ車窓から朝焼けの風景を眺めていた。しばらくして彼女が私の方を向いた。
「ねえ、死んだら私たちはこんな世界に行けるのかな?」
 彼女は車窓から見える田園風景を指差した。朝焼けでとても綺麗な場所だった。
「どうだろうね」

 私は少し笑って答えた。私には想像がつかなかった。死後の世界がどんな場所なのか。
「どういう場所なのかわからないけどさ、綺麗な場所だと良いなって思うよ」
 私は思ったことをそのまま答えた。いつか私が死んだ時、そこで待っているのは天国なのか地獄なのかはわからない。けど、綺麗な世界であることを願った。咲は私の答えを聞いてどう思ったのだろうか。本当のところはわからないが少なくとも彼女は笑ってくれた。

「そうだと良いよね。私はもう地獄行きが決まっちゃったんだろうな……」
 咲は軽い口調でこう言った。
「そんなことはないでしょ」
 思わず私は否定した。すると彼女は真剣な眼差しで私の目を覗いた。
「いや、むしろそうであってほしいの。私は」

 この時の私には理解できなかったが、咲のこの言葉が今でも私の心に残っている。彼女はわかっていたのかもしれない。この先自分が辿らねばならない道を。

 この時の私は彼女の言葉が理解しきれず、死後の世界の話から話題を逸らしてしまった。
「そういえば、昨日はどうしていつもよりもお金を持っていたの?」
「ああ、それは由香里にお見舞いを買おうと思ってさ。それで念のためいつもよりも多く持ってたの。まさかこんなことになるなんて思ってもなかったから、帰り道のお金がないけどね」

 私は笑った。私へのお見舞いを用意しようとしてくれたのが嬉しかった。
「ありがとう」
 私がこう言うと彼女もまた嬉しそうだった。

 それからも私たちは電車を乗り継いで移動を続けた。お金が持つ限りで移動を続けた末に九州の中に入ることができた。大きな街に着いた私たちは朝ご飯を食べることにした。駅の近くにあった適当なファストフードの店で朝ご飯を食べた。私たちは前日の夜から何も食べていなかった。食べ物のありがたみが身に染みた。

「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
 私たちは朝ご飯を食べ終えて店を出た。人通りを進んでいると誰かが落としたと思われる新聞が目に入った。私はそれを拾い上げた。一面には大きくこう書いてあった。
「少女の遺体発見」

 友美の亡骸が見つかってしまった。本文を流し見で読んでいくとこう書いてあった。
「……で見つかった遺体は一昨日から行方不明になっていた少女と断定」
「警察は事情を知っているとして同級生二人を捜索中」
 気づいたら咲も同じ物を見ていた。やはり警察は私たちを探しはじめた。私たちは道を急がなければならなかった。警察に見つかる前に孔雀座を見に行かねば。そう思った私たちは新聞を捨てて駅の方へと走り出した。

3

 私たちは急いで電車に飛び乗った。乗った電車では幸い誰も私たちのことを気にする者はいなかった。それでも、いつかは警察に足取りを調べられて追いつかれてしまう可能性もあった。
 私は車窓から外を眺めた。目の前にあるのは私の知らない土地で、そこにも誰かの日々があった。スマホは前日の夜に捨ててしまったので、ナビを見ることもできなかった。私たちは路線図と駅名だけを頼りにして九州の端まで行こうとしていた。

 一方で咲はというとまたしても眠っていた。やはり友美のことがショックだったのだと後になって思う。改めて考えるとなぜ彼女は「私、もうだめみたい」と思ったのだろうか。さらに言えば彼女はなぜリスクを負ってまで急いで孔雀座を見に行こうと思ったのか。私は彼女の顔を見ながら考えた。この時の彼女の寝顔はとても苦しそうだった。私はその顔を今になっても憶えている。

 目的の駅に着いた。だが、とうとうお金が底をついてしまった。ここからは歩いて九州の端まで行くしかなかった。駅から私たちは歩き始めた。私たちの旅はあとどのくらいかかるだろうか。私にとってはそんなのどうでもよかった。咲と一緒に歩くのが心地よかった。そこでふと、私が咲と交わした約束を思い出した。

「ねえ、今度さ、その孔雀座を見に行こうよ」
「いいね。約束してもいいかな?」
「うん、約束する」

 たった二週間くらい前にした会話が頭を過った。私はこの時になってようやく気づいたのだ。この旅は私との約束を果たすためだったと。なんでそんな大事なことを忘れていたのだろう。私はとても悔やんだ。
「ごめん、咲。私、あなたとの約束を忘れてた」

 気がつけば私は思っていたことを口に出していた。すると咲はすぐに理解してくれたようで、少し微笑んだ。
「いいのよ。私だって忘れてた」
「えっ?」
「だって、この三日で私たちの身に何が起こったと思う? この三日間のことで私は頭がいっぱいだよ」
「待って、じゃあこの旅はなんのためのことなの?」

 咲はナイフを取り出した。折りたたみ式のナイフ。友美のことを殺めてしまったナイフ。彼女はそれの刃先を折り畳んだまま見つめた。
「昨日も言ったじゃん。私のサイゴの旅だって」
「最後って……」

 私はどうして彼女がこれが最後の旅だと言っていたのかわからなかった。私の歩みが止まった。それに合わせて咲の歩みも止まった。彼女の顔が一瞬だけ物憂げになった。でもそれから彼女は普段の口調でこう言った。
「ねえ、私がどうして、今孔雀座を見ようとしているのかわかる?」
 私は考えた。だが、すぐには答えは出なかった。
「ごめん、わからない」
「だよね。こんなこと聞いて突然ごめんね」
 
 咲は再び歩き始めた。それに合わせて私も後をついて行った。旅はまだまだ続きそうだった。今日中に九州の端に辿り着けるのだろうか。そう思っていた矢先、咲の様子がおかしくなった。よろめく彼女。私は慌てて彼女を支えた。
「どうしたの!」
「ごめん疲れた……」

 とても辛そうだったので近くの木陰で私たちは休むことにした。私は咲の額に触れた。
「あつい……」
 彼女には熱があるみたいだった。

 この時私たちは何もない田舎道を歩いていた。もちろん近くに大きな商業施設などはなく、道を通る車も少なかった。どうすれば良いだろうか。そう思っていると一台の車が通りかかり、すぐ近くに停車した。ドアが開いて中から一人の老人が現れた。こちらの方まで近づいてきた老人は私たちの様子を見つめた。
「どうかしたのかい?」
 私たちは人に見つかるわけにはいかなかった。だが、今は人を頼るしかなかった。

「彼女、熱があるみたいなんです……」
 老人は咲の額に手を当てた。
「うちに来なさい」
 仕方がなかったが私たちは老人の車に乗せてもらって老人の家へと向かうことになった。

 車を走らせること数分。車は一軒の大きな家へと到着した。老人は急いで布団や冷水などを用意してくれた。私は咲をおんぶして布団まで連れて行った。
「もう大丈夫だよ」
 冷たい水に濡らしたタオルを彼女の額に当てた。
「ありがとう……」
 横になった彼女は数分で眠りについた。よほど疲れてしまったのだろう。私も長距離の移動で疲れていた。

 咲が眠ったことを確かめると、私は老人のもとへと行った。老人は台所で一人野菜を切っていた。
「彼女の様子はどうだい?」
 小刻みな音を鳴らしながら老人は私に気づいたようだった。
「今は眠っています。すぐに良くなると良いのですが……」
「そうだよな。そりゃ心配だ」
 老人は野菜を切り終えて、今度はフライパンに油を注いで、コンロに火をつけた。よく見ると調理用具はどれも使い古されている物のようだった。

「ところで、お二人はどこから来たんだい?」
 火をつけてフライパンがあったまるのを待ちながら老人は私に聞いてきた。
「それは、き……、北九州市からです……」
 私は近畿の方から来たとは言えなかった。言ってしまったら見つかる可能性が高まってしまうからだ。

「北九州からどうやってここまで?」
 老人の問いが続いた。
「電車と歩きです」
 私はこれくらいの内容なら大丈夫だろと思って、本当のことを答えた。
「何で歩いてたんだい?」
「お金が底をついちゃって……」

 老人は豪快に笑った。大笑いしていた。
「ははは、お金が底をつくって、そりゃ大変だ、ははは」
「なんかごめんなさい……」
「いや、おまえさんが謝る必要はない。いやー、良いね。何も考えずに突っ走っている感じが」
「どうでしょうか……」

 老人はフライパンに肉を入れた。途端に肉の焼ける音がした。
「若いうちは気づかないものさ。自分たちがどれだけ急いている存在なのかを」
 老人のこの言葉がだいぶ経った今でも理解できずにいる。それは私が何かに囚われ続けているからだろうか。そのうち私にもこの言葉の真意が理解できる日が来るのだろうか。これを聞いた直後の私は何も言葉を返すことができなかった。

 老人は料理を続けた。次第に良い香りがしてきた。私の方もお腹が空いていた。私のお腹が鳴ってしまった。
「すみません……」
「いいんだ、これができたらおまえさんたちにもあげるから食べていくといい。どうせ何も食べてないんだろ」
 この老人にはお見通しのようだった。朝ごはんを食べたきりになっていた。部屋にある時計を見ると時刻は昼の十三時くらいだった。

「お待たせ」
 老人は三つの皿に肉と野菜の炒め物を載せた。私はそれをテーブルに運んで、それから咲を起こしに行った。

「咲、どんな感じかな?」
 咲の顔を見ると布団に運び込んだ頃よりは落ち着いた表情をしていた。私の声を聞いて彼女が起き上がった。
「ごめんね。もう大丈夫だよ」
「それなら良かった。ねえ、おじいさんが野菜炒めを作ってくれたみたいだからそれを食べてからここを出ようよ」
「良いの?」
「まだ、私たちのことに気づいてないみたいだから、とりあえず食べていくだけ食べていこうよ。お腹も空いたし」
 彼女は少し考えて最終的には了承してくれた。

 私たちは老人の手料理を食べた。老人の作った炒め物は美味しかった。
「どうだい? 美味しいかい?」
「美味しいです」
 私が答えると老人は嬉しそうな表情をしていた。
「それはよかった」
 咲も食べているうちに表情が明るくなっていった。どうやら体調が良くなっていたようだった。

 食べ終えた私たちは咲の体調も良くなったのでここを出ることにした。長居して老人に迷惑をかけたくないという咲の意志もあった。
「もう行くんだね」
「はい、おかげさまで元気になりました。ありがとうございました」
 咲が深くお辞儀をした。私もそれに続いた。

「いやいや、こう言うのもあれだが、久々にこういうことがあって俺は嬉しかったよ。良い一日を過ごせた」
 老人はとても嬉しそうだった。

「じゃあ、良い旅をな」
 そう言って老人は私たちに水と果物を手渡してくれた。私たちは初めは遠慮したが、老人がどうしてもと言って引き下がらないので、それを受け取った。事実、飲み水がなかったのでとてもありがたいことではあった。

 時刻は昼の十四時過ぎ。私たちは老人の家を出た。とても優しい老人だった。いつか、また会えれば良いなと思いながら、私と咲は孔雀座を目指して道を急いだ。
 その一方で、追手はすぐそこまで迫っていた。

4

 道はどこまでも続いているかに思えた。目的地まではあとどれくらいあるのだろうか。歩いていると、人通りの多い場所へと辿り着いた。
「街の中に入ったみたいだね」
 時刻は午後十五時。私たちはどこかもわからないような住宅街にいた。

「ねえ、見て。地図があるよ」
 私はそばにあった地図を見た。咲もそれを確かめる。その地図によれば私たちが目指していた場所まではもうすぐとのことだった。

「あと少しだ」
「そうだね……」
 目的地まではあと少しなのに彼女は浮かない顔をしていた。

「どうしたの? 浮かない顔して」
 彼女はすぐにはっとした顔をして
「ううん、何でもないよ」
 と明るい顔を作って再び歩き出した。もしかするとここが重大な分岐点の一つだったのかもしれない。ここで私が彼女のことに向き合えていたら、あんなことにはならなかったのではないか。今でも考えてしまう。

 住宅街を歩いているとパトカーのサイレンが近くで鳴っていることに気がついた。
「ねえ、パトカーが近くにいるみたい」
「じゃあ、早くここを離れないと」
 私たちは駆け足で道を進んだ。だが、パトカーの音はどんどん近づいていた。

 やがて何台ものパトカーとすれ違った。どうやら私たちを探しに来たみたいだった。
「走れる?」
 咲が真剣な顔をして聞いてきた。私にはもちろん走る選択肢しかなかった。
「うん」
 私たちは走った。路地裏を通ったりしながらうまくパトカーたちの追跡をかわした。
 だが、やはり足の限界が訪れた。咲の走る速度が遅くなって次第に私の速度も落ちていった。

 咲は息を切らしながら走っていた。それを見て私はどうしたらこの状況を抜け出せるのかを考えた。考えていると、目の前に蔦が生えた古びた建物を見つけた。
「ひとまず、あの中に入ろう!」
 私はその建物を指さした。
「そうだね……」
 
 私たちは建物の玄関まで走った。玄関のノブを掴むと鍵は開いていた。私たちは急いで中に入った。
「ここで少し休もう。パトカーの音が聞こえないから多分気づかれていないよ」
 咲は走り疲れたのかその場で座り込んだ。

 建物の中をよく見ると蜘蛛の巣だらけだった。どうやら空き家のようだった。そのままにされたらしきテーブルに触れると沢山のほこりが手に付いた。息を整えてすぐに出ようとしていた私たちだったが、そんなにうまくはいかなかった。次第にパトカーの音が近づいてきた。私たちの行動は気づかれていたようだった。

 窓の外を見ると何台ものパトカーが正面の道に停まっていた。警官たちがパトカーから降りて何か話し合いを始めていた。

「まずい」
 私は座り込んだままの咲に状況を伝えた。彼女はどうしたら良いのかを考え始めたが、直後に男性の声が聞こえてきた。
「警察です! 大人しくこの建物から出てきてください!」

 拡声器だった。うるさくて私は耳を少しだけ塞いだ。私たちは脱出方法を思いつくまでは警官たちのことを無視することにした。

 十分ほど沈黙が続いたところで、再び拡声器の声がした。
「吉原よ。佐野、あんた自分が何しているのかわかってるの?」
 どうやら吉原刑事が私たちのことを追いかけてきたみたいだった。
「佐野と一緒にいるのは倉持咲だね。あんた、サイテーね。人を殺した上に友達を連れて逃げるなんて」

 この時、咲の顔に何か怒りのようなものが浮かび上がった。彼女は立ち上がって、建物の窓を少し開けた。
「サイテーなのはあんたの方よ! あんたのやり方が汚かったから友美は追い詰められた!」
「はあっ! 私はただ彼女を捕まえようとしただけよ。そのためならどんな手段だって使うわよ!」

 咲は一旦窓を閉じた。
 私には気になったことがあった。窓際から戻ってきた彼女に問いかけた。
「ねえ、友美と吉原の間に何があったの?」
「友美は今からあなたを殺すのは吉原っていう刑事のせいだって、叫び狂ってた……」
 私は吉原刑事と友美の間に何があったのか未だにわからなかった。少し間を開けて拡声器で再び吉原刑事が叫んだ。

「ねえ、あなたたちをありもしない事件をでっち上げて捕まえることなんて簡単なのよ! あなたたちを捕まえるためなら殺人鬼にだって仕立て上げてやるんだから!」
 咲は再び立ち上がって窓を開けた。
「だったら、犬に友美を襲わせたのもそのためだったの!」

 初耳だった。まさか友美に殺された犬は吉原刑事が送りつけた犬だったなんて。

「ああ、そうよ! あいつを捕まえるために送りつけたらまさか殺すなんて! なんて恐ろしい子なのと思ったわ!」
「じゃあ、あんたその場にいたのに何で友美を捕まえずに犬を見殺しにしたの! 言ってたわよ友美が、あんたもその場にいてわざわざ名刺まで置いてったって! あんたの方が友美よりも何万倍も狂っている!」
「狂ってるだって! 私は人を追い詰めるのが楽しいだけよ! それが何か?」
「それが狂ってるんだって言ってんの!」

「あなたの方こそ、人刺しておいて逃げるなんて、私なんかよりもよっぽど狂っているわよ!」
「なんですって!」

 咲と吉原刑事の言い争いは続いた。先のそばにいた私も、吉原刑事のそばにいた警官たちも何もできなかった。
 私もあの狂った刑事に言いたいことは山ほどあったが、まずはこの状況から逃げることが先決だと思った。何か良い方法はないか。そう考えていると外に続いていると思わしき扉を見つけた。私は恐る恐る、扉に近づいた。ガラス張りの扉から外を眺めるとそこに警官たちはいなかった。

 喋り疲れたのか咲が戻ってきた。
「あの刑事なんなの!」
「それより咲、あそこを見て」

 私は扉の方を指で示した。彼女は私の意図を汲み取ったみたいで、頷いてくれた。
「今なら誰もいない。あそこから逃げよう」
「そうだね」

 逃げようとした、その時だった。
「佐野! 出てきなさい! あんたが殺したんだろう? 何も喋らないのは卑怯なんじゃない!」
 あの刑事は笑っていた。

 私は許せなかった。窓の側まで近づいて叫んだ。
「あんた、こんなことしてそんなに楽しいの! 私が友美を殺しただって? ご想像にお任せするわ! あんたならなんでもでっちあげて私をと咲を捕まえるのでしょうね! 上等よ! 受けて立ってやるわ! だけど、その前に私たちには目的がある! 捕まえるならそれからにしてちょうだい!」

 私は窓を閉じた。それから咲の手を握って急いで扉を開けた。それから気づかれないように裏の塀を登って後ろ隣の家の庭に忍び込んで、逃げた。
 幸い警官たちは誰も気がつかなかったようだった。なんて手薄な警官たちなんだと思った。

 逃げ切った私たちは道を急いだ。走った。走り続けた。通り過ぎた公園の時計を見ると時刻は午後の十六時だった。こうなった以上は急がなくては。走る足はどんどん速くなっていった。ある程度走ったところで私たちは茂みに隠れて休憩することにした。

「ねえ、友美は何で何も言ってくれなかったんだろうね」
 咲が悲しげに言った。それは私も同じことを考えていた。どうして、頼る選択肢を自ら捨ててしまったのだろうか。

「わからないね、もう死んじゃったし」
「そうなんだよね、友美って死んじゃったんだよね……」
 私たちは改めて友美の死を実感した。

「ねえ、私たちどうなっちゃんだろうね……」
 私は咲に聞いてみた。彼女はこれからのことをどう思っているのか知りたかったからだった。すると咲は空を見上げて答えた。

「そんなこと、私はどうでもいい。人間いつかは死んだもの。だから今はこの瞬間を走るよ私は」
 咲は友美が死んだ時点で自分が何をすべきなのかを決意をしていたのだと思う。だからこそのこの言葉だったのだろう。

 この時の私にはそれがとても力強い言葉に感じられた。そうだ、今の私は彼女といられればそれで良いのだと思っていた。彼女が孔雀座をなぜ見たいのかなんて実は私にはどうでもよかったのだ。だからこそ私は、彼女の目を見た。
「そうだね。じゃあ、また走ろうか」
 
 咲もまた私の目を見て頷いた。
「うん」
 私たちは立ち上がって、走り出した。


次回、第5幕


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