「天気の子」の感想 -副題①「天気の子」と「マトリックス・リローデッド」-副題②全ての物語が完結する時(新海監督、アノ監督のこと、超絶disってませんか?笑)

みなさん、こんにちは。
この記事は年末に某SNSで友人のみ閲覧設定で投稿したものです。

趣旨は題名の通りで、この記事ではアニメ映画「天気の子」のネタバレ含むレビューします。ご注意ください^_^

あと、今年公開の某大作の期待も書いてますm(_ _)m

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家族や子供が出来ると奥さんと子供を放ったらかして休日に映画に行くことなど出来はしないのですが、たまたま、妻の実家にみんなが帰省したり、私自身が諸用で1人宿泊などになると、映画を観に行く事が出来ます。

そういうタイミングが今年も何回かありましたので、その時に観ることができた映画を牛が胃の中の草を吐き出して咀嚼するように噛み締めながら、そして、ついでに出てきた昔観た映画の内容もぐちゃぐちゃとかき混ぜながら、書いてみたいと思います(汚い)

さて、この夏に行くことが出来たのは「アルキメデスの大戦」…ではなくて「天気の子」です。

映画の内容についてとか、これを観て思い出した他の映画のこととか、大袈裟にも来年のアノ大作についても書いてみたいと思います。

皆さん、「天気の子」観ましたか?概ね良い映画ということで、好評で良かったです。「君の名は」ほどのガッツリ見所満載、商業主義全開の大ブームになることはなかったかもしれないけれど、新海監督の作家性と商業主義が上手くコラボしてるバランスの良い映画でしたね。

はい、では、以下、ネタバレです。最後の関門…

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天気の子、あらすじはというと、天気を操れる女の子と男の子が出会う話なんスよ。

そして、最初は便利ねーという感じで流行りの日本の貧困を絡めて面白おかしく描くわけですが、その女の子の天気を操る能力というのは、命と引き換えに何百年かに一回現れる超異常気象的なヤバイ災害を治めるために使われる謎のヤバイ能力らしいと分かるわけですね。

そして、女の子の命と引き換えにその何百年かに一回現れる超異常気象的なヤバイ災害は治められるのか!少年と少女の恋の運命や如何に!というヤバイ話。

私は観てる最中に、はぁ良い映画ねぇ、男の子、世界の秩序を守る為に死んでしまった女の子の思い出を胸に今後も生きていくのね、鑑賞者にモヤモヤとした爽やかなイメージを鑑賞後に残すのね、はいはいセカイ系のアニメとかで良くあるパターンじゃ無いですか、でも何で今更「ペンギンハイウェイ」やるんやろ、ふふふやはりこんなものかよ新海誠と思ってました。後半くらいまでは。

ここで私を含む鑑賞者は超ヤバ異常気象(以下同)を治めないと、日本が崩壊するので、女の子は命と引き換えにして天気を操るしかないし、可愛そうやけど女の子が死ぬのも仕方ないよなと思う訳ですけど、そうさせない為に、男の子は女の子を全力で助けようとする訳ですよ。まぁ、この辺もよくある話ですよね。

それでどうなるかというと本田翼ちゃんが声のヤバイお姉さんとか平泉成とかに追いかけられたりしつつ、小栗旬に激励されたりの大冒険をします。

最終的に、「私が死なないと超ヤバ異常気象は止まらないの…ごめんね」という感じで、女の子を助けることは出来ず男の子はモヤモヤした感情を抱きながら「またあの子に会いたい」とかいうモノローグと共に映画が終わるのがセカイ系の話の定番だと思いますが、この映画はそうはなりません。

そう!

ならないのです!

男の子は「天気なんか狂ったままで良い!」と言いながら、女の子を見事助けます!良かった!超ヤバ異常気象?女の子が治めなかったから継続ですよ。日本は?崩壊ですよ。損害とかシン・ゴジラの比じゃねぇ…!

この、超ヤバ異常気象のことを放り出して、女の子が助かってしまうという流れが「女の子は世界を救うために死んでしまうんやろなぁ」と観ながら思っていた(私も含む)観客にとっては意外やし、評価のポイントだろうと思います。私は好きですが、もしかしたら納得出来ない人もいるでしょう。

ここが、「天気の子」について語る時に僕が語ることです。

主語が大きくなるけど、割と気付かない形で、私たちは「社会を正常に運行する為には個人の嗜好は犠牲にして責任を果たすべき」と考えている人が多いのではないかな、と大きな事件が有った時の反応を観ると思います。

怒っている人もいるので、あまり例を出すべきでは無いかもしれませんが、同じような現代社会の貧困を描いた映画ということで「万引き家族」という映画が映画賞を取った時に「万引きという犯罪行為でどれだけ小売店の経営者が困ってるか分かってんのか!そんなものを映画にするとは何事だ!」とか。

みんな「良いもんになりたい、ただし、なるべく簡易に」という欲求を持ってますが、社会の常識とか良識“らしきもの”を使って無理矢理に悪人を作って、自分は良いもんになる訳ですな。

その流れで、責任を果たすor果たさないというのは日本人は割と好きな話なので、自己責任論とか自己責任社会とか言われてる話もあるけど、「お前には責任があるよね。だから、お前はその責任を果たすべきだし、それを俺たちが助ける筋合いは無い。その責任を果たさないお前は悪い」という、まぁ、当たり前ではあるけど、だからといって、「責任を果たす為に人生とか家族とか全部犠牲にしろ」とか「責任を果たすために社会的に消えろ、むしろ◯ね」とか、ちょっと行き過ぎじゃないかというところまで行ってる状態なのかな、と思います。

そもそも私自身、「天気の子」を観ながら「世界を救う力(責任)のある陽菜ちゃんは世界の為に死ぬんやろな」と漠然と思っておったので、間違いなく「責任論」みたいなのに囚われている訳です。

そんな常識や良識“らしきもの”の監視下にあり、特に「責任を果たすこと」が良いか悪いかの判断になっている現代日本社会においては、「世界(他人、社会)なんてどうなったって良い!好きな人と一緒に居たい!」というのは割と斬新な意見なので、新鮮なものを観たと私を含めて観た方は思われたと思います。

そして、内心スッキリしてるのは、私のようなクソ大人はどちらかというと常識や良識らしきもので若い人を叩いてる訳ですが、そういう叩き叩かれて(場合によっては社会的に“殺し殺されて”)監視し合ってる世界や、それに加担してる自分自身に実は嫌気がさしているんじゃないかなと思います。

良いじゃん、好きな人の所に走って行ってあげなさいよ。

世界なんて元々狂ってんだから「常識や良識らしきもの」とか「果たさないといけない責任」なんかどうせくだらないものだよ。そんなものに縛られることなんてないよ。好きなように生きて大切な人の手を取って、君たちだけでも取り敢えず幸せになりなさいよ。それを俺たちも応援するよ。

と思うんじゃないかなぁと。

私の内心のスッキリは2人が無事に出会えて、陽菜ちゃんが助かって、はぁ、良かったと思えて、その瞬間に叩き叩かれる世界から解放されたからじゃないかな、と胃の中の草を吐き戻して噛み直しながら思うわけです。

という訳で、「天気の子」の評価は現代社会では斬新な意見をどう捉えるかになると思いましたが、実は映画の筋書きとして割と有る話なんじゃないかな、とも思ってます。

要はこの映画は「お前には守りたい大切な人がいるんだろ?不条理な決まりごとなんかブッ飛ばして、その子の側に行ってやれよ」というカテゴリーの映画なんですよね。

不条理な決まり、というのは別に「世界の理」とかいう大それたものではなくて、例えば、マフィアの掟とか、軍隊の規則とか、家柄の決まりとかでも良くて、要は縛られてる人が意を決して、その縛りを破ることで事態が大きく良い方向に転換するというのはどんな物語でも多かれ少なかれある部分で、そういうお決まりって楽しいですよね。真面目な堅物キャラが決まりを破って事態を打開する、みたいな。

色々と例は挙げられると思いますが、ダースベイダーはシスの掟を破って銀河のバランスを取り戻しました。世界の存亡がかかるレベルに下げると、私が一番初めに思い出したのは「マトリックス・リローデッド」

マトリックスリローデッドのあの白い部屋でキアヌ・リーブスがおじいちゃんと難しい話をするシーン覚えていますか?

公開時、私は地方の国立大学の大学生であり文系の中での頂点にある法学部に在籍していたことから読解力もマジで凄いレベルにあるはずでしたが、サッパリ理解出来ませんでした。

DVDも買って何度か観て、ようやく分かったと思うのですが、要はあそこで救世主(今回はキアヌ)が、マトリックスの中枢部に行ってマトリックスをリロードすること自体が何回も繰り返された機械のプログラム通りの「世界(マトリックス)の縛り」だった訳ですね。

機械たちは人間を電池にする為に嘘夢を見させて眠らせ続ける事にしました。

一度、完璧にハッピーな嘘夢を見させましたが、なんか完璧にハッピーな状態に人間は耐えられなくなって失敗しました。

だから、少し問題があるような嘘夢を見せて、かつ、人類には機械と戦っているように思わせることにしました。

一定数の人類の目をわざと覚まして、住むところは機械が準備します。

目を覚ました人類たちが反抗するのは機械の計算の範囲内。

そして、しばらく人類と機械は戦いを続ける。人類は完全なハッピー嘘夢を見せるよりも、何故か精神的に元気!多分、色々選択出来る(気がする)から!

機械は定期的に人類を総攻撃をして、救世主がその阻止を目的としてマトリックスを破壊するためにソースに辿り着こうとするのも計画通り。

そして、ソースに辿り着いた後に、新しいデータを持ってマトリックスをバージョンアップするという選択をすれば人類は少数残す。選択をしないと、人類を確実に絶滅させると救世主に教える

そうすると人類の絶滅を避けるために歴代の救世主は機械の計画に従って、ソースに戻りマトリックスのバージョンアップをすると共に人類は少数を残して滅び、住むところはまた作り直し、人類が増えたら同じ流れ。

こういう死と新生をあの世界の人類は機械の計画通りに繰り返してきた訳です。

でも、救世主キアヌは、その「世界の縛り」を破ることになります。だって好きな人が死にそうなんだもの。

「世界(マトリックス・人類)なんてどうなったって良い!」とトリニティを助けに行くキアヌ・リーブスと「天気の子」の穂高くんは一緒なんですよね。空も飛んでるし。トリニティも陽菜ちゃんも助かって良かった!では世界は?

マトリックス・リローデッドでは、取り敢えず、トリニティは助かったけど、マトリックスも現実の世界の人類も崩壊の危機に瀕します。ではどうするかはマトリックスは第3作のレボリューションズで描かれましたよね。正解は実弾です。ロボットで。とにかく撃ちまくれ!撃ちまくれば何とかなる!うおー!!ですよ。

哲学的なアクション映画とマトリックスは言われていたけど、何かを一生懸命やっている内に事態が好転するという、さすがアメリカという感じの問題の解決の仕方ではあると思います(実は日本のロボットアニメとかヒーローアニメもこの流れが多いんだぜ!Wooo!!)

一方で、「天気の子」については「解決しない。起こっていることを周りの人も受け入れて穏やかに変わっていく」という回答でした。

天災というのはもうどうにもならないという日本的な回答かな、と思ったのですが、超巨大ロボット(イェーガー)でもない限り、台風に打ち勝つことは出来ないので、現実的には起こってることを肯定的に受け入れて「前向きにやれる範囲で生きていく」という考えも有りかなと思いました。

という訳で、「天気の子」は「マトリックス・リローデッドの日本的な解釈ですよねというどうでも良い話です。

さて、実は一つ解釈というか、想像というか、もうほぼ妄言に近い考えがあるのですが、そちらもちょっと書いてみたいと思います。

これは「天気の子」を語る時に僕の語る…というか、語ってみたいこと、です。

「マトリックス・リローデッド」は2003年の映画ですので、2019年の「天気の子」は15年以上前にハリウッドで言ってたことを、また今更、やっとるんかいという解釈もあり得ると思いますが、「世界(他人、社会)なんてどうなったって良い!好きな人と一緒に居たい!」って話、アニメとか観る人、ちょっと前に観ませんでしたか?

ほら、穂高くんより少し下くらいの歳の男の子が。

アニメの映画で。

ロボットに乗って。

こんな感じで言ってましたよね、名言まとめサイトとかで見直してみると。

「僕がどうなったっていい!」

「世界がどうなったっていい!」

「だけど綾波は…せめて綾波だけは、絶対助ける!」

そうですね。2009年公開の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』です。

「行きなさい!シンジ君!!誰かの為じゃない、あなた自身の願いの為に!」と小栗旬的な感じで励ましてくれる大人の女性も居たのです。

よく考えるとあの時も爽やかな感じで映画館を出たような気がしますが、それは「シンちゃん、遂に…立派になって…」みたいな親心的な感じではありました。

さて、世界を救う責任のあったシンジくんは、好きな人を助けたいという選択をしたのですが、エバンゲリオンの場合、どうなってどう対応するかの回答はどうだったかというと…

それは続編のQで執拗に描かれます。

つまり、女の子を助けてめっちゃ良いことしたぜ、と数年後に目を覚ますと「世界が崩壊したのは全部お前が悪い」と周りからいきなり言われ、責任を取ると言った大人は前言を撤回し(ミサトさん!)、初見の女の子に二度と何もすんな(エバにだけは乗らんといてくださいよ!)とまで言われ、悪の組織に誘拐され、そこになぜかいる助けたはずの女の子も別になんとも思っておらず(別の綾波やけど)、「お前が責任を果たさなかったせいで世界(他人、社会)はこんなにも迷惑をしている」とこれでもかと執拗に心が壊れるくらいまで言われ続けるという感じです。

そして精神的に不安定だけど、それなりに誠実ではある少年くんは「何とかこの責任をとりたい」と強く思いますが、その想いを悪い奴らに利用されて、更に状況が悪くなって、「つづく!」で終了です。エバンゲリオン、ヤバいアニメですよね。

この「責任を果たさなかったせいで起こる世界の崩壊と悲劇」は「天気の子」ではあまり描かれなかったけど、あの世界も天候不良のせいで、かなりの不幸や絶望が産まれているはずで、穂高くんもあの時点ではそれ程認識していないだけかもしれません。

救いは陽菜ちゃんが「天気の子」で、超ヤバ異常気象を治める責任があったことは、穂高くん陽菜ちゃん2人と小栗旬的なおじさんくらいしか詳しくは知らないことでしょう。今の「責任(無駄に)追及社会」日本のご時世、バレてたら陽菜ちゃんも穂高くんも小栗旬も生きてはいけないでしょう。小栗旬は特にバラす気も穂高くんを恨んでる感じでもなく、ま、良いんじゃねと気楽にされてましたわね。

ただ、都内で生活をしていくうちに、穂高くんもシンジくんと同じメンタルになっていくのではないかとも思います。

ある意味、「天気の子」の「続編」が、もしかしたら「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」かもということです。

エヴァンゲリオンの庵野監督が、「エバ破」と「エバQ」の公開時にどれほど意識していたか、または、何を作品のテーマとしていたかについては皆目分からないのですが、「世界を救う責任を放棄してもやりたいことをしてみる」→「責任を果たさなかったことを限界まで責められる」という構図は正に現代の「責任(無駄に)追及社会」を描いているのではないでしょうか。

「天気の子」の方は責任放棄後の世界についてはほとんど言及は無く「何となくみんな受け入れる」といった所で終わっています。

この「何となく」が割とモヤモヤする、というか、いや、崩壊した後の世界はどうなんねんという感触を残すので、崩壊した後の世界をきちんと描いている庵野監督の方が新海監督より「責任を果たしている」とは言えるのかもしれないです。

(個人的には庵野監督は愛があれば何とかなる!Wooo!みたいな日本のお決まりを壊して物語を作ってみたかったんじゃないかな、と思ってます)

さてここで、もしかしたら…と思うことがあります。

これは最後の妄言というか、人格攻撃に捉えられてしまうかもしれないので、ここまで読んだ暇な人にだけこそりと申し上げます。

「天気の子」は世界を救う責任を持っていた少年少女がその責任を放棄して愛し合うことを選んで世界が崩壊しますが、その崩壊の後の世界は(長くは描かれませんが)穏やかに受け入れられていく話です。

一方で「エヴァ」は世界ではなく個人の愛を選んだ少年の選択を、激しく、執拗に否定していきます。

ここで思ったのですが、もしかして…

新海監督、庵野監督のことを超絶disってるんじゃないでしょうか。

なんだよー、少年が好きな女の子を救って、それで素敵で良い話じゃねーかよー、大人もぎゃーぎゃー言わずに受け入れてやれよー

と新海監督、言ってんじゃないかな、ともしかしたらと思う訳です。

そして「天気の子」が崩壊後の世界を明確に描かなかったことも、映画のテーマに外れるとか時間尺の問題とかでは無くて、「大人もぎゃーぎゃー言わずに受け入れてやれよー」という「責任(無駄に)追及社会」へのdis=「エヴァQ」へのdisとして、新海監督は、崩壊した後の世界も悲劇も敢えて描かないことで意見を表明しているんじゃないでしょうか。

直接的には新海誠監督はどんなメディアにもそんなことは言っていないので、実際は全く分からないですが、今の社会の有り様を理解して、それに対して映画の中でどう回答していくか、という点において、「天気の子」は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」が描いている「責任を(無駄に)追及」する状況について明確に否定しているのは確かではないか、とは思います。

という訳で、もうこの責任(無駄に)追及社会では、取り敢えず責任を無視出来るファンタジーの世界でしか、少年少女は社会の理を超えて幸せになることは出来ないのか、というともちろんそんなことは無いと思います。

なぜなら、「エヴァ」は完結していないからです。

上で今のところ新海監督の作品と庵野監督の作品は「対立している」と書きましたが、これは自分で言うのもなんですが「誤り」で、エヴァQは物語の完結に向けて、責任(無駄に)追及社会にやっつけられそうな「自分の幸福のために責任を果たすことを選択しなかった少年」を執拗に描いている、その過程なのかもしれません。

そして、2020年公開のエヴァの完結編『シン・エヴァンゲリオン劇場版』がどのような結末になるのか。

それは「責任(無駄に)追及社会」に対する庵野監督の現状認識と、そこでどう振る舞うかの回答になるのではないかと思います。

その時に新海監督と庵野監督の「対決」のケリが着くのではないか、といつの間にか私の中では新海誠vs庵野秀明と捉えています。

つまり、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』はエヴァの完結編であるだけでなく、「天気の子」の続編(エピソード2はエバQです)の続編、言ってみれば「天気の子」“三部作”の完結編になるのではないか。

そういう視点、「責任(無駄に)追及社会で個人はどのように幸せになれば良いのか」という視点で私は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観たいと思っています。

シンジくんが「僕はここに居て良い」と思える場所を見つけた時に全ての物語が完結します。

それを是非観てみたいと思います。

ま、旧劇みたいに少年が世界を肯定した後、最後に現実を見せられて拒絶される感じのでも全然良いんですけど、10年近く待ったんやからそれなりに「違うもの」を観せて欲しいものですね!

と、いう「天気の子」とか「マトリックスリローデッド」の話かと思いきや、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の期待に関する妄言でした。

ここまで長々と読んで頂き本当にありがとうございました。お代はもちろん頂きません^_^


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