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「取って食べよ」と、入管法改悪反対のキリスト者の声一つ

法律家たちが懸命に職責上の専門性から発言を続けている。
では宗教家はどうか。
私は小規模なキリスト教会の牧師である。宗教家。胡散臭さはこの上ないと社会的には思われているだろうが、それはまた考えよう。
宗教家は、入管法改悪案に対してその専門性から続け様に発言しているだろうか。
私は「この教会の牧師が入管法改悪に反対しないわけにはいかないよな」ぐらいに思っていた。外国人との関係がかなり深くある経緯を辿ってようやく教会として設立されたキリスト教会の牧師になったのだから、入管法の改悪によって関わりある人々の在留支援をするのは当たり前、ぐらいの感じがあった。当時の日記を読み返すと、「自分の知り合いが危ない目に遭う」という言葉でしか反対を言い表せていない。
結局は「自分」でしかなかったのだと思う。他者を「素材」にしているだけで結局は「自分のこと」のために反対していた。
そのような自分の身の回り半径数メートルの世界に限る視野でしか発信できないことは、もう終わりだ。この閉じこもった領域は安全そうだが最も危険だ。窓を設え、どの方向からも入ることができる共同体を主宰する責任ある宗教者が、内側にだけ漆喰を塗り固めている自己矛盾もいいところだ。

今回審議されている入管法改悪案は、「ヘイト」感情を煽るものだということに気づいた。わかっていたのではなくやっぱりこれは気づいた、が本当のところだ。言われ、考えさせられなければ気づけないのだ。
自分のお友達の在留の危機は深刻だが、脅かしの根っこはなんだろうか。
その根底にあるものとは、外国人は日本人と違って「危ない」とか「悪い」と言った嫌悪感情が満ち満ちた差別だ。要するに話を聞く相手として認めないということだ。悪いものは悪い、と。
しかし、キリスト教というのは、悪いものは悪いを打ち破るのがその教えの中心ではなかった。自分の義を自分で発見し自分で守る、そういう「私だけの世界」から、神という全くつかみどころのない異(い)なる存在の義について聞かされ、食べさせられ、触れられ、そして自分の義ではないものへと後押しされていく、これが、キリスト教ではなかったのか。

拒否している人々が語る「義」に触れるためにはどうすればいいのか?
まずはその義を語る人々の生(生きる日々)に触れなければならないはずだ。これは宗教者が声高に語るべきことだと心の底から思う。日本の法律を守っていない悪い人たちのせいで私たちの社会が悪くなる、という話に丸め込まれそうになっているが、その物語を創成している人々は、他者の義の味をあじわう事すらしない。主食は白米だけで、白米が最高で、白米は日本のもの、と思われているようなものだ。真っ白なご飯しかダメって話をじわじわ作られて、それが「日本のビューティ」になりかけている。
いろんな国で米は食べられ、日本以外でも、日本各地でも食べ方もさまざまである。そんなことは誰でも知っているけれど、やっぱりこの島と領海、領空では「こうでなくちゃ」をつくられているのだ。実際に法案を書いたりそれを語っている官僚や議員がそんなことまでは考えてはいないだろうが、こうやって、「我が義」を唯一無二のものにする装置になっている。
私は浅い職責上の反対ではなく、自分の信仰上の決断として入管法改悪案に反対している。
ちょっと偉そうではあるが、キリスト者には気づいて欲しいと願っている。我が義のみで生きることが罪だったのではないか。
日本にあるキリスト教会が我が義のみで歩んだ末に何度も悔い改めをしてきた記憶を呼び覚ますべきではないか。
入管法改悪法案を黙認するようなことがあってはならない。
まずは飲んで食べてみるべきだ。
入管法改悪反対デモの帰着点で雨の中、お湯を沸かして待っていた友がいた。前日からこの一杯のお茶のためにあれこれ想定して、どうやったら一万人にお茶を配ることができるかをしゃべっていた。その話の中に義を見出すことがある。
まずは茶を飲んで、それからこのお茶、この人が淹れるお茶を、日本で飲めることの素晴らしさを持続するにはどうすればいいのかを話し合うべきだ、と語るのは宗教性高く、信仰深い入管法改悪反対である。


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