映画館&バー支配人が選ぶ胸糞映画10選



<胸糞映画は飽和している>


 胸糞映画、と聞いて皆さんは何を思い浮かべるだろうか?

 ミヒャエル・ハネケ『ファニーゲーム』?ラース・フォン・トリアー『ダンサー・イン・ザ・ダーク』?クリント・イーストウッド『ミリオンダラー・ベイビー』?あるいはデヴィット・フィンチャー『セブン』?

 確かにその通りだ。上記の作品はどれもこれも胸糞映画界のゴールデンレコードだといえる。しかし貪欲な皆さんにしてみれば、「胸糞映画」と検索をかけて上記のような作品ばかりが取り沙汰される現況は手放しに肯定できるものではないだろう。

 皆さんが言いたいことは聞かずともわかる。

もうだいたい観た…

 インターネットの集合知には限界がある。知識が一定のラインまで深まると新たな知識の流入が途絶し、過去の集積をひたすら焼き直し続ける懐古老人会の様相を呈する。著名なまとめサイトが10年前から現在に至るまで『慰霊の森とかいうガチでヤバい心霊スポットwwwwwwwww』的な記事を飽きもせずにリプレイしまくっていることからもその傾向は明らかだ。

 映画もまた然りで、「胸糞映画」で検索をかけてみたところでとうの昔に渉猟し尽くした不毛の荒野が広がっているばかりだ。「"ムカデ人間"っていうヤバい映画があってさあ…」みたいな語り口から始まるちっともヤバくも面白くもない映画紹介に心の底からうんざりさせられた経験が皆さんにも少なからずあるはずだ。

 というわけで今回は、2chのまとめサイトやTwitterで頻出するタイトルをできる限り避けた「ぼくのかんがえたさいきょうの胸糞映画デッキ」を組ませていただいた。

 紹介するタイトルは計10本。私の記憶を総動員して古今東西の胸糞映画を仕入れてみたつもりだ。ぜひ今後の映画鑑賞の際の参考にしていただけると幸いだ。

<胸糞映画10選>

①大島渚『愛と希望の街』

『愛と希望の街』


  大島渚といえば『戦場のメリークリスマス』であり、そっちもなかなかの胸糞映画ではあるのだが、救いのなさでいえばデビュー作である本作のほうが数枚上手だ。戦後日本を舞台に、富者と貧者の間の埋まらない溝が克明に描き出されている。

 帰巣本能があるのをいいことに同じ鳩を何度も売る詐欺商売でどうにか食い繋いでいる少年と、それを憐れむ周りの人々。しかし周囲の支えも虚しく、少年は社会システムから放逐され、救いようもない結末へと辿り着く。何が残酷かって、少年を支えようとする周囲の人々(=富者たち)の性格がべらぼうに綺麗なところなんですよね。一方で貧しい少年の一家は荒みきっている

 『愛と希望の街』というタイトルは当時の松竹が勝手につけたものらしく、大島自身は『鳩を売る少年』という題で公開したかったのだそうだ。愛も希望もない物語なのだから大島の異議も当然だ。

②アンドレイ・ズビャギンツェフ『裁かれるは善人のみ』

『裁かれるは善人のみ』


 もうタイトルからしてなんとなく察してしまう。そう、この映画において裁かれるのは善人のみだ。

 物語は、土地収用を断って市長の怒りを買った主人公がカネと権力による嫌がらせに振り回されるというもの。それだけであれば単なる貧富のエレジーに過ぎないが、おぞましいのは主人公を四方八方から苛む不幸の連鎖だ。土地も友情も愛情もすべてを失った彼の前に開かれるのは希望の光か、あるいは絶望の闇か。

 カトリック勢力の強いロシアならではの宗教的不条理譚だといえる。「カインとアベル」も真っ青の救いのなさには、誰も彼もが閉口すること間違いなし

③キム・ギドク『受取人不明』

『受取人不明』


 70年代、韓国。米軍による庇護という名の圧力に歪んだ村を舞台に、3人の若者が深く傷つき、そして苦しむ青春群像劇。

 この映画に関してはわざわざあらすじを書き連ねる必要もないだろう。黒人兵と娼婦の間に生まれた混血児、片目が白濁している隻眼の少女、陰湿ないじめを受ける気弱な青年。字面だけでもヒシヒシと息苦しさが伝わってくる。

 暗澹たる人生を歩む3人が米軍はびこる小さな農村の中で辿る末路は否が応でも想像がついてしまうというものだろう。受取人不明。彼らの叫び声はどこにも届かず、自分自身に突き返されてくる。

 キム・ギドクは代表作の『嘆きのピエタ』も非常に胸糞悪いが、今回は寂れた農村という背景がさらに鬱屈さを加速させている本作を挙げさせていただいた。

④スティーブン・フリアーズ『マイ・ビューティフル・ランドレット』

『マイ・ビューティフル・ランドレット』


 イギリスの慢性的な曇天と、国家全体がサッチャリズムに揺れた1980'sという時代の絶望的なマリアージュ。『トレインスポッティング』然り『リトル・ダンサー』然り、この時代のイギリスを描いた映画はどれもこれも鬱屈とした空気に包まれている。そんな中でもとりわけ暗いのが本作だ。

 物語はパキスタン系移民の主人公オマルと旧友のジョニーが、叔父に任されたコインランドリーを運営する、という筋立て。

 さて、サッチャー政権が推進した新自由主義政策においては「富を生産すること」が絶対的な正義であったため、イギリスで元々力を持っていた富裕層や、商魂たくましい移民系の人々が優遇された。実際、オマルの叔父は自分の店をいくつも持ち、その一部を甥に譲渡できるほどの成功者だ。一方、豊潤な資本も商売のノウハウも持たない労働者階級のイギリス人たちは大量解雇の憂き目に遭い、ますます困窮を極めていった。ジョニーがこれに該当する。

 オマルとジョニーは厳しい資本主義のデスゲームを生き残るべく奮闘するが、次第にそれが内包する残酷性に直面していく。ジョニーはありうべき自分の未来像であったかもしれない貧しい男をマンションから追い出す仕事を任される。オマルはジョニーがかつて移民反対のデモに参加していたことを知ってしまう。

 二人の苦しみの先にあるのは、ひたすら強大で揺るがしがたいサッチャイズムの論理だ。いくら足掻いたところで本質的には何も変わり得ないという無力感。出口の見えないイギリス社会の憂鬱を克明に描き出した傑作だ。

⑤白石晃士『殺人ワークショップ』

『殺人ワークショップ』


 こういう露悪的な芸風の作品を果たして胸糞映画の系譜に列していいものかという疑問はさておき、そのあまりにも倫理観の欠如した世界観には思わず吐き気を催す

 「殺したい人はいませんか?」怪しい誘いに乗って渋谷の奥地にやってきた受講生を待っていたのはこれまた怪しい関西弁講師の男だった。講師の男は暴力上等、殺傷上等の超ストロングスタイルで受講生たちに殺人をレクチャーする

 後半ではレクチャーを受けた受講生たちが殺したいと思う相手を実際に殺しに行くのだが、そこで繰り広げられる愛憎描写がやけにリアルで気持ち悪い。というかこの映画は終始暗い。『殺人ワークショップ』などという物騒でハッピーなタイトルからは想像できないくらい邦画的リアリズムに満ちている。

 いちおう物語には決着がつくものの、最後の一瞬まで生乾きのシャツのような不快感が残留し続ける。白石作品だからといって『コワすぎ』シリーズのような享楽性を期待するとしっぺ返しを食らうことになるので覚悟が必要だ。

⑥チャイタニネ・タームハネー『裁き』

『裁き』


 「街の集会で自殺を煽る歌を歌った」罪で逮捕された男の行く末を描く社会派インド映画。インド映画といえばめくるめく歌と踊りを想像しがちだが、本作にそういったものは一切出てこない。

 唐突に逮捕された男はなぜ自分が逮捕されなければならないのか理解ができない。検察が言うには「お前の歌のせいでとある清掃員が自殺した」からだそうだ。因果もへったくれもない暴論に、しかし男は最後まで振り回され続ける。

 法廷モノは不条理がデフォルトだが、本作の場合はインド固有の問題圏(カースト制、言語の不通など)まで絡んでくるものだから始末に負えない

⑦チャン・チョルス『ビー・デビル』

『ビー・デビル』


 チャン・チョルスは前述の『受取人不明』のキム・ギドクに師事した映画作家であり、ゆえに暴力描写のえげつなさといい物語の不条理性といい師匠のそれに近しい部分が多い

 孤島の村に何十年も閉じ込められた女。彼女は最後の頼みの綱であるかつての友人に手紙を出す。友人は十数年ぶりに故郷に戻り、そこで女が受けてきた数多の理不尽を目にすることになる。老人にこき使われる、男に犯される、娘を殺される、島外脱出を禁じられる

 しかし友人はそんな彼女の窮状に無視を決め込む。面倒事はごめんだと言って単身島外脱出を図る。

 最後の希望を絶たれた女はついに発狂し、全島民の殺害を決意する。そこから幕を開ける凄惨な殺戮劇は確かにカタルシスがあるが、そこまでの蓄積が吐き気を催すほどにえげつない。孤島に生まれなくてよかった〜と心の底から思える一本だ。

⑧グザヴィエ・ドラン『たかが世界の終わり』

『たかが世界の終わり』


 カナダ映画界に燦然と煌めくドラン御大の傑作。

 長らく実家に帰っていなかった息子がある日突然帰ってくる。というのも、自分が病魔に冒されあまり先が長くないことを家族に報告するためだった。しかし家族は唐突すぎる息子の帰郷に戸惑い、憤慨する。なぜ帰ってこなかったのか、今まで何をしていたのか。

 次第に家の中の空気は停滞していく。どうでもいいような口論と居心地の悪い沈黙が交互に訪れる。息子はとてもじゃないが自分の状態について切り出すことができない。秒針がカチカチと忙しなく音を刻む。別れの時間は刻一刻と迫っていく。
 
 絶望的なまでに踏み外し続けるディスコミュニケーションの憂鬱を見事なテクスチャで描いた怪作だ。しかもだんだん回復していくとか一切ない。どんどん壊れていって全てがダメになる。そういう映画です。

⑨ダルデンヌ兄弟『ロゼッタ』

『ロゼッタ』


 お前胸糞とかいって貧困系ばっかじゃねーかと言われてしまえば返す言葉もないのだが、じじつ貧富という題材ほど観衆のルサンチマンを効率的に刺激するものはないのだから仕方ない。

 少女がそれまで働いていた工場から唐突にクビを言い渡される。物語はそこから始まる。少女が住んでいるのは森の中のトレーラーハウスの中。父親はおらず、母親はアルコール依存症。この貧困のスパイラルから抜け出したいという切なる願いが少女を労働へと駆り立てる。

 路頭に迷った少女に手を差し伸べたのはワッフルスタンドで働く少年。しかし少女は少年の好意を裏切って……

 貧困という状態の中で生じる選択肢はどれを選んでもハズレなのかもしれないとうんざりさせられてしまう一作だ。

⑩アンリ・コルピ『かくも長き不在』

『かくも長き不在』


 原作は『愛人(ラ・マン)』等で有名なマルグリット・デュラス。

 中年の女が営むバーに、ある日身なりの汚い男がやってくる。女は男にそっけない態度を取るが、どうにも胸に引っかかるものがある。女はその男の相貌に、戦時中行方不明になった恋人の面影を幻視する

 彼は本当にあのときの恋人なのだろうか?女は限りなく遠ざかってしまった時間の距離を手繰り寄せようとあの手この手で男に接近する。しかし男は自分の素性を明かそうとしない。

 男は一体何者なのか。そして女の数十年越しの恋の行方は……?などと白々しく書き連ねたところでこの記事に「胸糞映画」という看板が掲げられている時点ですべてはお察しの通りだ。フランス映画らしい瀟洒さと残酷さに心ゆくまで傷つくことのできる一本。

<ENJOY胸糞映画>

 さて、いかがだっただろうか?

 本来ならここで「胸糞映画を観る意義」的なトピックをテキトーに消化していい感じに終わろうと考えていたのだが、そもそも胸糞映画を観る意義などない。というか、どんな映画であれそれを「胸糞映画」などという箱に分類してしまった時点で「美学的」とか「社会的」とかいった鑑賞態度からは切断される。

 そこにあるのは言うなれば「コンポストの中身を覗いてみたい」的欲望だ。グロテスクなものを敢えて見てみたいという俗物根性。

 しかし私はそれが悪いこととは微塵も思わない。思えば映画という媒体は見世物小屋の演目の一環として大衆に広まっていったという歴史を持つ。であればそうした黎明期のアトモスフィアを湛えた消費空間が今なお現存していることを無上の僥倖とすべきだろう。胸糞映画最高胸糞映画万歳

 私はこれからも世界各国のコンポストを片っ端からこじ開けてはその悪臭に悶絶したいと思う。

 

 
 

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