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炸裂する鮮血!そしてショット!ーー高橋伴明『DOOR(1988)』

 みなさんこんばんは。映画館&バー「第8電影」中の人です。今回はJホラー黎明期よりもさらに昔に撮られた高橋伴明の傑作ホラー『DOOR』について書きました。

 それではどうぞ〜!

 「Jホラーの幻の原点!」という胡散臭い謡い文句にまんまと乗っかってみたが、その通りだと首肯せざるを得ない傑作だった。

 あらすじは単純。とある団地に住む靖子という女(高橋恵子)が、無理やり家に上がり込もうとしてきたセールスマンの山川という男(堤大二郎)の手首を誤ってドアで挟んでしまう。それからというもの、山川の執拗なストーキングが始まる。対処しようにも靖子は男の顔を実際に見ていないためどうすることもできない。ストーキングは徐々にエスカレートしていき、彼女の息子にも魔の手が迫る。頼みの綱であるはずの夫はIT企業で連日連夜のデスマーチ。さあ、靖子とその息子はいかにしてこの狂人に立ち向かうのか!?というもの。

 ※以下ネタバレ注意!!

 登場人物の(あるいは我々受け手の)視覚と聴覚の合間を縫うように恐怖が忍び寄ってくるさまは、Jホラーの傑作と名高い黒沢清の『CURE(1997)』や『回路(2001)』を彷彿とさせる。

黒沢清『CURE(1997)』
Jホラーを語るうえで決して外すことのできない一作。ラストシーンはもはや伝説ですね。

 たとえば山川が、団地の階段に座り込んでドーナツを食べる序盤のカット。山川はドーナツの穴に指を突っ込み、それをケバブのように回しながら外側から齧っていく。ボーッとしていたら見逃してしまうようなほんの些細な所作だが、彼がいかに異常であるかが一瞬にして窺える恐ろしいカットだ。

 あるいは音もなく回るドアノブを靖子の息子が玄関の内側から眺めているシーン。靖子は家事に勤しむあまり山川の接近に気づいていない。

 また山川のイタズラ電話の内容から息子の見に危険が迫っていると思い込んだ靖子が、幼稚園まで安否確認に向かうシーンもなかなか怖い。彼女はジャングルジムで友人と戯れる我が子を見てホッと胸を撫で下ろすが、その側方を山川が悠然と通り過ぎていく。このように、視聴覚を欺くようにして山川は靖子の生活を少しずつ侵犯していく

靖子はエレベーターに乗り合わせた男がストーカーであることを知らない。

 何かがそこにいる、という索漠とした恐怖が最高潮に達したとき、山川が靖子に背後から襲いかかる。ここのショットはすごい。カメラが客観的な(=誰でもない)記録装置なのか山川の視点なのかはギリギリまで不明瞭で、白い本棚に黒い影が映し出されたときにようやく靖子の背後に山川が実際に接近していたことが判明する

 とはいえ靖子の自宅という最終決戦場にこんなに早い段階で辿り着いちゃって大丈夫?と思っていたところ、そこへ運良く(あるいは運悪く)息子が帰宅。靖子と山川はしばし家主とその客人というロールを演じることになる。靖子最大の「弱み」である息子の帰宅は山川にしてみればむしろ僥倖だ。彼は意気揚々と客人役を演じる。しかし一方で靖子への牽制も忘れない。彼が吸っていたタバコをキッチンのサラダボウルに押し付けるカットが印象的だ。

 死の恐怖に怯える靖子、加虐の快楽に溺れる山川、事情を何も知らない息子が夕餉を共にするシーンは滑稽なほどに気味が悪い。何か一つでも所作を間違えれば途端にすべてが崩壊してしまうであろう緊張空間。しかしその嚆矢を山川に放たせてはならない。靖子は2本目のビールを取りに行くふりをして山川の頭を空きビンでしたたかに殴りつける

 そこから先は一転してイタリアのジャッロ映画顔負けのスプラッター・ホラーが幕を開ける。ドアを破壊する侵入者それに怯える弱者という構図はグリフィス『散り行く花(1919)』からキューブリック『シャイニング(1980)』に至るまで幾度となく反復された映画的クリシェだが、本作では趣向を変えてチェーンソー。ギュインギュインという回転音が斧以上の肉体的恐怖を煽る。

D・W・グリフィス『散り行く花(1919)』
リリアン・ギッシュが意地悪な父親に連れ戻されてしまうシーン。
スタンリー・キューブリック『シャイニング(1980)』
言わずもがな、「Here's Johnny!(お客さまだよ!)」で有名なシーン。

 それに対して靖子と息子も負けじと応戦。鍵穴を回そうとする山川の右手をミートフォークでめった刺し、ローラースケートの鉄部分で容赦なく殴る。出るわ出るわ鮮やかな血飛沫!

浴室のドアをチェーンソーで破壊する山川。ミートフォークで応戦する靖子。

 大怪我を負った山川は玄関を開けて去っていく。安心した靖子は息子を寝かしつける。しかし山川はまだ家の中にいた。再び始まる追走劇。必死で家じゅうを逃げ回る靖子と、意識朦朧となりながらもそれを追いかける山川。

 彼らの追走劇を頭上から映し出した一連のカットは、本作最大の見せ場だといっていい。真上からは部屋と部屋を仕切る壁が黒い線のように見えているのだが、ドアの有無はわからない。すなわち靖子が隣の部屋に逃げられるのかどうかは、実際に彼女がドアを開けるまでわからない。我々は神の視点から俯瞰しているにもかかわらず、彼女の安否を先回りして知ることができないのだ。これは怖い。

真上からの俯瞰ショットは冒頭にも。関係ないけどカモの玄関マットかわいいね。

 最終的には靖子を追い詰めた山川を、背後から息子がバットでぶん殴ることで事件は無事終息を迎えるのだが、このときの息子のあまりにも無感情な表情が不気味だ。彼女が息子を抱き締めるでもその労をねぎらうでもなく「もう寝る時間でしょ」と言いつけて寝室へ向かわせるのは、もしかしたらこの子もまたこの男のように育ってしまうのではないか、という不安ゆえだろう。

 さて、本作はホラー・スプラッター映画としてのみならず、団地映画としても意義が深い。

 団地とは何か。それは高度経済成長の歪みである。首都一極集中を防ぐため、郊外やベイエリアに次々と打ち建てられていった団地は、はじめこそプチブルの象徴として持て囃されていた(=川島雄三『しとやかな獣(1962)』)。

川島雄三『しとやかな獣(1962)』
身の丈に合わない高級団地に住む家族の虚栄を描いたブラックコメディの傑作。物語がほぼ彼らの団地の一室で完結しているという点において、シドニー・ルメット『12人の怒れる男(1957)』の再奏といえる。

 しかし下町的な「ご近所」とは真逆の隔絶的な生活様式は次第にそこへ住む人々を孤独の狂気に追いやっていく(=森田芳光『家族ゲーム(1983)』)。

森田芳光『家族ゲーム(1983)』
コミュニティの欠落した団地という生活領域においては家族という単位もまた個々に孤立を深めていく。団欒と表現するには余りにも他人行儀な横一列並びでの食事シーンが印象的でしたね。

 そしてプチブルとしての象徴性もタワーマンションに奪われた今となっては、団地はその寂れ具合からシチュエーションホラーの格好の題材と化してしまった(=『仄暗い水の底から(2002)』『クロユリ団地(2013)』)。

中田秀夫『クロユリ団地(2013)』
平成。もはや団地はかつての華やかなイメージを喪失し、老いと貧困の巣食うマイナス空間と化してしまった。この前夜の高島平を散歩したんですが、全ての階の共用廊下に自殺防止の鉄柵が張り巡らされてて怖かったです。

 山川の暴行を目撃しながら不干渉を決め込む隣室の老婆や、「誰か助けて!」という靖子の絶叫だけが虚しく反響する共用廊下は、団地という空間の根本的な孤独さをあけすけに露呈させる団地という言葉がネガティブな意味合いを帯び始めたのはこの頃(1980年代後半)からなのかもしれない

 それにしても素晴らしいロケ地を発見したものだ、とつくづく感心する。特に団地前の斜面に敷設された果てしなく長い階段がいいその中腹に公衆電話があるというのもすごい。敢えて団地側から街を睥睨するショットを挟むまでもなく郊外であることが窺える場所だ。ここがどこであるのかを今現在必死に調べているのだが、なかなか突き止められない。

 もし知っている方がいらっしゃればぜひお教えいただきたい…と皆さんに調査を丸投げしたところで今回は筆を置こうと思う。

 最後までお読みいただきありがとうございました。

文章:映画館&バー「第8電影」岡本因果

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