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少女デブゴンへの路〈5.5席目〉

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第三章 別世界

 5.5席目 ミスター・スタンのかれえなる略歴


 さて。前回は、あと少しというところでキン子がご飯泥棒の隣人ミスター・スタンを取り逃がし、謎の個人タクシーにミスター・スタンが拾われたところでお開きでございました。
 今回はその続きでございますが、この一席、主人公のキン子はさっぱり出て来ません。パン太もタマサカ先生も出て来ません。お話を引っ張るのは、なんとミスター・スタン。もう、出ずっぱりでございます。というか、この一席……いや一つの半分、0.5席の主人公でございます。
 なにゆえ、ミスター・スタンなんぞの話に中途半端に半席費やすのか。それがこの『少女デブゴンへの路』の後半のお話を理解する上で必要だからであります。でも彼の経歴をマジ語りしますと、独立した新たな演目が一つできちゃうぐらい波瀾万丈の長編ストーリーとなりますゆえ、ここはダイジェスト版でお届けいたします。だから0.5席なの……。
  パン!

 キン子に追い詰められたミスター・スタンは、偶然やって来たタクシーに思わず乗り込んだ。その運転手に彼は見覚えがあった。
「お客さん、今日はどちらまで」
 運転手がミスター・スタンに尋ねた。
「当てなんぞあるか。元のP世界には戻れんし、このP世界にも、もう居られない」
 タッパーに一枚だけ残っていたタンドリーチキンをフォークで突き刺し、やけくそのようにもぐもぐと食べながらミスター・スタンは、ぼやいた。
「とにかく、誰も我輩を知らないところに行きたい」
「あれ、前も同じこと言ってませんでしたっけ」
「……そうだったな。人生は繰り返すのか」
 ミスター・スタンは、ふうーっと長いため息を吐いた。
「人生は上手くいっているときは、実に簡単にスルスルと上へ上へと登っていくものだが、上手くいかなくなると何もかもがおかしな方向に行く」
 言葉を切り、目を閉じる。
「頂点を極めると、その先に進むところがなくなる。その頂点から一度落ちると、そこからは坂道を転がるように下へ下へと人生が落ちていく」
 再び目を開けると、タンドリーチキンの最後の一口を見つめ
「辛いものを食べるから人生が辛いのか。人生が辛いから辛いものを食べずにはいられないのか」
 それをポイと口に放り込むと、もぐもぐとよく噛み、ごっくんと呑み込む。
「どっちなのだろうな」
 空になったタッパーをミスター・スタンは静かに見つめた。
 運転手はそんな彼に全く頓着せず、ミリの関心も寄せず
「以前のところもダメで、ここもダメ。ということはどこがいいのかなぁ」
 半ば独り言のように問いかける。ミスター・スタンの哀愁人生訓ポエム――とどのつまり愚痴なんか聞いていても、行先は決まらないのだから。向かう先が決まらないと仕事にならない。だって、タクシーだもん。
「人と争うこともなく、惨めな思いをすることもなく、静かに暮らせるところに行きたい。強いて言えば、のんびりとした牧歌的なところだ」
 相変わらず抽象的で困る。
「牧歌的なところねぇ……あ。そうだ」
「どこか思い当たるところでもあるのか」
 晴れやかな笑顔で運転手が頷いた。パン。

 哀愁ポエム風の愚痴を語るミスター・スタンの人生には、一体、何があったのでありましょうや。実は、彼もまた、キン子やパン太に負けず劣らずの、予定外、予測外、想定外にして想像外、生々流転の人生を歩んで来たのでございます。
  パン!
 
 某P世界の某国。彼は地方にある凡庸な町の役場に勤める公務員であった。
 彼の部署は資料室。職員が仕事のために必要とする資料の収集、管理、保管を仕事とする。町行政の記録や町史の編纂なども担う。地味でコツコツと単調な仕事だが、彼はこの仕事を気に入っていた。生真面目な彼には非常に合っていたのだ。
 彼の生活は、規則正しい。毎日決まった時間に起き、朝のルーティンをこなし、決まった時間に登庁し、ランチは栄養バランスの良い職員食堂の定食を選び、たまに残業はあたが、大概、決まった時間に退庁した。
 そんな彼の趣味はランニングや筋トレなどのトレーニングとケーキ作り、読書であった。
 ケーキ作り? そう、彼は甘党であった。コーヒーも砂糖とミルクをたっぷり入れたカフェオレが好きだった。
 彼は、単調だが、実に堅実で健康的な毎日を送っていた。彼は思っていた。たぶん、自分は一生こんな生活を送るのだろうと。結婚して生活リズムが変わることがあるかもしれないが、人生の道も、生活のテイストも大きく変わることはないだろう。
 彼は、堅実で誠実な一公務員としての人生に、何ら不満はなかった。将来がほぼ見通せる人生は、整然と等間隔で手入れされた並木道のようなものだ。ずっと先まで見通せる真っ直ぐな道。彼はこれを
 ――美しい予定調和
 そんな風に感じていた。 パパン。
 
 彼の名は、スタン・ゼンニーン。この名は、彼の国の伝説の聖人からとった名前であり、彼の国では実にありふれた名前であった。
 この聖人は、僧侶であり、心の清い他利の人であったという。死後は、人徳により、天が聖人の地位を与え、神の国に迎えたとされている。
 スタン氏は、その名のとおり、あまり欲がなかった。出世したいなどという野心などもない。
 そんな彼にもささやかな夢はあった。それは、数年前から休止されたままのオングコンテストに出場したいというものだった。 パン。

 オングコンテストとは、彼の住む地方で毎年開催されていたお祭りである。神話に出てくる怪物を倒し、国の危機を救った英雄オングの逸話にちなんだものである。袖の下に鳥の翼を模した飾りを付けた衣装を着て、深い水辺に建てた崖に見立てた櫓の上から、羽ばたくようにして飛び降りる。その飛び降り方の美しさと力強さを競うのである。
 オングコンテストの由来となった英雄オングの伝説につきまして、詳しくお話ししたいところでありますが、『少女デブゴンへの路』本編とは絡まないお話でありますゆえ、残念ですが割愛させていただきます。長くなっちゃうのでね。 パン。
 
 スタン氏は、この祭りに馴染んで育ったオングコンテストで華麗に舞う選手たちに彼は憧れた。いつか大人になったらオングコンテストに出るのが、彼の幼い頃からの夢であった。 パン。
 
 オングコンテストは、スタン氏が生まれ育った町を遠く離れて市都にあるカレッジで学んでいた頃に、祭りのゲストとして招かれたこの町出身のスーパーモデルが
「まだ、こんなものやってるの。ダサすぎだわ」
 とのたまった一言で、無期限中止となった。
 彼女の煌びやかで神々しいオーラにあてられてのぼせ上がっていた町の役所や住人が揃って彼女の言葉に感化され、まったくだと同調した結果である。
 故郷へ帰ってきたスタン氏はがっかりした。いつかコンテストに出たいと、学業の傍らもトレーニングを欠かさなかったのに。
 彼の落胆は大きかった。しかし、きっといつの日かコンテストが復活すると信じて、彼はこれまでどおり、生真面目にトレーニングを続けたのであった。 パン。

 あるとき、海外の著名なドキュメンタリー映画の監督がスタン氏の町役所を訪れ、「オングコンテストに強く興味を持った。ぜひ撮りたい」と許可を求めてきた。
 それをきかっけとしてオングコンテストは復活し、おまけに映画が世界的にヒットした。やがてオングコンテストは、国中から人が集まる人気コンテンツとあいなったのである。
 勿論、スタン氏は、復活したコンテストに勇んで参加した。そして、なんと、三年連続で優勝したのである。 パン!

 三年連続覇者となったスタン氏は、町広報誌のインタビューで勝因を尋ねられ、こう応えた。

「日々の地味な努力の積み重ねです。仕事と同じです」
 当たり前と言えば当たり前、無難と言えば無難な回答だが、これが不思議なことに世間にバカウケした。
 奇をてらった言葉より、普通の当たり前の言葉がウケてしまう。世の中には、そういうことがたまに発生する。さっぱり理由や原因がわからないのに、一世を風靡するような社会現象が偶発的に現れる。
 なぜなんでしょうかね。人類社会の不思議、いや、人類の感性の不思議。さっぱりわかりません。私も人類ですけど。 パン。

 それから、彼のところへ様々な人が訪ねてくるようになった。町役場の人たち、町議員たち、町民たち、地元新聞、評判を聞きつけた知事、県議員たち……。それは更に広がって、全国のメディアが押しかけてきた。町のイメージアップとばかりに、上司はスタン氏にそれらに積極的に応じるよう命じる。

 上司に命じられた生真面目なスタン氏は、来るもの拒まずで、求める人々と握手し、一緒に写真に収まり、取材に応じた。スポーツ雑誌に芸能誌、男性向けファッション誌に子供向けの教育雑誌、女性向け週刊誌や中高年向け健康雑誌まで、ティーン向けファッション誌を除き、ありとあらゆる雑誌の表紙を飾った。たくさんの著名人たちが――知識人、タレント、アイドル、宗教家、国会議員、果ては大統領まで、スタン氏に会いに来た。そして、みな握手して写真を撮る。
 かくして、実直な公務員オング選手のスタン氏は、あれよあれよという間に国中の人気者になった。
 スタン氏がミスター・スタンと呼ばれるようになったのも、その頃からだ男性向けファッション誌であったろうか。「ミスターと呼ぶに相応しい男は誰だ」という読者アンケートを実施しところ、ぶっちぎり一位でスタン氏が選ばれた。その号の表紙がマンダムポーズを決めたスタン氏であったのは言うまでもない。 パン!

 その頃、ミスター・スタンの日々は、すっかり狂ってしまっていた。次から次へと訪れるメディアと著名人をさばくのに時間をとられ、街を歩けば人に囲まれ、行きつけの定食屋でもサインと握手攻めで、おちおち食事もしていられない。常に日常が騒がしく、ランニングもトレーニングも、友人たちとのふれあいも、読書もままならない。ケーキも焼けない。落ち着いて仕事することすらできない。
 ミスター・スタンは思った。
(こんなのはもう嫌だ。前の生活に戻りたい)
 メディアの取材は一切断ろう。著名人たちとは会わない。そうすれば、そのうち人々から忘れられて、以前のような平凡だが満ち足りた日々にいずれ戻るだろう。
 ところが、そうは問屋が卸さなかった。 パパン!

 人気者という存在には、古今東西、その人気にあやかろう、便乗しようという者が群がるものでございます。商品のCMに人気者を登場させたり、人気者とのコネクションをアピールして自身のイメージアップに利用したり……。スタン氏も場合もまた然り。 パン!

「次の選挙にウチの政党から立ってくれませんか」
 国会議員選挙が差し迫ったある日、ミスター・スタンは与党と野党、両方から議員にならないかとお誘いがあったのだ。
 当時の内閣は、支持率順調に低下中だった。景気低迷、物価上昇、自国通貨の暴落……。国民の日々の暮らしは、内閣支持率と同じく順調に低下中であったが、政府はなーんもしなかった。野党もなーんもしなかった。与党も野党も互いに揚げ足の取り合いだけは、積極的かつ熱心であった。そんな政治に、国民は冷たい視線すら向けなくなっていた。
 次の選挙が危ない。与野党共に強い危機感だけはあった。政治が彼の人気に便乗しようと近づいてきたのも当然である。

 ミスター・スタンは、どちらの出馬要請も辞退した。
 すると与党は、大統領自らがミスター・スタンを尋ねてきた。
「無理です。私は一介の地方公務員に過ぎません」
 ミスター・スタンは、きっぱりと断った。
「では、党のイメージキャラクターとして応援だけでも」
「私、公務員ですよ? 公務員法に反します」
「えっ? そうなの? 駄目なの?」
 大統領は、思わず傍らの秘書に尋ねた。
「駄目です」
 秘書は呆れた。なぜ自分はこんなアホについているのだろうと自分自信にも呆れた。 パン。

 このときのやり取りがマスコミに漏れた。
「自分、不器用な一地方公務員にすぎないんで」
 週刊誌には、ミスター・スタンの言葉がそう書かれた。すると、沈静化してきていたミスター・スタンの人気が一気にリバイバルした。爆発した。
 人々は、ミスター・スタンのことを口々に褒めちぎる。「謙虚」「誠実」「格好いい」「渋い」「硬派」「侠気」「漢」……言葉が並んでいくにつれ、なぜかミスター・スタンの実像と、どんどんイメージがかけ離れていった。 パン。

 再び国民の人気者となったミスター・スタンをひと目見ようと、町の内外から多くの人々が彼の務める町役場の周りをうろつくようになった。ようやく日々の営みが静かになりかけていたのに、またもやさざ波が立ち始める。
 自宅の周りにも、たむろする人たちが大勢いた。当然、近所迷惑になる。日課のトレーニングもままならず、ミスター・スタンの日常生活は狂うどころか、完全に崩れ去った。プライバシーもへったくれもない。
 迷惑な者たちであるが、その多くは、なぜか普段は善良で常識的な市民であるのだ。ゆえにビジネスで近づく者たちよりもある意味、やっかいであった。
 ミスター・スタンは悩んだ。自分も仕事にならないし、同僚たちにも迷惑が及んでいる。ミスター・スタンは、この仕事が好きだった。ずっと続けていくと思っていたし、続けたい。しかし、彼は心優しき人物だった。自分がここにいることでみんなに迷惑がかかるなら、去るしかないのか……。 パン。

 ミスター・スタンが悩んでいたちょうどその頃、政界はスキャンダルの発覚が相次ぎ、揺れに揺れていた。
 投票率16パーセントという史上最低を叩き出した右議院選挙は、与党の辛うじて過半数という結果で終ったばかりであった。あきれ果てた国民から、不買運動ならぬ税金不払い運動をしようなどという声さえ聞こえてくるほどであった。
 スキャンダルの発端は、ある日、大衆週刊誌のニュースプリングに掛ってきた一本の匿名たれ込み電話であった。元アイドルである有名ベンチャー企業の社長夫人Aが不倫しているというのである。
 Aは、国民的人気アイドルグループのツダヌマンヌ88のメンバーだった。現役時代、総勢88人いるグループのファン人気投票では、最高位で69番目、最低位で87番目という人気の低さだったが、彼女の結婚が発表されたときは、かなり話題となった。薬指にでっかい高級宝石の指輪がはまった左手を得意気に掲げる彼女の写真が連日メディアを賑わせた。彼女のアイドル人生で一番脚光を浴びた日々であった。
「グループでは一番を取れなかったけれど、これほどはない素敵な人が私を一番に選んでくれました。とっても幸せです」
 彼女の結婚引退記者会見での言葉に、他のメンバーたちが歯がみして悔しがったのは言うまでもない。
 羨望と妬みを一身に浴びてAが結婚してから、一年とちょっとになる。三年目の浮気時期にも及んでいないのに、もう不倫の噂である。ガセネタかも知れないが、本当ならスクープだ。さっそく勇んで記者がAに張り付いた。 パン。
 結果、黒だった。張り付いてから数日で、オレンジ頭の若い男とラブホに入っていくAをキャッチした。相手の男の身元を探ってみるとホストだった。トレンディとはほど遠い、ちょっとダサいチバラギィ駅前のホストクラブだった。
 何でこんなしょぼいのと、と記者は思った。ところが、このしょぼいのの出自を洗ったら、ニュース番組にもちょいちょい出る有名経済評論家Bの家出中の息子だった。
 このホスト息子の家出の原因を探ったら、また新ネタが見つかった。
 ニートだった息子が、遊ぶ金ほしさに父親の高級時計やら母親のアクセサリーやらブランドバックやらをくすねて売った。発覚して大げんかになったが、そこで母親のものと思っていた婆くさい……いや大人びた高級ブランドバックの一つが娘のものだと判明。ハイスクールガールが買ってやった覚えのない、こんな婆テイストの高級バックをなぜ持っている。両親が娘を問い詰めると、娘はオジ活をしていたと白状した。 パン。
 なぜそんなことをと問うと、娘は息子を指さして言った。
「お兄ちゃんがお金が欲しいならオジ活すればいいって言ったから」
 息子は、彼の財布から金をくすねようとした妹にムカついて何の考えもなしにそう言った。兄と同じく浅はかな妹は、素直にオジ活をしたのだ。
 何てバカなことを言ったんだと両親は息子を叱った。戯れ言を真に受けた妹の方がバカだろう、なぜ俺ばかり叱ると息子は憤る。
「このがお前よりもバカだってわかってるだろう!」
 父親からこともあろうに兄よりもバカだと言われた妹が
「お兄ちゃん、バカよりバカなの」
 せせら笑った。その言葉に息子はマジギレして、家を飛び出したのだった。 パン。
 凄い話になってきたと、記者は、Bの娘のオジ活相手を探した。すると、相手の一人がある大病院の理事長Cだった。このCが最大野党の党首の兄であった。 パン。
 よくある元芸能人の不倫を辿っていったら、次から次へと芋づる式にスキャンダルが出てきた。しかも芋のつるを引けば引くほど、大物になっていく。まるでミミズで釣った小魚でエビが釣れて、そのエビで鯛が釣れてしまった感じだ。
 もうこれで打ち止めだろうと思っていたところ、経済評論家Bの娘の同級生で、オジ活仲間が見つかった。
 この同級生に記者がオジ活を装って近づいたところ、最近流行の山羊肉しゃぶしゃぶを食べながら、べらべらと顧客情報を漏らした。
 たまたま目にしたニュース番組のキャスターが馴染み客で、彼が読んでいたニュースの脱税をしたという人物が、これまたお馴染みの、最近、呼ばれないなーと思っていたオジサンだった。
草笑クサワラ。税金ごまかして、あたしらに貢いでたんかって」
 で、この脱税オジサンを紹介してくれた別のオジサンが「脱税オジサンからお金を脱税オジサンからもらって、なんちゃら工事の仕事をもらったんだって」と言う。
「普通、仕事して金もらうのに、金払って仕事するって、おかしくない?」
 更に、彼には仲間がいて
「その仲間のオジサン、オバサンたちもお金もらったんだって。ますます変じゃない? そんなにたくさんの人にお金やって、仕事するなんて。オジサンからお金もらわずに、オジサンにお金払って、オジ活するようなもんじゃない。バカなの?」
 贈収賄だ。記者はピンときた。最近、脱税で世間を騒がせた人物というと……記者がある人物の写真を見せると、ドンピシャ。そうすると、なんちゃら工事というのは、来年開催される世界博覧会場の工事か。紹介者のオジサンというのは……思いつく人物たちの顔写真を見せる。すると
「あ、このオジサン」
 彼女が指さしたのは、現職の副大統領だった。 パン!

 大スクープに世間は大騒ぎだ。副大統領がオジ活のあげくに収賄だ。
 大統領は、焦った。きっと、野党らは、自分の選任責任を激しく追求してくるだろう。それ以上にバレたらヤバいことがある。なぜなら、副大統領と同じくお金をもらったというオバサンは自分であったからだ。救いは、副大統領にそれとなく金をもらったかと尋ねられ
「返したわ」
 と嘘をついておいたことだ。
こういう後ろ暗いことは、仲間に対してでも用心しておくに越したことはない。そういうことには、神経がきめ細やかに行き届く。うまく立ち回る。危機管理能力が高い。これが秘書からアホ認定された人物が大統領まで上り詰めた所以であった。この能力がなぜか治政にはまったく活かされない。そこが非常に残念ではある。 パン。 
 案の定、野党から副大統領の選任責任を問われ、彼女は激しくどつき上げられた。
 こうなったら、どこのP世界でもやることは一つ。危機管理能力――というより卓越した保身能力を有した大統領は、己が身を守るため、遂に解散という天下の宝刀を抜いた。
 たぶん、そう来るだろうとは、誰もが思っていた。けれど、つい先だって国会議員の総選挙があったばかりなのに、また選挙だ。しかも、候補者の顔ぶれは、与野党共に全然変わらない。何のための解散選挙なのか。国民は、心底うんざりしていた。 パン。

 さて。己の進退に悩んでいたミスター・スタンは、遂に仕事を辞め、町を離れる決心をした。決心はしたが、この先の人生については、まだ何も決まっていなかった。決められなかったのだ。美しい予定調和の人生しか思い描いていなかった彼は、別の人生を思い描けずにいたのだ。
 ちょうどそのとき、大統領の元秘書がミスター・スタンを訪ねてきた。
「新政党を立ち上げて、もはや抜け殻のような政治を変えようと思っています。ついては、誠実なあなたに新政党に参加していただきたい」
 ミスター・スタンは、最初は断った。自分には政治はわからない。だが、元大統領秘書の新政党党首は諦めなかった。連日ミスター・スタンの元を訪れ、口説いた。
 根負けしたミスター・スタンは、とうとう出馬要請を受け入れた。この先の人生も思い描けずにいたから、とりあえず何かしてみようと気持ちが動いたのだ。
 結果、スタン氏は、当選した。彼のクリーンなイメージに、世間は、彼が政治を変えてくれるかと期待をしたのだ。
 思いがけず国会議員となってしまったミスター・スタンだが何をどうしたらいいのかわからない。
 だが、居眠り、セレブ気取り、格好ばかりのパフォーマンス……そんな議員たちを間近で見ているうちに、。高い給与を税金から頂いている議員としてそれはいかがなものかと憤りを覚えてきた。何しろ、元公務員である。以前も税金から賃金を頂いて暮らしていたが、金額に雲泥の差がある。こんな高い給与をもらっていながら、一介の地方公務員より働いていないって何だ。しかもやることなすこと、国益にならないばかりか、国策の実動隊である公務員に無駄な労力を課すことばかり。
 あまりにこの国の政治の中枢はひどかった。国民の忍耐と従順とが、辛うじて国の形を保持させていた。
 だが、経験の浅すぎるスタン氏が何を言っても彼らは聞く耳を持たない。スタン氏もどうしたらいいのかわからない。憤りと己のふがいなさの波に意気消沈する。
 そんなスタン氏を党首が励ました。
「最初は上手くいかないことは、よくあることだ。諦めてはいけない。今は何の成果もなくても、地道に誠実に頑張っていけば、やがて少しづつ進んでいく」
 党首の言葉にスタン氏は、はっと思い出した。オング競技と一緒だ。いつ再開されるかもわからないコンテストを待ち、日々、コツコツとトレーニングを続けていた日々を。
(そうだ。忘れていた。きっといつか道は開ける) パン。

 しかし、スタン氏が気張ったぐらいでは、景気の低下も政治の混迷もそう簡単には収まらない。政権党の内閣がなーんもしないのだから。
 遂に内閣は、史上最低の5.5パーセントの支持率を叩きだした。そして、溜まりに溜まっていた国民の政治への不信と反発が忍耐の許容を超えて決壊した。各地で政権批判の大規模なデモが繰り広げられる。 パン!

 社会は混乱し、工場のラインも物流も止まり、経済はガタガタ、国は機能不全に陥った。
 その隙を突いて、某宗教団体Xがクーデターを起こした。勝手に教祖が大総統を名乗り、国教をX教とした憲法を公布し、新政府樹立を宣言した。国はますます荒れた。
 軍は、前大統領派、国民派、某宗教団体教徒のX教派の三つに別れて小競り合いを繰り返していた。が、混乱し、荒れるばかりの国をさすがに憂い、前大統領派と国民派が、敵の敵は敵だと手を結び、国民と共に蜂起した。その際、派閥同士が揉めぬよう象徴的リーダーとしてミスター・スタンを担ぎ上げたのだ。
 ミスター・スタンは困惑した。自分はそんな器ではない。リーダー就任を皆に熱心に説かれたが、固持し続けていた。そんなとき、ミスター・スタンの所属した政党の党首が流れ弾に当たって亡くなった。新人議員の自分を励まし、面倒を見てくれた恩人である。ミスター・スタンは、遂に立ち上がった。連合軍リーダー就任の要請を受け入れたのである。
  パン!

 連合軍の熱い志に、ミスター・スタンも次第にリーダーとしての自覚が出て来た。皆を叱咤激励し、ときに自らも前線に立った。甘えを断ち、己自身も鼓舞しようと、スイーツを断ち、苦いブラックコーヒーを飲むようになった。
 苦闘の果てに、連合軍は勝利した。
  パン! パン!

 人々は、リーダーのミスター・スタンを賞賛した。新政府の大統領として彼を推した。彼はそれを受けた。
 大統領に就任したミスター・スタンの人気はとどまるところを知らなかった。新通貨名は英雄であるスタン大統領の名から「スタン」となり、スタン大統領の顔が印された紙幣や通貨が発行された。
 国民は、自らが血を流し、作り上げた新政府に満足し、安堵し、新たな気持ちで働き始めた。国はみるみる活気づいて、人々の生活も安定していった。
 ゆえに国民は、ますますスタン大統領の支持を固くする。ずっと彼にこの国を治めてもらいたい。
 やがて、スタン大統領を終身大統領にしようという声が聞こえ始めてきた。その声はどんどんと大きくなり、遂には、国民が押し上げる形で憲法が改正され、ゼニーン・スタンは、遂に終身大統領となった。

 ところが、満ちた月が欠けるように、国が落ち着くに従ってスタン終身大統領の人気も落ち着いてきた。要するに彼は、気持ちに余裕が生まれてきた大衆に飽きられてきたのだ。
 人は成人すると体の成長が止まる。生まれてから成体となるまで、グングンと身を大きくし、知識を吸収し、精神も成長していく。幼ければ幼いほど、成長の速度は早く、成長するに従ってその速度は段々と緩やかになる。そしてやがて止まる。成人になる。
 成長しきると、今度は、それまでとは逆の道を辿っていく。最初は気付かぬぐらいの速度で、やがてそれは、徐々に早まっていく。身も精神も段々と衰えていくのだ。縮まっていくのだ。
 成人になっても縦には伸びないけれど、横にはグングン膨らんでいくケースもありますけれど、それはまず横に置いといて。 パン。

 国も成長するまでは、グングンと国力が増していくが、やがて国が落ち着いてくると、その成長の速度は鈍くなる。そして、止まる。あるいはマイナスに落ちていく。国を興し、構成し、治めるのが人であるからなのか。国と人には奇妙に一致する法則があるように思えてしまう。
 衰えてくると人は焦る。往年の盛りを取り戻そうとあがく。国や社会、そしてそこで生きる者たちも同様である。
 これまでのように、ただ働くだけで、あるいは働きかけるだけで、どんどんと稼せげなくなると、人は権力のある者を利用して以前のような旨みを得ようとする。いや、以前にも増してだ。焦りがそうさせるのだ。不思議なことに、富んだ者ほどその傾向が強くなる。そういう焦りというものは、判断の正誤を微妙にズレさせる。類は友を呼ぶ。焦りは別の焦りに引き寄せられる。
 地方の一地主から成り上がった有名企業グループの総裁であるナルキーン氏も然りであった。
 ある日、ナルキーン氏は、スタン終身大統領の元を訪れた。
「スタン終身大統領の功績には、かねがね敬服いたしておりました。それを讃えて、これを進呈いたしたく」
 彼は、一着のオングコンテスト衣装を差し出した。
「あのオングコンテストは、本当に感動いたしました」
 スタン終身大統領は、はてと首を捻った。オングコンテストで優勝したのは、随分と昔の話だ。とっくの昔にコンテストからは引退した。今更、衣装をもらったところで仕方がない。
「まま、ともかく広げてみてください」
 ナルキーン氏に勧められるままに衣装を手に取った。ずっしりと重い。こんなもので飛べるか。訝しく思いながら、重さで四苦八苦しながらも広げてみる。すると
「どうです。素晴らしいでしょう。黄金の翼でございます」
 袖の下に鳥の羽のように薄い小判型の金が幾重にも重ねられて翼の形を成していた。
「こ、これは……う、受け取れない」
「いやいや、他意はございません。本当にこのように終身大統領の功績は素晴らしいと申し上げたいのです。何かの融通をしてくれとか、そういう賄賂的なものではございません。ただ、普通の衣装より、何かの折に役に立つこともございましょう……おや、もうこんな時間ですか」
 そう言って、ナルキーン氏は「失礼いたします」と大慌てで、黄金の衣装を置いたまま、そそくさと帰って行った。スタン終身大統領に、これは持って帰ってくれという間すら与えずに。
「困ったことになった。とりあえず、隠しておこう」
 スタン終身大統領は、クローゼットの奥に黄金の羽の衣装を押し込んだ。
 そのときは、本当にナルキーン氏が言ったとおりに「何かの折」が来るとは思ってもみなかったミスター・スタンであった。だが、来た。ただし、その「何かの折」とは、ナルキーン氏が意図していたものとはまったく違っていた。 パン。

 国の成長率が落ちるに従って、スタン終身大統領の人気も、じりじりと落ちていった。そのことをスタン終身大統領も感じていた。焦りの芽が彼の中に生まれ始め、それは萎む人気と反比例するように大きくなっていく。焦ったスタン終身大統領は、次々と新しい政策を考えてはけ、また考えては転け……を繰り返すようになった。彼はますます焦る。
 自分を叱咤激励しようと、彼の飲むブラックコーヒーは、ますます濃く苦くなり、食事はかつを入れるように刺激を求めてスパイシーになっていった。気が付くと、彼は大好きだったスイーツを全く口にすることがなくなっていた。
 スタン終身大統領の人気の急落に、国外に亡命していた元大統領たちが、それをそのまま眺めているわけはなかった。
 敵の敵は敵。同じく国を追い出された宗教団体Xと手を組んで、更に宗教団体Xが多額の寄付をしていた某国を後ろ盾に、元大統領派がリベンジを仕掛けてきた。
 まずは、毒殺を企てた。官邸が注文したケーキに毒を盛った。スイーツ好きのスタン終身大統領が食べぬはずはないと。だが、それは彼がまだ人気絶頂期の一介のスタン氏に過ぎなかった頃の嗜好だ。ケーキは、官邸で働く者たちに振る舞うためのものであった。結果、食べた者のうち、一人が死亡し、三人が重体となった。スタン終身大統領は、一口も食べていなかったために無事だった。
  パン!

 反政府組織は、毒殺に失敗すると、今度は刺客を放った。
 計画はこうだ。
 お出入りの清掃業者に扮して官邸に入り込み、執務室に潜入してスタン終身大統領を暗殺。暗殺後は、官邸の屋上から派手に煙を撒き散らす発煙筒を上げて、官邸内部の人間には火事の発生を思わせて攪乱し、近くで待機している武装した官邸突入チームには暗殺の成功を知らせる。そして官邸突入と同時に、シンパ国の国境近くに待機している反政府連合軍が国境を越えて侵攻する。そういう手はずになっていた。 パン!

 ところが、清掃業者に変装した刺客が清掃用具を詰め込んだカートを押して執務室を探して廊下をうろついていると、偶然、スタン終身大統領とすれ違った。漏れ聞こえてきた会話から、どうもこれから出掛けるようである。

(チャンスを逃してしまう)
 刺客は焦った。焦って、カートを押しながらスタン終身大統領目がけて突っ込んだ。実はこの刺客、新人であった。そして、これが初仕事であった。
 こんな重大な仕事をなぜ新人に任したのか。人手不足だったのか。人材不足だったのか……。 パン。

 突然、爆走しはじめた掃除カートをみな、慌てて避ける。カートは、スタン終身大統領を素通りして、真っ直ぐに廊下を突き進んで行ってしまった。
「何だ、あれ」
 スタン終身大統領をはじめ、みな、首を傾げてそれを見送った。
 粗忽な新人刺客は、動転した。暗殺に失敗した。標的は手強い。応援を呼ばなくちゃ。
 彼は屋上に駈け上がると、発煙筒を焚いて置いた。そして、別の発煙筒にも火をつけ、それを手に官邸内を走り回った。
「火事だ! 火事だ!」
 官邸内を混乱させようとしたのだ。
 煙が官邸の廊下を走り、充満する。SPたちはスタン終身大統領を誘導して避難させようとするが、煙を察知してスプリンクラーが作動、煙を避ければ水攻め、水を避ければ煙責めという状況に右往左往する。
 そうこうしているうちに、とうとう、スタン終身大統領はSPたちとも秘書たちともはぐれてしまった。
 遂に武装チームが大胆にも正面入り口から官邸に突入してきた。銃が乱射される音が響く。もう、危険が火事なんだか、火器なんだか訳がわからない。
  パパン!

 武装集団は、官邸の正面入り口から徐々に奥に進んでくる。どんどんと迫り来る絶え間ない機関銃やら何やらの戦闘音、怒声怒号、阿鼻叫喚に押されるように、スタン終身大統領は、奥へ奥へと逃げていった。すでにこの騒ぎが、ただの火事ではないことは、明白である。
(クーデターか。このままでは死ぬ。殺される)
 何とか官邸から脱出せねばならない。
「うわっ」
 何かを踏んづけてスタン終身大統領は転んだ。見ると清掃員の制服である。例のおっとこちょい新人刺客が脱ぎすてていったのだ。その近くには、掃除用具を積み込むカートもあった。
(これだ!)
スタン終身大統領は、一番奥にある自室に駆け込むと、清掃員の制服を着て、カートに金品を積めるだけ積み――もちろん例の黄金羽の衣装も一緒に――ぞうきんやらモップやらで隠した。そして、混乱錯乱しながら逃げていく官邸の使用人たちにこっそりと混じって、勝手口から外に逃れた。
  パン!

 掃除用具カートを押しながら、彼は官邸からどんどん離れていった。
 街には、すでに国境を越えて侵入してきた反政府軍の戦車が、車両が、兵士が走り回っている。あちこちから絶え間なく銃撃音や爆破音が聞こえ、火の手が上がった。
 彼は、もはや誰が敵か味方か、暴れているのが暴徒かどこの武装勢力かもわからぬままに、弾が飛び交い、人々が殴り合う騒乱の街を命からがらに抜け、ただひたすらに必死で走った。
  パン! パパン! パン、パン!

 どれだけ走ったのだろう。気が付くとスタン氏は、見知らぬ農道にいた。
 モォーと牛の鳴き声がする。長閑(のどか)な風景だ。一体どれだけ歩いて来たのだろう。行く当てもないまま、カートを押して力なく歩く。自分はどうなってしまうのだろう。
 彼の脇を年代物の軽トラックが走りすぎていった。向いから老人がキーコキーコとゆっくり自転車を漕いでやってくる。通り過ぎるときに老人は彼に
「ごくろうさんですね」
 穏やかな声を掛けた。
 しばらくはそのまま真っ直ぐに歩いていたが、終わりの見えない一本道に、彼はふいに立ち止まった。空を見上げると、ふわふわと白い雲が青い海のような空を泳いでいくのが見えた。風が優しくそよいだ。彼は無意識に伸びをした。
 すると、彼の横に車が1台停まった。いつの間に来たのだろう。後部座席のドアが開いた。まるで彼が乗り込むために開けたというように。その車の屋根の上には個人タクシーを示すランプがのっかっていた。ふらふらと誘われるようにスタン氏はタクシーに乗り込んだ。
「お客さん、どちらまで?」
 運転手がにこやかに尋ねた。
  パン!

 思うより長くなってしまったミスター・スタンのお話は、ここまでとなります。いかがでした? 結構、波瀾万丈でしたでしょう。彼の半生で、別に独立した一つの物語ができあがってしまうってなものです。
 いつか『少女デブゴン外伝』なり番外編なりとして、フルで聞いていただきたいと思っておりますので、乞うご期待。
 
 今回は、主人公キン子のキの字もでてきませんでしたが、次からは、また少女デブゴンのお話の本筋に戻ります……と言いたいところですが、またしても次の一席の主役は別の人。ただし、キン子の影は、ちらほらと見えます。
 さあ、どんなお話でありましょう。
 では、また後ほどお会いしましょう。ぺこり。

    🍮 🍮 🍮 🍮 🍮

 室内は、しーんと静まりかえっていた。カチコチと時計の秒針だけが響いている。
 衝撃的なミスター・スタンのバックグラウンドに、タマサカ家一同、誰もが無言、微動だにしない。
 ――ぐーぎゅるぎゅるる……。
 沈黙を破ったのは、キン子の腹の虫だった。
「あ、おやつの時間か」
 アイン君が立ち上がった。
 途端に金縛りに掛ったかのようだった一同の強ばりが解けて、みな一斉に「はぁ」と息を吐いた。
「今日はパイナップルプリンを仕込んどいたんだよね」
「プリン!」
 キン子とパン太は、冷蔵庫を開けて覗き込んでいるアイン君のもとに駆け寄った。
「スプーン、出してね」
「「イェッサー!」」
 子どもたちは元気に応え、キン子がアイン君からプリンの並んだバッドを受け取り、パン太がスプーンを人数分取り出す。
「ウチらの分は?」
 カットちゃんが小さくハサミをチャキとさせた。アイン君は冷蔵庫から出したエナジーボトルを掲げて見せた。
「パイナップルプリン味」
 ソンタ君がトットコトットコと太鼓で喜びのリズムを刻んだ。

 おやつタイムとなったタマサカ家は、いつもの調子をすぐに取り戻した。
「これまた想定外だったねー」
 プリンを口に入れたまま、はっはっはーとタマサカ先生が笑った。一同、タマサカ先生の口から礫のように飛んでくるプリンの唾をザザッと椅子ごと後退って避ける。もはや条件反射である。
 あっという間にプリンを平らげたキン子が
「ミスター・スタンも、あたしたちと同じように別のP世界からここに来た人だったんだ」
 パン太の眼鏡がカクカクと頷いた。
「ココとは違う感じのP世界だけど、でも、ボクたちのいたP世界よりは、ずっとココに近いね」
「そうだネ。科学技術は、ここより少し遅れてるようだけど。インターネットも携帯電話もないし、PTAもない」
「それって、PW連邦外ってことっスか」
 ゴッちゃんがはっとする。
「君ィ、今頃気が付いたの?」
 タマサカ先生が嬉しそうに笑った。またしても飛び散るプリン唾に、今度はみんな上体を低く折ってそれをかわした。

 プリンを食べ終えると、タマサカ先生は、アイン君に命じられて自分が飛び散らかしたプリン唾の後始末を始めた。「とほほ……」と嘆きながら、テーブルや床を拭く。
「さてと」
 一仕事終えると、タマサカ先生は、すぐにいつもの調子を取り戻す。
「前に、もし、パン太がいるP世界に、別のP世界から別のパン太が来たらどうなるかという話をしたよね」
 うん、とパン太。
「別のP世界には、パン太はいないけれども、パン太に似た人物がいることはあるんだヨ」
「パン太はいないけれど、ポン太はいるとか?」
 キン子が冗談めかして言う。
「その通りだヨ」と言うタマサカ先生の言葉に、キン子は「えっ、マジ?」と目をぱちくりさせた。
「そう。パン太Aが別の、あるP世界に行くと、パン太Bはいないけれども、よく似たポン太が、あるいはバン太がいたりすることはある」
「あ、だからパン太は『被らない』んだ。似ているけれども、同じじゃないから」
 パン太が理解したとばかりにパンと手を打った。
「そうすると、ここにもタマサカ先生に似たダマサカ先生とかキン子ちゃんに似たテン子ちゃんがいたりするのかな」
「いや、それはナイナイ。少なくともワタシに似たダマサカ先生はいないヨ。ちゃんと調べてから、このP世界に移住してきたんだから。そっくりさんがいたら、ややこしいだろう。……まあ、テン子はどうか知らんが」
 タマサカ先生が手を横にぶんぶん振って否定した。
「ところで、今、PW連邦に加盟しているP世界がいくつあるか知ってるかな?」
「ええと……179だっけ?」
「そう、そのとおり。パン太の言うように、PW連邦には、今現在179のP世界が加盟している。そして未加盟だが、その存在が確認されているP世界が82ある。そのうち加盟申請中が五。申請検討中が7。あえて加盟しない鎖国ならぬ閉鎖P世界が3つある。
 ワタシたちが今いるP世界は、M-108とナンバリングされている。Mというのはmemberメンバー――仲間っていう意味、その頭文字だヨ。ワタシの出身P世界は、まだPW連邦未加盟だからN-六九。NはnotノットのN。数字は加盟P世界なら、加盟した順、未加盟なら発見された順だ。未加盟から連邦メンバーとなれば、その未加盟ナンバーは欠番となる」
 パン太が「じゃあ、ボクたちのいたP世界は何番目?」と聞いた。「たぶん、先に発見が申告されているのがなければN-83になるかな」とタマサカ先生。
「今私たちがいるP世界を規準にして、他のP世界を比べてみても、区別が付かないほどよく似たP世界もあれば、そうではないP世界もある。技術や文明の発達度が桁違いに違うところ。科学や文明の発達度が同じでも、言語体系が全然違うところ。物質的、精神的、あるいは社会的な価値観、統治体制、家族単位、風俗文化などなど細かなことが微妙にズレているところ。棲息する生物の見かけや生態が微妙に違うところ、このP世界にはいない生物がいる、逆にこのP世界に当たり前のようにいる生物がいないところ……。実にいろんなP世界がある」
 タマサカ先生が人差し指を立てた。
「だが、ただ一点、絶対的共通点がある」
 いつになく真剣な眼差しでタマサカ先生が言葉を切った。
「それは『人類』――しかも我々がいうところの人類の一種であるホモ・サピエンスがいることだ。呼び名がサピエンスだったり、地上人だったり、神似類だったりと、違っていることがあるが、同じ生物だ。姿形、生態、知能、全く一緒だ。
 今のところ、人類――ホモ・サピエンスの存在していないP世界は発見されていない」
 パン太が目を見開いた。
「人類のいないP世界があっていいのに、なぜ人類のいないP世界が見つかっていないのか」
 パン太が無言でムンクの叫びをあげる。
「それはどういうことなのか。つまりP世界は違っても、P宇宙は同じということではないか。いや、P宇宙は違っても、『宇宙』とはまた違った分類の『何か』が違うということなのか。あるいは、宇宙もその何かも違って、『別の何か』が同じなのか。アクセスを可能にする何かが同じであるのか」
 パン太は、今度は金魚のように口をパクパクさせる。
 キン子がパン太をちらりと見た。何がそんなに驚きなのだろう。
「最近、この謎について盛んに議論が交わされているが、結論は元より、仮説さえも机上の思考の域を出ていない」
 タマサカ先生は、次席の鑑賞に備えてテーブルに広げられていたお菓子の中から、ソンタ君の掌ぐらいの大きさのミックスナッツが入った三角錘の小袋摘まんで
「案外、我々はこの小袋の中しか知らんのではないか。この小袋の中で、アーモンドがピーナッツを指して、あるいはピーナッツがカシューナッツを見て、あそこのP世界のどこが違う、ここは同じだと、やいのやいの言ってるだけじゃないか。ピーナツだろうがアーモンドだろうが、ナッツはナッツだというのに。そして、こんな小袋の世界ですら、我々は広くて持て余している。この小袋以外の世界なり、宇宙なり、何なりを知らずにな。いや、知らないというより、知ることが端からできないのかもしれない。
 我々は、決してこの小袋の世界がすべてだとは必ずしも思ってはいない。少なくとも別の世界もあるのではないかと考えはする。
 だが、小袋から出ることが、どうあってもできない。我々が我々である限りは。このP世界がこうである限りは」
 タマサカ先生は、浅い冷茶グラスに氷を入れ、そこに麦茶を注いだ。
「井の中の蛙(かわず)、大海を知らずというが、我々がいるのは、大海どころか井戸でさえなくて、この浅いグラスの中、あるいは水溜まりの中かもしれない」
 タマサカ先生がグラスを振る。中の氷が軽くぶつかり合って、カラリと小さく音を立てた。
「グラスの中の氷も、水溜まりのアメンボも、深井戸さえも知らずだな」
 キュッとグラスの中の麦茶をタマサカ先生は飲んだ。氷がまたカラカラと涼しげな音を立てた。
「……でも、もしかすると、アメンボは、水溜まりの外にも世界があることを何となくわかっているのかもしれない。頭上を見上げれば空が見えるから。空はあるっていうのはね、知ってるかもね。ただ、見えてるだけ。外に何かがあるかもと想像するだけ」
 大人たちは、ああ、そうねと軽く頷いて聞いているが、『考える人』ならぬ『考える子供』のパン太には、すごい衝撃だったようだ。「すごい。そのとおりだ。気が付かなかった……」などと、半ば放心状態で口の中でブツブツ呟く。
 キン子はキン子で、ミックスナッツの三角小袋を開けて、「あ、これ無塩ノンオイルだ」と独りごちながら、ポリポリ食べている。そして、次から次へとナッツの小袋を空けながら
「わかるような、わかんないような……。空はそこにあるって私らも知ってて、アメンボと違って飛行機で空へ向かって行くこともできるけど……でも掴めはしないよね。どこまで飛んでいっても空は掴めない。全然違うP世界のあるP宇宙だっけ? には行けないっていうのは、そういうことと同じなのかな? 違うかそれは……。そして、これはそらじゃなくてから
 空っぽになったナッツの小袋を振って、クスッと笑った。
 今度は、この場にいるキン子とタマサカ先生以外の全員の口がムンクの叫びを形作った。
 誰かが「恐るべし、無意識キン子」と呟いた。
 タマサカ先生は、嬉しそうに言う。
「そだね。まあ、アメンボが空というものを認識できるのかどうか知らんがな」
「知らなくてもアメンボは生きていけるもんね」
「そのとおりだヨ」
 タマサカ先生とキン子が揃って「はっはっはー」と笑った。誰かがまたしても「恐るべし、天然……」と呟いた。

 〈続く〉


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