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少女デブゴンへの路〈3席目〉

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  (縦書きリンク先では、第2章冒頭から始まります。ご了承ください)

  3席目 新世界生活

  ――パン!

 皆様、おはようございます。こんにちは。おばんです。
 視聴されている時間がいつなのかわかりませんので、とりあえず全時間帯の挨拶言葉を網羅しておきます。
 おっと、「おばんです」は、おばはんのオバンじゃありませんよ。おばんの「ばん」は「晩」という意味です。「今晩は」という夜のご挨拶の言葉で、某P世界の某国の某地方の方言でございます。 パン。
 私のいる所では、今、午前10時ぐらいですか。
 デパートなんぞでは、入り口に従業員の方々がずらーっと並んで「おはようございます」と頭を垂れてお客様をお迎えしている時間帯。ってことで、とりあえず朝区分の時間ですかね……なんですけれども、実は季節外れの台風が来ておりまして、外は黒雲垂れ込め、雨風吹き荒れ、真っ暗というか、もう真っ黒。部屋の中も暗い、暗い。本当に朝になったんだか、まだ夜なんだかわからないくらいです。起きた瞬間、あ、もう夜ですか。お休みなさい。って、布団に戻りそうになりましたよ。 パン……。

 さて。タマサカ先生の家があるP世界に連れて行かれたキン子たちは、いかがな朝を過ごしているのでしょうか。
  パパン!

 すがすがしい朝である。初々しい陽の光が見守る中、優しくそよぐ風と芽生え始めた新緑がワルツを踊っているかのように、そよそよと揺れている。
  タッタカ、タンタン、タッタカ、タンタン♬
 ファニー・サイエンティストの玉坂泰造博士――タマサカ先生を筆頭にしたタマサカ家の人たちも、軽快な音楽に合わせて踊るように体を動かしている。タマサカ家オリジナルの『どすこい健康体操』だ。
「ほいっちに、さんし、ほいっちに、さんし……」
 ゴッちゃんの掛け声が妙に長閑に聞こえるのは、彼のキャラクターゆえんだろうか。それとも季節のせいだろうか。
 ゴッちゃんは、元相撲レスラーで、タマサカ先生の助手兼ドライバーである。四股名は「剛美山ごうびやま」、本名は剛和美ごうかずよしという。現役時代よりは若干スリムになったが、3Lサイズの巨体である。彼が飛び跳ねる度に軽く地が揺れる。U字ヘアーの中央部では、汗が朝日に輝いている。どすこい健康体操は、ご想像どおりにゴッちゃん考案である。
 キン子もパン太も、ゴッちゃんに倣って跳んだりはねたりしている。タマサカ先生も一緒に跳んだりはねたりしているが、みんなと動きがズレている。それは、古希カウントダウンなお年頃、アラ古希というお年のせいばかりではない。
「ワタシはウンチだからねぇ。はっはっはー」
 タマサカ先生は、運動音痴である。運動音痴――略して運痴ウンチというわけである。
 余談であるが、視力はなかなかよろしい。両眼共に1.5。どういうわけか近眼でも老眼でもない。不思議なお人である。
 タマサカ家人類が体操している側では、無機質系人型類ひとがたるいのソンタ君が「すごい、すごい」「お上手ですね」「頑張って」などと抱えた太鼓をポコポコ叩きながら褒めている。そして、時たま「はぁっ」と小さくため息を吐く。なぜ?
 なぜって、ヨイショや忖度した後って、そうしたくなりません? ねえ、皆さん。
 ソンタ君は、タマサカ先生が、たまたままさかで生んだ無機質系人型類だ。そのお仕事は、ヨイショ担当、太鼓持ち係である。
 タマサカ先生が物事の損得を計算して数値化するシステムを開発中に、ただのシステムじゃ面白くないから人型化しようとしていじくり回しているうちにそうなった。ほめて欲しい人、持ち上げて欲しい人、声援して欲しい人などの側で、その人の承認欲求のほどを忖度して、ヨイショしたり、応援したり、ほめちぎってくれたり、おべっかを言ってくれたりする。
 忖度とかおべっかとか聞くと、何か嫌らしいというか卑しいというか、そういう印象がしますよね、皆さん。
 でも、ソンタ君は、見た目が実に可愛らしいので何となく憎めない。新生児ぐらいの大きさで、ぬいぐるみの熊さんとお猿さんと狸さんを足して三で割ったような、もふもふ感あふれるボディにクリッとしたお目々、小首を傾げたり、短い足でちょこっちょこと歩く姿も愛らしく、おべっかしたって、忖度したって、ヨイショしたって、何やったって許せちゃう。同じことやったらムカつくとかキモいとか言われるオジサンたちからすれば、心中複雑でございましょうが。
 ま。ヨイショする愛玩動物みたいなものですか。正直、役に立ってるのか立ってないのか、今ひとつよくわからない気がしますけどね。 パン。
 庭には、ソンタ君の他にもう一体、カットちゃんという名の無機質系人型類がいた。
 カットちゃんは、庭に自生するふきを自前のハサミ手でチョンチョンと採取している。首から提げた籠の中には、採れたての香を放つ瑞々しい蕗が数本入っている。
 体操をしながらキン子が、横目でチラチラとカットちゃんを見る。お昼か夕食に蕗と油揚げの煮付けかな。シンプルだけどおいしいんだよね。それとも、まだ随分と細いから伽羅蕗きゃらぶきにするのかな。伽羅蕗はご飯が進むんだよなぁ。
 ――じゅるり。
 キン子は垂れそうになった涎を慌てて啜る。
 さて、自前ハサミで家庭菜園の収穫をしているカットちゃんだが、本業はヘアカット職人だ。
 カットちゃんは、コロンとしたハンプティダンプティ体型で、体の真ん中に某漫画の某猫型ロボットのようなポケット型の引き出しがある。その上にボールみたいなまん丸の頭がのっている。まん丸のビー玉みたいな目が二つと唇のない一文字の口が一つ。メインアームの左右の手の先はハサミになっていて、それをポケット型の引き出しに突っ込むと、用途に応じてハサミが変更される。メインアームの下には、カット以外の用途に使用される補助アームがある。通常はボディに格納されていて、必要なときに出てくる。ヘアブラシやドライヤーを持ったりするときに使われる。エナジードリンクを持ったり、タブレットを操作したり、鏡を拭いたり……といった人の手が行うような作業をほぼ代行してくれる。上背は低く、パン太ぐらいだが、カット対象の背丈やカットの部位に応じて足が伸び縮みする。
 カットちゃんは、タマサカ先生が植木職人の無機質系人型類を作ろうとしていて、たまたままさかで、ヘアカット職人になってしまったのだった。ヘアカット職人なので、庭木の硬い枝は剪定できないが、家庭菜園の収穫ぐらいは、そのハサミでチョンチョンとできる。焼き海苔を細かく切って刻みのりにしたり、タマサカ先生のお手伝いで雑誌や新聞の切り抜き、メモ作りなどなど、その他、切る系のお手伝いもする。
 ヘアカット職人だから、当然、髪を切る。タマサカ家の人類のヘアカットをするのは、カットちゃんだ。というより、タマサカ家の人類のみヘアカットしている。
 なぜか。カットちゃんは、その存在が公に知られていない。カットちゃんが世に出てしまうと、人類の理容師、美容師が大量失業してしまう恐れがあるからだ。しかし、カットちゃんはカットしかできないので、パーマや毛染め、シャンプー、ひげ剃りなどのほかの理容美容サービスは提供できない。すると実際に影響が及ぶのは、カット専門店だ。千円カット店なんてのが一番ヤバい。理容師、美容師が全員、職を失ってしまうことにはならないが、やっぱり理容業界に激震が走るだろう。
 人手不足の地域では、足りない人手を補えて、むしろ喜ばしいのだが、そうではないところでは、カットちゃんの存在は、大げさに言えば、人類の職を奪う死に神に等しい。
 じゃあ、人手の足りない地域でのみ、無機質系人型類カット職人が働けばいいじゃんと思うだろうが、そうは問屋が卸さないのが人類社会である。人類のカット職人は、教育もしなければならないし、上手い下手のバラツキもある。同じ人でも、体調などで日によってバラツキもあるだろう。感情や人格にもバラツキが多く、人間関係なんて、可視化できないウェットで曖昧な事どもにも配慮しなければならない。人件費もバカにならない。給与のほかに社会保険だの福利厚生だの何やかやと経費が掛る。雇用主にしてみれば、人類よりも無機質系人型類の方が手間も経費もかからず楽なのである。だから、雇用主側が無機質系人類カット職人の存在を知れば、そっちに採用シフトするのは必至である。
 そんな世知辛い理由で、カットちゃんは社会デビューできず、タマサカ家新規加入のキン子とパン太を入れて、総勢たったの四名の頭髪のみ相手にしている。
 おっと。もう一人いた。お隣の古い洋館に住むミスター・スタンだ。ミスター・スタンは、数ヶ月ほど前、ずっと空き家だった洋館に引っ越してきたのだ。
 たまたま彼が引っ越しの挨拶にやって来たとき、カットちゃんが庭でタマサカ先生の髪をカットしていた。ミスター・スタンは、硬くてもじゃもじゃの髪と顔半分を覆う髭がトレードマークだが、そのときの彼の頭髪は、もの凄いことになっていた。怒髪天をつくがごとく、ボサモジャ頭髪が顔の長さよりも高く天にそびえて、トレードマークというよりもはやランドマーク。そんな隣人を見かねて、タマサカ先生が「よかったら切っていく?」と勧めたのだ。
 彼の難癖のある髪をカットちゃんは、上手に切り揃えてあげた。
「髪がふさふさしていた頃のラジニカーントみたいだヨ」
 ボリウッドスーパースターみたいだとタマサカ先生が褒めた。スーパースターと言われれば、ミスター・スタンもまんざらでもない。ただし、ボリウッドもラジニカーントも彼は知らない。P世界が違いますからね。
 それからというもの、カットちゃんの腕前を気に入ったミスター・スタンは、髪が伸びるとカットちゃんのところにやって来るようになった。そして、カットしてもらう。無料(ただで。「腕が鈍らないように、ワシの髪を切らせてあげよう」とかなんとか言っちゃって。結構、俺様。図々しいんである。
 ところで、ミスター・スタンが引っ越し挨拶に持参したのは何かというと、インスタントラーメンでございました。この国では引っ越しの挨拶には麺類を持っていくと、旅行ガイドブック『世界の股旅方法』で読んだからだ。
 そう、彼は異国人。どこの国かは、ちょっとよくわからない。東南アジアっぽい感じもするし、中東っぽい感じもするし、南米っぽい感じもする。顔立ちが濃いだけで、案外東欧か東アジアな気もする。ちなみに、言葉は多少アクセントに癖はあるが、この国の言語を流ちょうに話す。何気に謎の人物。彼については、まあ、追々、物語の中でわかっていきますので、今はこの辺にしておきましょう。
 ともかく、ヘアカットできる人たちが限られているので、カットちゃんとしては、手持ち無沙汰で宝の持ち腐れである。切りたい欲求を他のお手伝いで紛らわせているというわけだ。ああ不憫。 パン……。
 
朝ご飯ができましたよーっ!
 庭のスピーカーからアイン君の声が響いた。
 タマサカ家の敷地は広い。人類四名と人型類三名が住む母屋の他に、タマサカ先生の研究舎、菜園、資材庫、収穫物を保管する小屋がある。あと、プレハブだが客用の小さな一軒家もある。ゆえに呼び出しのために、敷地のあちこちにスピーカーが設置されているのだ。

 アイン君は、カットちゃんやソンタ君と同じく無機質系人型類で、タマサカ家の家事を取り仕切っている家事担当「CHO(Chief Housekeeping Officer)」 最高家事責任者である。家計のやり繰りも含めてタマサカ家の日常を締めているがゆえ、タマサカ家の影のCEOだの、お局だの、地上最強主夫だのとも呼ばれている。
 なんたって、食を仕切る者は家庭内最強なのである。食わせてもらえなければ生きていけない。毒を盛られれば死んでしまう。身体に悪いものを与え続けてジワジワと殺すことだってできる。怖い。もっともアイン君は基本一般常識人――もとい一般常識無機質系人型類であるから、そんなことはしない。
 アイン君は、カットちゃんと違って、ひょろりとした体型だ。身長はタマサカ先生とほぼ一緒、見た目も作りも人類に近い。ヒューマノイド型とかアンドロイド型とか言われるタイプだ。割烹着を身につけ、スリッパを履き――外に出るときはサンダルやスリッポンシューズ、畑に出るときは長靴を履く。眼鏡を掛けたような目と一文字の口が特徴だ。料理洗濯掃除はもちろん、早く寝ろとか起きろとか、歯を磨けとか、好き嫌いするなとか、ハンカチ、ちり紙を持ったか、風邪気味じゃないか暖かくしろ……などなど、健康や身だしなみを含め家人の日常生活を口うるさく管理監督する。
 カットちゃんは、アイン君のよき相方である。菜園の野菜を採ったり、海苔を刻んだり、袋物を開けたりしてアイン君を手伝う。じゃあ、もう一名というか一体の人型類のソンタ君はハブかというと、そうではない。アイン&カットの弟分、被保護者としてかわいがられている。
 さて、やたら出てくる無機質系人型類とは何ぞや。ぶっちゃけロボットのことである。なぜタマサカ先生がアイン君たちのことをロボットと簡潔な言葉を使わず、無機質系人型類なんて面倒くさい言葉でわざわざ表現するかというと、ロボットの語源は、チェコ語で強制労働や労働者を意味する言葉であるからだ。我が子同然のアイン君らを、タマサカ先生はそんな言葉で括りたくなかったのである。まあ、隷属労働者などという言葉は、影のCEOアイン君なんかには似合わないですもんね。
 
 アイン君の呼び出しに
「ご飯だ、ご飯だ」
 待ってましたとばかりにキン子が土煙を上げて、ずどどどどーと駆けて行く。
「待ってよぉ」
 パン太がその後を慌てて追いかけて行く。 パン!
 
 売残り小屋から逃走したキン子とパン太が、たまたままさかでタマサカ先生に拾われて、タマサカ家で暮らし始めてから早一ヶ月が経とうとしていた。
 タカサカ家のあるP世界は、キン子たちがいたP世界とは随分と勝手が違う。人々の服装も暮らしも道具も、文化も政(まつりごと)も全く違う。技術も科学も格段に先を行っている。最初は戸惑うことしきり、何もかもが珍しく、何もかもが想像の域を超えていた。
 が。子供の学習能力と適応能力恐るべし。物珍しさと便利さにキャッキャ、ウフフと楽しんでいるうちに、スポンジが水を吸い込むように、あっという間に慣れてしまった。今は、TVもラジオもPCもスマホも、ほぼ自在に使いこなす。最初は、生まれて初めて目にする写真や動画に、何の魔法だと仰天してギャーギャーと大騒ぎしていたのに、もう生まれたときから目にしていたかのような馴染みっぷりだ。
 子どもたちは、PCやスマホなど情報機器を使えるようになると、そこからあっという間に、このP世界の社会のことも吸収していく。
 ここでは、荷運びは牛馬や人力ではなく、機械の乗り物である。人もその機械の乗り物で長距離を移動する。地上では自動車や電車、列車などに乗って、飛行機という乗り物で空を飛んで移動することもできる。これらの乗物はすべて、ガソリンとか電気とか、お金の掛かるエネルギーが必要だ。しかも訓練して免許というものを取得しないと動かせない。だから、これらは大人でも子供でも誰でも乗ることはできるが、動かせるのは大人だけだ。が、免許もいらず、お金の掛かるエネルギーもいらない、人力で漕ぐ自転車という乗り物もある。これは子供でも乗れるから、キン子とパン太は、ゴッちゃんに教わって乗れるようになると、すぐに夢中になった。
 他にも便利な機械がいっぱいあって、食べ物を日持ちさせたり、冷やしたり、凍らせたりする冷蔵庫、ゴミを吸い取る掃除機、ボタンをピッピと押すとお洗濯してくれる洗濯機、お米とお水を入れてスイッチを入れると決めた時間にご飯を炊いておいてくれる炊飯器、食べ物を温めたり、蒸したりできる電子レンジ……。慣れてしまうと、もう元の世界には戻れない。
 タマサカ先生が首からぶら下げていた変な紐は、ループタイといって、このP世界のおじさんたちが休日のお出掛けのときに、お洒落のつもりで首からぶら下げるものだ。似たものでネクタイというものがあり、平べったく細長い布で、首にキュッと絞めるように結ぶ。主にサラリーマンとかいう仕事の人たちが仕事着の一部として首からぶら下げている。そんなこともわかってきた。 パン。

 タマサカ家の食卓は、人類が料理を食べ、人型類は専用のエナジードリンクを飲む。今朝もアイン君の作った朝ご飯の前に人類たちが座り、アイン君やカットちゃん、ソンタ君の人型類はエナジードリンクのボトルの前に座る。
「みんな、そろったね。では」
 タマサカ先生の音頭でみんな一斉に「いただきます」をする。
 タマサカ先生が元気にご飯を食べる子どもたちに目を細める。
「キン子もパン太も、我が家の生活にはずいぶんと慣れてきたようだね」
「やっぱり、子供ってのは、新しいことを覚えたり、慣れたりするのが早いッスね。それに、あっちの言語とこっちの言語がほぼ一緒だったのも良かったッスね」
「そだね。同じP世界でも国や地域が違えば言語が違うんだけど、ありがたいことに、この子たちの住んでいたところと、このP世界の、この国の言葉と同じだったからね。この言語は結構、他の言語から言葉を拝借してきているし、標準語は方言をかき集めてパッチワーク状なのに、よくもまあ、大した違いがなかったもんだ。一体どういう偶然なのか、必然なのかわからんが、P世界は、まだまだわからんことだらけだからなぁ。ま、このラッキーを素直に喜んどこう」
 はっはっはーと唾を飛ばしてタマサカ先生が笑う。素早くアイン君が透明なプラスチック板をタマサカ先生の面前に差し挟む。タマサカ家では、お約束の光景だ。
「タマサカ先生の元いたP世界でも、ここと言葉は一緒だったの?」
 パン太が尋ねる。
「そ。元とよく似たP世界を選んで引っ越してきたんだヨ。いろいろと面倒ないからネ」
「言葉の違うところに行くときは、どうしてるの?」
「翻訳機があるヨ」
 言葉の違う場所に行った場合は、翻訳機がある。これはタマサカ先生の発明ではなく、PW連邦から支給されたものである。ときたま珍妙なやくが出てくるが、まあ意味は掴めるからなんとかなるという。
「そのうち改良してやろうとは思ってる」
 発明家タマサカ先生の目がキラリと光った。
「ゴッちゃんも、タマサカ先生と同じP世界にいたの?」
 キン子が聞いた。
「そうだよ。タマサカ先生は、自分の大学時代の恩師なんだよ」
 元相撲レスラーのゴッちゃんは、意外や意外、理系男子なのである。しかもマスター持ち。現役引退後に大学に戻り、タマサカ先生の助手になったのである。
「いろんなことを教えてくれた人を恩師っていうんでしょ。そしたら、タマサカ先生とゴッちゃんも、あたしたちにいろいろ教えてくれるから恩師だね。あと、アイン君とかカットちゃんとかも」
「あっ。そうだね!」
 パン太が椅子に座ったまま、ぴょこんと小さくはねる。キン子ちゃんって、ときどき、ボクが気付かないことに気付くんだ。凄いなあ。感心するパン太。素直な子である。
「じゃあ、ソンタ君は、何?」
「先輩?」
「可愛すぎて先輩って感じじゃなくない?」
 キャッキャする子供たちを大人たちは微笑んで見守っている。ああ、平和。 パン……。

 ふと、パン太がP世界というものを知ってから、疑問に思っていたことをタマサカ先生に尋ねてみる。
「P世界って、いろんな種類があって、そうだったかもしれない世界もあるんだって、タマサカ先生、言ってたよね。例えば、ボクが書籍屋に奉公しないで、出家してお寺の小坊主になっていたら――」
「えっ。もしかしたらそうだったの?」
 キン子が驚く。
「うん。お婆ちゃんが亡くなったとき、そういう話もあった」
「そしたら、あたしと出会わなかったってこともあり?」
「うん。それでもキン子ちゃんと出会ったかもしれないし、別の出会い方だったかもしれない」
 キン子がうーんと首を傾げて唸る。
「でね、その別のボクがいるP世界に、ボクが行ったら、ボクはそのP世界で二人いるってことになるの? それとも、どっちか消えちゃうの?」
「何かこんぐらかってきた」
 キン子は頭を揺らす。
「パン太Aがパン太BのいるP世界に行ったとして、AもBもそのP世界に両方存在するのか、AかBのどちらかが消えちゃうかってことだよネ」
 タマサカ先生の言葉にパン太が頷く。
「そのことについては、いろいろな仮説があってネ、一つは、パン太Aがパン太BのP世界にいった瞬間、別のIF(イフ)――つまり『だったかもしれない』P世界になるから、全く別のP世界が発生して、そこにいるパン太は、パン太B仕様のP世界にいるパン太Aだ。という説がある」
「それって、パン太Bは消えちゃうってこと?」
「いやいや。パン太Bはパン太Bで、パン太Aが来なかったP世界で存在し続けるんだ」
「えー、増々わかんない」
 頭をかきむしって、手足をジタバタさせるキン子。
「それとは別に、パン太Aは、枝分かれP世界のパン太BのいるP世界には行くことができないという説がある。どういう原理が働いているのかわからないけれど、パン太はAだろうがBだろうが、パン太はパン太だから、同時には存在し得ない。P世界の境界に見えないバリヤーか排除機能があるかのように、別のパン太のP世界には、今ここにいるパン太は行けないんだ」
「……それって、『だったかもしれない』世界に行けないってことだから……とどのつまり、人生は時間を戻ってやり直せないってこと? あ、それ当たり前か」
 キン子の言葉に、ほかの人類三名と人型類三名がはっとして目を見張った。
「結果として、確かにそういうことだな」
 ゴッちゃんが唸る。当たり前っちゃ当たり前だが、忘れてたとタマサカ先生。やっぱりキン子ちゃんって閃きが凄いよねと、パン太はキン子をリスペクト。
「まあ、今のところ、仮説しかなくて結着に至っていない。少なくとも、これまでのP世界間の移動で、一つのP世界にパン太が二人、三人なんてことは発生していない」
 ただし、今後もそうとは限らない。そうじゃないP世界もあるかもしれない。まだ発見されていないだけかもしれない。あるいは、存在するけれども、PW連邦のP世界からはアクセスできないものなのかもしれない。全くこことは違う法則が働いていて、永遠に出会うことがないのかもしれない。
「人類の科学や頭脳では、わからないことが世界にはまだまだいっぱいあるんだヨ。わからないことの方が多いかもしれない」
「タマサカ先生の発明と同じで、何でそうなったかわからないけど、たまたままさかで、できあがっちゃったりとかね」
 アイン君が突っ込みを入れる。
「お前もな。俺もだけど」
 カットちゃんがハサミ手を顎に添えた通称マンダム・ポーズで、アイン君の突っ込みに、突っ込みを入れる。隣でソンタ君が「ホントだ、ホントだ。すごい。すごい」と必要性をほとんど感じない合いの手を入れる。
 あっ。マンダム・ポーズを知らない人がきっといますね。ドラマや映画でハードボイルド探偵が顎に手を当てて、格好つけポーズをするでしょ。そのポーズで、口ひげの渋いおっさんが「うーん。マンダム」って言うCMが某P世界にあるんですよ。そう言えば、そのおっさんにミスター・スタンが少し似てるかも……。 パン。

「うおっほん」
 アイン君とカットちゃんの突っ込みに、タマサカ先生がわざとらしい咳払いをする。
「ワタシの発明だけじゃないヨ。どうしてそうなるかはわからないけど、なぜかそうなってる現象や技術って、意外とあるんだヨ」
 例えば逆浸透とか。マルハナバチとか。
 容器に半透膜という膜をはさんで置いて、片方に真水、もう片方に塩水を入れると、濃度を同じにしようとして真水側から塩水側に水が膜を浸透して移動し、結果、塩水側の水位が上がる。この上がった水位差を浸透圧という。ところが、同じように半透膜を間に塩水と真水を入れて、今度は塩水側に浸透圧以上の圧をかけると、逆に塩水から真水の方に真水――純水だけが膜を通して移動していくという現象が起きる。これを逆浸透という。この現象を利用して、汚水や海水から真水を作り出すのだ。もう実用化して久しい技術で、汚水の浄化や、真水の少ない地域で海水から真水を生成するなどして、水不足の解消に役立っている。
 マルハナバチは、その体躯と羽のサイズバランスがとれておらず、航空力学的に飛べるはずがない。簡単に言えば、体に比して羽が小さいのだ。だが、マルハナバチは日々、自由に飛び回っている。なぜだかわからないけれど。
 タマサカ先生の話は、子供たちには難しすぎて、理解が追っつかない。
「マルハナバチって、コロンと丸っこい蜂で、かわいいんだよ。ちょっとキン子っぽいかな」
 ゴッちゃんが言う。
「それじゃ、キン子も空を飛べるかなー。はっはっはー」
 タマサカ先生、冗談を言ってるつもりなんだろうけれど
「シントウ巻とか、コウ食う何とかって、全然、わかんないけど、あたしは空を飛べません」
 それだけは確かですと、キン子がぴしゃりと否定した。
 パン太は、うーんと腕組みをして一生懸命考え
「科学や理屈では説明できないけど、現実にあって、できちゃってることがたくさんあるっていうのは、わかる。まだまだ人類には、わからないことがたくさんあるっていうのも。で。わかんないことだけど、できちゃって、それが役立つなら、それでいいんじゃない? ……ってこと?」
「……まあ、そういうことにしておこうか」アイン君が勝手に締めた。
「いや、しておこうかじゃなくて、それでいいのだ」タマサカ先生がふんぞり返った。
「あんた、本当にサイエンティストか」カットちゃんが呆れた。
 ソンタ君は「いいのだ。いいのだ。すごいのだ」トントコ軽く太鼓を叩き、そして「はぁ」と小さくため息を吐いた。 パン!
 
 我々は、世の中すべてがわかっているわけじゃございません。いつかわかるかというと、それもわかりません。全てはあるがままに。あってなきがごとし。なくてあるがごとし。知って知らず。知らずに知り。色即是空。空即是色。意味不明。 パン! パン!

 食後のお茶を啜りながら、タマサカ先生がキン子とパン太に告げる。
「さて、君たち、来月からオンラインで勉強を始めようか。それで、九月の新学期から学校に行こう。君たちには、全通学や全通信の学校より、半々の学校が良いのかなぁ」
「学校!」
 パン太が目を輝かせた。
「登校日には、学校でクラスのみんなと一緒に給食を食べるんだ。それも楽しいヨ」
「給食!」
 よくわかんないけどおいしそうと、今度はキン子が目を輝かせた。
 きっと友達もできるよというゴッちゃんの言葉に、幼くして勤労少年だったパン太と、上げ膳据え膳、食っちゃ寝食っちゃ寝の金満お嬢で友達という存在どころか言葉にも縁がなかったキン子は、期待に胸を膨らませる。ちょっぴり不安だけど、すごく楽しみ。
「キン子の歳だと五年生、パン太は四年生だね。学校の勉強についていけるように、九月までにお家でしっかり勉強しておこう」
「えっ。パン太ってあたしと一つしか違わないの? もっと小さいかと思ってた」
 キン子が驚いた。
「君ぃ、これまで一緒にいて全然、気が付かなかったの?」
「タマサカ先生だって、ボクの歳を聞いて、キン子ちゃんと同じこと言ってたじゃない」
 パン太にバラされて、タマサカ先生は、気まずそうに明後日の方を向いた。
  パン。パパン!
 
「子供の仕事は、お勉強だからね」
 キン子とパン太は、週五日は勉強中心の生活となった。オンラインが中心だが、タマサカ先生とゴッちゃんが教えてくれることもある。
 二人は、勉強の合間に家のお手伝いもする。
 前日の小雨で、ほど良い具合に土が湿った日には、ゴッちゃんを手伝って、菜園にトマトやキュウリ、西瓜など夏に収穫する野菜や果物の苗を植えた。今、植えている小さな苗が夏にはおいしい実をならせるのだと思うと、楽しみで仕方がない。キン子もパン太も手や顔に土をいっぱいくっ付けて、張り切ってお手伝いをする。
 アイン君のお手伝いもする。テーブルを拭いたり、お箸を並べたり。食べることのためなら、キン子は率先して手伝う。もちろんパン太も。
 研究所でタマサカ先生のお手伝いをすることもある。道具を出したり仕舞ったり、台を拭いたり、ストップウォッチで時間を計ったり。これもまた、学校生活の準備訓練の一貫である。学校に行けば、授業で理科の実験もあるからだ。
 タマサカ先生のお手伝いは、勉強好きで好奇心旺盛なパン太はすごく楽しい。キン子は「終わったらおやつ」というお約束を楽しみに励む。 パン。
 
 その日、キン子とパン太は、タマサカ家の書庫で蔵書の整理を手伝っていた。古くなってガタガタになった書棚を入れ替えるついでに、適当に突っ込んでおいた未分類本を整理するのだ。
 タマサカ家の蔵書は、多岐に富んでいた。タマサカ先生が科学者であるから科学技術に関する専門書は当然多いが、他の分野の専門書もたくさんあった。医学、法律、商業、経営、会計、小説や芸術関連、歴史書、漫画、健康実用書……古今東西、分野も様々なら言語も様々、図書館並の品揃えである。
 まずは本の取り出しである。書庫には、天井まで届く高さの書棚がいくつも並んでいる。子どもたちは書棚の下の方の本の取り出しを任された。
 書籍屋で奉公していたパン太は、大張り切りである。パン太と違い、キン子はいまひとつ乗り気でない。が、料理本やグルメ案内、カラー写真の豊富な古今東西の食文化を紹介する書籍をいくつか発見すると、もっと「おいしい」本を見つけようと、途端に張り切りだした。
  パパン。
 
 この棚はこれで最後と、キン子が数冊を一気に取り除いたとき、裏板にへばりつくように隠れていた一冊の古い本を見つけた。『秘拳SHK 奥義』とある。
 「何これ」
 呟いたキン子の手元をパン太が覗き込む。
 本は、あちこち痛んで汚れがある。ちょっと端も破れている。表紙には、格好を付けているつもりなのだろうか、妙なポーズをした、作業着っぽい服を着た年齢不詳、性別不明、おかっぱに似た髪型の小太りな人物が描かれている。キン子やパン太でも古くさいと思う絵柄である。もっとも二人とも、すでにこのP世界の感性に馴染んでますから、元のP世界の感性のままであったなら、むしろ「NEWナウ!」って思ったかもしれません。
 一応、申し上げておきますが、どこぞのP世界の「SKD」とか「HSK」とか「NHK」とお間違いないように。S・H・Kです。ご参考まで「SKD」とは松竹歌劇団の頭文字、「HSK」は漢語水平考試(Hanyu Shuiping Kaoshi)の頭文字です。「NHK」は日本放送協会です。《そんなことはどうでもいいからさっさと話を進めろ》ですって。はいはい、すみません。では、先行ってみようー。 パン!
 
「タマサカ先生、変な本があった」
「何だね。どれどれ……あーこれね。どこのP世界で拾ったんだっけな」
 拾ってきたんかい。 パン。
「この表紙の人物がワタシの好きな功夫カンフースターに似てるんだよねぇ。愛称デブゴン。サモハンキンポンっていう、いや、違った。サモハンキンコン……あ、あれ? サンコン? 違う。キンキン……はケロンパとセットか。ケロンパってカエルじゃなかったっけ。あ、あれはケロヨンか。キン公は桜吹雪の人だし」
 どっかのP世界の昭和の人にしかわからない言葉まで出てきた。本当にファンなの?
「サモハンキンポーじゃなかったっスか」
 ゴッちゃんが古い棚を「よっこいせ」と担ぎ上げながら、助け船を出す。
 キンポンはこのP世界の似た人物の呼び名で、キンコンは鐘の音。サンコンもキンキンも全くの別人。サンコンは元P世界の某国元外交官タレントで、キンキンも俳優でタレント。その奥さんがケロンパ。
 タマサカ先生が変な本のページをパラパラとめくってみるのを、みんな覗き込む。
「SHKっていう秘拳の奥義本。眉唾だけどネ。挿絵の人物、キン子にちょっと似てるよねぇ。親戚にこんな人いる?」
 キン子、ブンブンと首を横に振る。
「こんな人知らない」
 そうか。いたらキン子たちのP世界で拾った可能性が高かったんだけどな、とタマサカ先生。
「だって、言語が一緒なんだもの」
「タマサカ先生、それはないっスよ」
 ゴッちゃんが即座に否定する。キン子たちのP世界には、着いてすぐにまた出てしまったから、到着地点にほんの数分しかいなかった。
 本には、「套路タオルゥ」という拳法の型の流れが記されている。動きの要所要所でいろいろと不詳な表紙の人がポーズをしているイラストが載っている。基本編と奥義編があり、基本をマスターしなければ奥義に進めないとある。
 子どもたちは、イラストのポーズを真似してはしゃぐ。TVで見た戦隊ヒーローみたいだ。
「先生、奥義のところ見せて」
 奥義編は、体作り、養生、心構えなども含めて数十ページにわたる基本編と違って、数ページしかない。説明も至ってシンプル。
「サモ」――気を切り替えて張る。
 小太りの人物が片足を上げて手のひらを下にして両腕を逆ハの字に高く掲げたポーズが添えられている。
「ハン」――気を一気に練り上げる。
 同じ人物が片足を引き、手のひらを上にした片腕を前に、もう一方の腕は同じく手のひらを上に肘を曲げ、脇につけている。
「キン」――全身に気をみなぎらせる。
 輪を描くような曲線で、前にあった腕を体の方に寄せ、後にあった腕が前の方に出ている。ちょっと複雑。
 いよいよ奥義最後のポーズ。ちょっと緊張した面持ちでタマサカ先生がページをめくる。息を呑む残り三人。
  パン!パン!パパン!パン‼
 
「「「「あーっ‼」」」」
 全員が揃って絶叫した。
 ページがちょん切れていた。上部の糸かがりから数センチの部分だけ残っている。それもお茶かコーヒーでもこぼしたかのように茶色く変色している。茶色の部分がくちゃくちゃになっていて、次の奥付の紙にも茶色い染みがアトランダムに散乱している。
 四人が残念の脱力をした瞬間、
あーっ‼
 今度はスピーカーからアイン君の絶叫が聞こえた。
  パァン‼

「どうした、どうした」
 驚いたタマサカ家全員がキッチンに駆けつけると、アイン君があじの塩焼きがのった皿を前にしてわなわなと震えている。
「お魚が……お魚が消えた」
「ん?」
 皿の上にお魚はある。はて? あるよね。ひい、ふう、み……。あっ。タマサカ家の人類は現在四名。一尾足りない。
 良い具合に焼けた鯵の塩焼きの香ばしい匂いにキン子の腹がグーと鳴った。
「もしかしてキン子、あんた、つまみ食いしたんじゃ……」
 アイン君がギョロリとキン子を見た。
「そんなわけないじゃん。ひどいよ。第一、つまみ食いしてたら、お腹鳴らないよ」
 濡れ衣にプンスカと怒るキン子。
「キン子にはアリバイがあるヨ。ずっとワタシらと書庫にいたんだから」
 人類四人とも、ずっと書庫にいた。じゃあ、誰がとアイン君が唸る。
「まさか、全員グルじゃないでしょうね」
 今度は、人類四人全員に疑いの目を向けるアイン君。人類一同、憤慨する。
「鯵一尾をつまみ食いするために四人で口裏合わせなんてするか!」
 温和なゴッちゃんもプンスカする。
「お腹空いたらおやつする!」
 タマサカ先生もプンスカする。
 みんなに逆糾弾され、さすがのタマサカ家の影CEOアイン君もしょぼんとした。
「最近、食材や料理が消えたり、荒らされたりすることが度々あるんだよね」
 この間は、鰹節の袋がビリビリと破られて散らかっていた。その前は、揚げたて熱々の唐揚げが数個なくなっていた。苺がパックごと消えていたことも……。
「うーん。鰹節なら猫が考えられるけど、熱々の唐揚げと苺ねぇ」
 ゴッちゃんが考え込む。アイン君が「でしょ、だからやっぱり人類かなって、考えちゃう」。
「同一犯じゃないとか?」
 と、L字にした人差し指と親指を顎に添えてパン太。子供向け人気ドラマの『子供名探偵ズバリくん』みたいだ。パン太のお気に入りドラマである。
「キッチンに監視カメラ付けてみよっか」
 タマサカ先生が思いついた。
「あー、そうだ。そうだよね」
 ポンと掌を打つアイン君の横で、カットちゃんが
「ミータとエツコがいれば、きっとこんなことにはならなかったのに。ミータとエツコの失踪が痛い」
 と嘆いた。
 ミータとエツコ? キン子とパン太が首を傾げる。
「君たちは知らないんだよね」
 ミータとエツコとは、タマサカ先生が開発したAIアイだ。目ん玉の形をしていて、右目がミータで左目がエツコだが、どっちがどっちか見分けはつかない。空中に自力浮遊し、移動する。セット使用が基本だが、単体使用もできる。そのレンズに映った画像を監視カメラのようにモニターに送る。監視対象の追跡もする。いわばカメラ搭載ドローンの目玉版みたいなものだ。捜索の場合は、対象を発見すると、音声連絡やモニターに地図を表示して、点滅や囲みなどによって場所を明示をするよう設定することもできる。違いがあるとすれば、操縦者を必要としないところと、ドローンが入り込めない様々な場所――どぶ板の下とか、梢の間とか、狭いところや暗いところにも潜り込めることだろうか。
 ご推察の通り、ミータとエツコもたまたままさかの発明である。スマホ自撮りの下手なタマサカ先生がスマホを使わず、手を使わず、好きな方向から自由自在に自撮りできるカメラを作ろうとして、なぜか監視、追跡及び探索用小型目ん玉カメラとなっちゃった。カメラ機能があるから自撮りもできますけどね。いや、それは、もはや自撮りじゃないか。
「ある日、忽然と姿をくらましちゃったんだヨ」
 失踪したのと、アイン君がしんみり。何が理由だったのか。
 理由も何も、ミータとエツコは、データの蓄積により多少の学習はするが、思考、感情、人格のある無機質系人型類じゃなくて、ただのAI搭載カメラだから失踪じゃなくて紛失だろうってことですけどね。対象に感情移入し過ぎちゃうと、何でもかんでも人格化しちゃうところって人にはあります。人類でも人型類でも。 パン。

 食品消失事件の解決に向けて、ひとまず監視カメラを設置することは決まったが、直近の問題は、一人分、足りなくなった今夜のメインディッシュである。
「うーん。ちくわがあるから、ちくわの磯辺炒め。誰か一人はそれ」
 えーっ、と一斉に声が上がり、人類一同お互いを目で制し合う。剣呑な雰囲気にパン太が手を上げた。
「はい。ボクで。ちくわの磯辺炒め、おいしいもん。それに鯵一匹はちょっと多いかな」
 残したら勿体ないし、とパン太。なんて良い子だ。
「ちくわの磯辺炒めもおいしいよね。確かに……」
 キン子の目が揺らいでいる。食意地が服着て歩いている女の子だもん。
「そうだ。パン太、半分っこしよう。鯵とちくわと」
 そうしたら、二人とも両方食べられるし、お残しはキン子なら絶対ない。そうしよう、そうしようと飛び跳ねる子供たちであった。一件落着! パンッ。

 翌日、さっそくキッチンに監視カメラが設置された。その結果――。
 画像に映し出されたのは、勝手口の隙間から、そろーりそろりとキッチンに入ってきた一匹の三毛猫。調理台の上では、フライにされるのを待つシシャモがバッドに寝ている。アイン君が小麦粉を棚から取り出している僅かな隙に、その三毛猫がシシャモを咥えて素早く外へ出て行った。
猫!
「やっぱり猫か」
「唐揚げやイチゴも?」
「それ、別に犯人いるんじゃないの」
「唐揚げ犯とイチゴ犯?」
 タマサカ家一同、やいのやいのと姦しい。
 とにかく、まずはこの泥棒猫をとっ捕まえよう。泥棒三毛猫の姿形のデータをカメラに繋いだPCにインプット、カメラがこの三毛猫を捉えたら各人のスマホが震えるように設定した。
 それから二日後、タマサカ家一同のスマホがブーブーと慌てふためく豚のごとく一斉に震えた。
 算数ドリルを解いていたキン子とパン太は、鉛筆を放り出して、研究所で風呂掃除ロボ「バブルス君」の試作絶賛失敗中のタマサカ先生は泡まみれで、PMWの整備をしていたゴッちゃんはレンチを握りしめたまま、生ゴミ粉砕機に生ゴミを入れようとしていたアイン君は動転して生ゴミをとっちらかし、ハサミを研いでいたカットちゃんは砥石をサブアームでなぜか掲げ持ち、現場へ駆けつける。昼寝をしていたソンタ君は、そのまま昼寝を続行。太鼓持ちのくせに神経太いって? いいえ、職業柄、慢性神経疲労なんです。寝かせておいてあげてください。はぁ。ため息。
 現場のキッチンでは、まな板の上で塩を振られ、火あぶりになるのを待っていたカマスに三毛猫の魔の手、いや前足がいまや引っかからんという寸前であった。
 「あーっ!」「ぎゃー!」「うぉー!」「ぎょえっ!」「ひょっ!」誰が誰やら、感嘆詞が入り乱れて発せられた。驚いて顔を上げた猫と感嘆詞を発した一同の視線が一瞬絡み合う。
 ――ぱくっ。ぴょん。
 次の瞬間、三毛猫がカマスを一尾口にくわえて、開いていたシンク前の窓から飛び出した。それをタマサカ家一同が追いかける。ただし、ソンタ君除く。
「泥棒ニャンコめ、逃がすか!」
「待てぇー、カマス!」
「今夜のおかず返せっ!」
 どれが誰のセリフか、もうわからない。えっ。大体見当がつく? 少なくとも二番目がアイン君で、最後がキン子だろうって? 恐れ入りました。   パン!パン!パン!パパン‼

 泥棒猫を追いかけて、タマサカ家一同、走る、走る、走る。くどいようですが、ソンタ君除く。
 泥棒猫の逃げ足は、速いと相場が決まっている。追いかける側は、どんどん脱落者が出る。
 まずは、走る機能が劣るカットちゃんがキッチンを出る寸前で追いかけるのを諦めた。次にウンチのタマサカ先生が外に出たところで、アイン君がぶちまけちゃった生ゴミの野菜の皮を踏み、滑って転んで脱落。アイン君は執念で追いかけたが、鈍足ゆえに敷地を出る前に置いてけぼり。そして、走行速度が遅い重量級元相撲レスラーのゴッちゃんが、敷地を出たところで同じく置いてけぼり。
 最後に残ったのは子供たちだ。泥棒猫は、タマサカ家のすぐ脇にある高台の高級住宅街に向かう坂道を駆け上がっていく。遂に、体力のないパン太が坂の入り口でへばった。
「はぁはぁ。もうダメ……」
 そこへ原付バイクが走ってきた。ゴッちゃんだ。
「パン太、乗るんだ」
 パン太を摘まんでバイクの後に乗せる。と、後方からガシャガシャと機械音がする。
「待ってくれぇ」
 タマサカ先生が特製のパワーアシストスーツを全身に装着して追いかけてきた。
 従来の作業用アシストスーツは、荷積みや農作業、介護などの作業をサポートするために腰や膝に装着して、その部分の動きを補助し、保護するものだが、これは腰と膝に加えて、肘、手首、肩、足首を起点として特殊繊維の人工筋が伸び全身に張り巡らされている。筋だけ残したロボコップといった見てくれである。この筋だけロボコップもどきは、タマサカ先生が開発したAI搭載ウンチ――運動音痴改善マシーンスーツなのである。いや、そうなるはずだった、ただの全身アシストスーツだ。コレを装着して運動すれば、運動音痴改善になるかと思いきや、メカに頼り切って動くので、むしろ逆効果であった。完全に徒労作だったわけだが、思わぬところで役立った。ちなみに筋だけロボコップ擬きの通称は『すじコップ』。もちろん命名はタマサカ先生……。  パン。
 
「待て……おかず……許さない」
 キン子は、執念で坂を駆け上っている。自前のちょっと太めの足で。息は切れてきているが、心意気は燃え盛っている。恐るべし、食意地パワー。
 件の猫は、もう坂の頂上に到達している。高級そうな住宅が立ち並ぶそこから、キャッツめは、お魚を咥えたまま振り返り、キン子たちを睥睨する。憎たらしい余裕だ。キャッツは、ふんと鼻を鳴らと、右手の邸宅に悠然と入ろうとした。その瞬間
ふんがぁ‼
 ようやく頂上に辿り着いたキン子がキャッツに向かってダイブした。
 キン子のまん丸ボディーが宙を飛び、泥棒猫の上に舞い降りる。驚いた猫が一気に邸宅に逃げ込もうと横っ飛びジャンプしたが、キン子は空中で猫を己が全身で包み込むようにしてガッとホールド。そのまま教わってもいないのに、自然に受け身の体勢で地面に転がり、一回転して立ち上がる。猫、あまりの想定外に抵抗することも忘れて、キン子の腕の中でフリーズ。
 すると
「まあ、どうしたの」
 邸宅からロング巻髪ヘアーのおばさんが出て来た。思わず、前日初めて食べたツイストドーナツを思い浮かべるキン子。アレはおいしかった。キン子の元P世界にも麻花棒マーホァルぼうという似たような菓子があって、それもおいしいが、あっちは固くて甘さ控えめのかりんとうみたいであるのに対して、ツイストドーナツはふんわりしていて、それはそれでおいしいのだ。
 そのオバサンは、ひらひらのブラウスに、ふわふわのスカートをまとっていた。きっちりと緩やかな山型に描かれたカッコ眉のせいか、額に白毫びゃくごうがない仏像を連想する顔付きである。開運セミナー講師とか、その信者とかによくいそうなタイプである。
「あなた、何でうちのキャンディちゃん、捕まえてるの」
 眉をひそめ、不快そうな声でキン子をなじるが、カッコ眉がうまく寄らないから、どこか間が抜けている。
「あら、やだ。キャンディちゃんたら、そんなどこの馬の骨ともしれない生のお魚咥えちゃって、ダメでしょ。汚い。ペッしなさい」
 おいおい、それはあたしたちの晩ご飯のおかずになるはずだったんだよと、キン子、心の中で憤慨する。
「あらら、違うわね。お魚だから、馬の骨じゃなくてお魚の骨ねぇ。ふふふふ」
 何がおかしいんだ。
「この猫、おばさんの? これ、うちの魚。この猫が盗ったんだよ」
 さすがのおっとりキン子も遂にキレた。
「あらやだ。信じられない。大人に向かってそんな暴言、随分躾の悪い子ね。たかが安魚一匹。その辺に転がってたボールにじゃれついた程度のことじゃない」
 弁償でもしろっていうのかしら。低所得家庭の子は、どうしても卑しくなっちゃうのよね。やだやだ。早くキャンディちゃん、離しなさいよ。あなたの汗臭さが移っちゃうじゃない。汚い。
 キン子、全力疾走してきたので、汗だくでしたのでね。
 福眉おばさんがキン子から泥棒猫キャンディを奪い取ろうと手を伸ばす。もみ合う二人。と、そこに
「何むちゃくちゃいうとるの。卑しいのも躾がなってないのも、アンタんとこの猫だヨ。盗っ人猛々しいとはこのことだヨ。窃盗常習犯なの、この猫!」
 タマサカ先生の声が響いた。筋だけのロボコップみたいなものを身に着け、猫をびしっと指さす高齢おっさんの姿に福眉おばさんは一瞬ぎょっとするが、今度はタマサカ先生とバチバチと睨み合う。強気である。
 パン太が二人の間にスマホを差し入れた。
「これ見て」
 福眉おばさんに立ち向かうように、あるいは水戸黄門の印籠のように――おっと、水戸黄門を知らない方はお約束のスルーで――かざされたスマホの画面には、キャンディちゃんと呼ばれた猫がシシャモを咥えて逃げていく動画が流れている。続けて「これも」と、キャンディがカマスを狙っている動画も見せる。
「三毛猫なんて珍しくないでしょ。これがうちのキャンディちゃんだって証拠がどこに……」
「柄が一緒だろう」
 ゴッちゃんがキン子の腕の中にまだいるキャンディを顎で示す。福眉おばさん沈黙。額から汗がタラーリ。
 そこに「やっぱり、お宅の猫だったんだ」とお隣の垣根からおじさんが顔を覗かせた。
 最近、近所のあちこちの家で、お魚や鰹節などの盗難が相次いでいる。現場には猫の足跡。園田さんちでは、現場に落ちていた毛から三毛猫ではないかと、その家の家政婦さんが分析、推理していた。
「毛の色艶などの状態から見て、野良ではなく飼い猫かと」
 刑事か探偵みたいな家政婦さんだ。以前、警察の鑑識で働いていたとかいう噂がある。あくまで噂である。
「猫の行動範囲からみて、ご近所の猫でしょう」
 近所で三毛猫を飼っている家は、この福眉おばさんのところだけ。他に猫を飼っているのは、黒のアメリカンショートヘアと白のペルシャがいるお宅があるっきりだ。自ずと容疑は福眉おばさんちの猫に向かう。
「山上さんのとこは、息子さんの中学合格祝いで用意した鯛。うちは、女房が釣り上げてきた大物のシーバス」
 こんのくらいの大きさだったんだよ。おじさんが手を広げた。1メートルぐらい。ちょっと、いやかなり盛ってる気がする。だってキャンディよりデカいもん。
 福眉おばさんの顔を流れる汗がとまらない。豪雨のようだ。汗と一緒に、メイクの肌色やら茶色やら黒やら赤やら青やらもドロドロと落ちる。豪雨による河川増水濁流のごとし。
「ともかく、あんたの猫ならちゃんと管理してくれんと!」
「す、すみません……」
 消え入りそうな声で、福眉おばさんが遂に謝った。
  パン‼
 
 さて。カマス一人前を失したタマサカ家、その日の夕食はといいますと、焼いて解したカマスの身と青菜の混ぜご飯と相成りました。トッピングした煎り胡麻も香ばしく、一同満足。さすがカリスマ主夫アイン君でございました。
 これにて泥棒猫事件は、一件落着とあいなりました!
 泥棒猫はね。ふふふふ。
  パン……。

    🙀 🙀 🙀 🙀 🙀
 
「長かったね」
 三席目を見終わって、キン子がぐったりとテーブルに突っ伏した。
「うん……」
 続いてパン太も突っ伏した。
 アイン君がパンパンと手を叩いた。
「さあさあ、今日はここまでにしよう。子供たちは、もう寝る時間だよ。さっさとお風呂に入って。大人たちは、お片付け」
 はぁーい、と一同揃って返事をし、子供たちはキッチンを後に、大人たちはガサガサと食い散らかしたものの後片付けを始めた。
「あ。寝ちゃってる」
 椅子の上ですやすやと眠りこけているソンタ君に気付いたキン子が、行きがけに彼を小脇に抱えていった。

 〈続く〉


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