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少女デブゴンへの路〈6席目〉

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※ 縦書きが好きな方はこちら
  (縦書きは、第3章冒頭からはじまります。ご了承ください。)

  6席目 おさかな大脱走


 またまた、ご視聴ありがとうございます。
 『少女デブゴンへの路』も六席目となりました。いよいよ折り返し地点でございます。一体、どこへ向かって行くのかさっぱりわからない感じで進んでおりますが、そのまんま、相変わらず、どこにいくのかわからないままにお話は進みます。乞うご期待。
  パン!
 
 SHK――スペシャルハンドメイドかき氷パーティーの数日後、ご飯泥棒のミスター・スタンを取り逃がした翌日、タマサカ先生は、またしても行き詰まっていた。
 SHK養成スーツをキン子にまとわせて、半ば強制的にSHK基本套路を覚え込ませたは良いが、その先の奥義部分がどうにもならない。肝心要のラスト決め技部分が教本からちょん切れていてないからだ。
「タマサカ先生、デネーズの裏メニュー食べたいから、早く次何とかして」
 キン子から催促される。
「うーん。途中までしかないヨ」
「途中まででも、できたら裏メニューOK?」
 キン子の関心は、デネーズ裏メニューにしかない。それがなけりゃ、端からやらない。
「それは違うヨ。何かスッキリしないじゃないか」
「じゃ、どうしたらいいの。タマサカ先生、できない約束をしたの?」
 痛いところを突いてきた。
 困ったタマサカ先生、カブ師匠に話を振った。
「わかってるところまでの流れから、最後推測できないですかネ」

「できんわ」
 一蹴である。そら、そうである。だって、なんちゃってカンフー師匠だもの。
「いっそ、AIに推測させたらどうですかね」
 ゴッちゃんが提案する。
「それはもうやった。でも、うちのAIの出来映えが良すぎて、ほぼ実人間な思考回路と感性になっちゃってて」
 遠回しに無理と返してきた。
 うーんと人類どもが唸っていると
「ご飯ですよー」
 スピーカーからアイン君の夕食招集が掛かった。
 この日の夕食は豪快であった。まぐろの兜焼きが二つ、口を上にしてどーんと皿の上に乗っかっている。パン太が怯えて後退った。カブ師匠は「これで一杯やるかね」と逆にご機嫌である。
「何コレ。随分とワイルドだネ、今日は」
「夕食のメニューに行き詰まって、家庭用AIに尋ねたら、こんなん出ました」
 どっかのP世界で、むかぁーし昔にTVに出ていた尼さんの格好をしたおばさん占い師みたいな口調だ。質問に対して数珠を握りしめて
「えいやっ」っとやって、「こんなん出ました」って答える。結構、適当な答えでしたねぇ……。半ばお笑い芸でしたもん。
 ゴッちゃんが目を手で覆った。
「うーん、このアバウトさ。AIがどんどん人間的になってきている……」
 良いんだか悪いんだか。存在する意味があるんだか、ないんだか。家庭用というのがまた定義があやふや過ぎる。
「魚の頭――英語でフィッシュ、ヘッド
 この間、習ったばかりの英語の単語を何となく口にするキン子。おお、キン子も勉強の成果が出て来たなと、ゴッちゃんが褒める。
「悪い人たちの種類で、フィッシュヘッドっていうのがあるんだよね?」
 以前に聞いたP世界間密入境ブローカーのことをパン太は思い出した。
「フィッシュヘッドが二つ。頭だけ残った魚座みたいだね」
 はっはっはーとタマサカ先生が愉快そうに笑った。
 ひとしきり笑うと、
「やっぱりしっぽがなくて頭だけでもやるか。SHK奥義」
 明日さっそく養成スーツにデータを仕込もうと、どこからどうしてそういう考えに至るのかわからないが、タマサカ先生はそう決めのであった。
  パン。

 ところで、皆さん覚えていらっしゃいますか。先ほども話に出てまいりましたフィッシュヘッド。駐車場管理人を装ったPWP警官、近藤君の話に出て来たフィッシュヘッドと呼ばれるP世界間密入境ブローカーのことでございます。
 このフィッシュヘッドが、この先のお話にがっつり絡みます。ゆえに、ここで近藤君が首を傾げたフィッシュヘッドのヘッド捕獲の顛末について、そこに至るまでの経緯と共に、語っておきましょう。
  パン!

 あるPWP署の出入り口前に黒いバンが停まっている。一見、普通のバンであるが、実はこれ、PTA車である。型番PM3-VAN仕様。車体に白地でPWPとロゴが入っているので、PW連邦加盟P世界なら、これがPWPの公用車だとわかる。が、未加盟P世界なら、どこかの会社のありふれた商用車にしか見えない。
 この車、よくよく見えれば、後部座席の窓にはスモークフィルムが貼られ、中が見えないようになっている。黒い車体と相まって、つい「ヤ」で始まるご職業の方や「暴」で始まる団体様の車を連想してしまうが、これ、護送車なのである。
 外からはわからないが、車内には護送対象が逃亡せぬように色々と仕掛けがある。通常の護送車と同じように運転席と後部座席との間に金網が張られているほかに、密かにPWP緊急コールセンターに直結している監視カメラと緊急コールボタンが設置されている。これは、特に亜空間走行中にカージャックが発生した場合を想定している。亜空間走行中においては、車両は無の空間で孤立している。逃げるチャンスではあるが、車外に出ることはできないので、カージャックを企てられる可能性が高い。亜空間でPTA車外に出ると死んじゃうのでね。
 まだ誰も試したことがないので絶対かと言われれば、それはわかりませんが、何にもないということは空気もない。空気がなければ、少なくともホモ・サピエンスは死にますからね。 パン。
 
 御託はさておき。
 この護送車の頭上には、隣の公園から伸び越した大きな樫の木の枝が良い具合に木陰を作っておりました。
 その樫の木の枝の豊かに繁る葉に紛れて、何やら緑色の物体が潜んでおりました。よーく見るとその物体、人の形をしております。頭の天辺から足の先まで、緑色の全身タイツに身を包んでいるのだ。更にタイツにはご丁寧に木の葉っぱがたくさんくっ付けられております。怪しい人物です。
 この怪しい全身緑の人物をPWP署の向いにあるファストフード店マッタクナルト、通称マッタから、アイスコーヒーちゅるちゅる啜りつつ、双眼鏡で覗いている別の怪しい人物がいた。片耳にはワイヤレスイヤホンを装着している。張り込み中の刑事のようだが、刑事ではない。
 更にマッタ店舗脇の路地に駐められた小型トラックの中では、金髪のチャラい男が貧乏揺すりをしてた。ハンドルに置かれた指も忙しなくハンドルを叩いている。時折、後ろを振り向き、荷台に積まれたコンテナに向かって何か言っている。
 突然、マッタの双眼鏡男がストローを口から離して
「あぁ?」
 疑問系の態をなした、とげとげしい威嚇音を発した。
「だから、もう行っちゃった方がいいんじゃないスかね。後ろの連中が痺れ切らしちゃってて。ここは、がーっと突っ込んじゃって、お巡り蹴散らして」
 金髪チャラ男の言葉に呼応するように、荷台のコンテナからくぐもった「そうだ、そうだ」という声がして、ガタガタと車体が揺れた。
「待った、待った、マッタ。まだドンから合図が出てねぇ」
 マッタの双眼鏡男が慌てて待ったを連発する。
「何スか。そのオヤジギャグ」
「あ?」
 再び双眼鏡男が唸った。今度は明確に疑問形だ。
「あ。違ったら、いいっス」
 返しながら、金髪チャラ男はフロントガラス越しに注がれる視線を感じた。道行く人々が妙な顔付きでこちらをチラチラと見ている。あからさまにトラックを指さして笑っているカップルもいる。母親らしき女に連れられた幼児がじっとこちらを見つめている。幼児の様子に気が付いた母親が手を引っ張って、その口が「見ちゃイケません」と動いているように見えた。
「あっ」
 金髪チャラ男が思わず上げた声に「どうした」と車のスピーカーから双眼鏡男の声が聞こえる。
(やべえ。車のスピーカーから、アニキの声がダダ漏れだわ)
 金髪チャラ男は、スマホと車のスピーカーをブルートゥースで繋いで、ハンドフリー会話をしていたのであるが、通話相手の声がスピーカーを通して車外にダダ漏れしてたのだ。
 慌てて接続を切って、スマホを直接耳に当てる。
「何でもないっス」
 ダッシュボードをガサガサと漁り、ワイヤレスイヤホンを探し出して装着する。
(こいつ、ずっとはめてんの、苦手なんだけど)
 仕方がない。うっかり作戦が漏れたら、ヤバい、ヤバい。
(今んとこ、大したこと喋ってないから平気、へーき)
 ふと、こういうとき、オッサンたちが言う言葉があったと金髪チャラ男は思った。確か……
無問題モウマンタイ
 軽ーく薄っぺらく笑う。見た目と同じく、中身も実にわかりやすくチャラ男であった。 パン。
 
 さて、マッタ店内の双眼鏡男が待っているというのが、木の上の全身緑タイツから送られてくる作戦開始の合図だった。
 全身緑タイツの人物、一体何者なのか。
 名は、あらよスルー。フィッシュヘッド――組名「魚座」の頭(ボス)のビジネスパートナーであり、愛人であった。組織の部下どもからは「ドン」と呼ばれている。
 ボスとドン。どちらも組織のトップの意味ですね。どこかのP世界の某国では、何となくドンの方がフィクサー的な感じでボスより上位なイメージがあるようですが、ここではイコールの意味合い。平等に組織のトップである。なんたって組名である魚座ってのは二つの魚が紐付いてる図柄の星座ですからね。ボスドンの二つで一つ。二人で一人。このツートップは、同業業界人から双頭の魚なんて呼ばれてもいる。
 して、なにゆえ、このあらよスルーが全身緑タイツで木の枝にへばりついているかといいますと、このPWP署に拘留されている相方ボスを奪還するためであった。
 フィッシュヘッドの一味は、今日、拘留中のボスがここの留置場からP連邦司法局が管轄する拘置所に移送されるという情報を掴んだ。拘置所はP連邦司法局の支所があるP世界にしかなく、PWPの本署や分署よりずっと数が少ない。このP世界には司法局の支所がなく、よってほかのP世界にPTA仕様護送車で亜空間移送されることになる。
 ――チャンスだ。
 組織は一丸となって、ボス奪還へと動いたのである。
  パン!

 頭(ボス)奪還のために、ドンのあらよスルーと手下どもが署を張り込んでいたそのとき、そうとは知らぬフィッシュヘッドの頭――タカトビウオ・サンは、疲れた様子で背中を丸め、便器に腰掛けていた。
 このところ便秘気味である。排便に時間が掛る。彼は、長期戦の手持ち無沙汰に鉄格子がはまった小さな窓から空を眺めるでもなく眺めていて、ふと、PWPに身柄を拘束されたあの日のことを思い出した。途端に出そうになっていたものが引っ込んだ。
(くそ)
 サンは、うんざりして長いため息を吐いた。
  パン……。

 当時、組織のP世界間密入境ビジネスが好調であった。
 口コミで評判が広がり、業績急上昇。手持ちのPTA車では追いつかない。新たなPTA車を調達する必要がある。そこで、サン率いるフィッシュヘッド一味は、手薄そうなPWP署のPTA駐車場に忍び込んで、PTA車を頂こうと張り込んでいた。
 その日の前夜は雨だった。夕刻から降り始めた雨は、土砂降りではなかったが、しとしとと一晩中降り続いた。
 雨は、夜が明ける頃にはすっかり上がっていた。青空の中を朝日が悠々と昇りながら、地上を輝かしい光で徐々に満たしていく。眠っていた人の希望を目覚めさせ、何をせずとも明るい期待に胸を膨らませてしまうほどの、すがすがしい朝であった。
 季節は桜の頃。目当てのPWP署の敷地は、花見スポットとして人気の市民公園と隣接していた。
 公園と署の敷地は、高いコンクリート塀で仕切られている。駐車場は署建物の裏手にあって、コンクリート塀に沿って、縦割りで発着ポイント兼駐車スペースが区分けされていた。一台分ずつ白線が引かれ、コンクリート塀には駐車スペースごとに番号が記されたプレートが貼られている。要するに見た感じの作りは、その辺にある凡庸な平面駐車場と同じである。見た目はね。
 さて一味は、花見客を装ってさりげなく公園に入ると、公衆トイレの裏にあるコンクリート塀との間の狭い空間に隠れた。塀の向こうはPWP署である。雑草が無造作に繁り、小虫が飛び交っていて鬱陶しい。前夜の雨で蒸れていて、しかも臭い。甚だしく不快な空間であった。
 だが隣に忍び込むのに格好の拠点だ。トイレの屋根には、近くの桜の木の梢が覆い被さっていた。枝には、満開の桜花がてんこ盛りになっている。その下に淡いピンクの、つまり桜色の全身タイツに身を包んだ見張りが双眼鏡を手に貼り付いた。
 えっ? そんな格好で公園に入ったら目立つだろうですって。着替えたんです。どこでって? もちろんトイレです。公衆トイレ、内も外もフル活用でございます。 パン。

 ところで、お話をお聞きになっている皆様は、忍び込むのなら夜の方がいいのではないかと思う方々が大半でしょうが、これがそうでもないんですよ。それは、彼らの窃盗方法に関係があるのでございます。
 PTA車を動かすには通常、キーがいる。キーを盗んで、それから車を盗むという古典的な方法は、警備の厳しいPWP相手では難がある。かなり面倒だ。面倒な方法というのは、失敗もしやすい。すると、単純で古典な窃盗犯は、ロックを力業で行こうとする。ロックを物理で排除し、エンジンも配線をいじくってかけちまえばいい。けど、今時ロックを力業ってアナタ、警報がけたたましく鳴るだけである。
 ならば、車内部に張り巡らされた制御ネットワークに侵入すればいいじゃんと、普通自動車専用窃盗犯の皆さんは思うところでありましょうが、そうは問屋が卸さない。PTA車は普通自動車と違って、車内ネットワークの信号を傍受しにくくできているのである。なぜなのかは、話が長くなるのと、私が理解していないので割愛します。
 そこで今度は、スマートキーの電波を受信してIDコードを複製、それでロックを解除し、エンジンをかけて持ち逃げするという方法が主流となった。普通自動車の窃盗でもよくある手口。しかし、それもまたセキュリティの強化で上手くいかなくなった。
 そこで新たに編み出されたのが、アナログ人力戦術だ。PTA駐車場――発着場に到着した車から人が降りようとする瞬間に、開いたドアからゴキブリ駆除剤ゴキダンのくん煙タイプを車内に放り込み、更にドライバーの顔に激辛スプレーを噴射、煙にむせ、スプレーの強烈な刺激に激しく悶えるドライバーからキーを奪い、逃走するという方法だ。
 もちろん、実行犯は、ガスマスク着用である。面も割れないし、一石二鳥だ。
 コツとしては、実行部隊にはスリのテクニックのある奴がいると、キーの奪取がスムーズである。当然、PTAを運転できる者がいることは大前提である。絶対条件だ。
 この手法では、何といっても素早い対応が命である。一瞬の勝負なのだ。発着点に姿を現したPTA車のドアが開いたら、即、実動隊が車を襲わなければならない。PTA車を見た瞬間にガスマスク着用、ゴキダン点火、ドアが開いたらGO! である。
 なぜ、すでに駐車場にある車では駄目なのか。停まっている車は、いつ、どの車に、人が乗り込むかがわからないからである。狭い駐車場でせいぜい二、三台ぐらいしか車を置けないというのなら別だが、敷地に広さがあり、何台も駐まっていると、見張っていても見落とすこともあれば、気付くテンポが遅れることもある。実動隊の潜む場所から離れたところであれば、素早く駆けつけることもできない。
 どれか一つの車にターゲットを絞って張るというのも一手だが、車に乗り込む前に、警官たちは、必ず前後左右の安全確認をする。潜んだ実動隊が動きにくい。下手に動けば御用である。
 そこで空いている駐車スペースのどれか一つにターゲットを絞ることにした。そこへ駆けつけやすい地点に実動隊が潜む。見張りがPTA車が現れた瞬間に実動隊へ連絡、連絡を受けた瞬間に実動隊が即襲撃という方法だ。
 ターゲットが現れるまで長い時間を要することも多く、問題点もあるが、成功率は今のところ高い。今後、PWPが用心して対策を徹底して講じてくれば、また新たな手法を考え出さねばならないが。 パン。

 ところで、この方法の問題は何か。二つある。
 一つは、時間的な問題だ。
 この方法は、先にも述べたように時間が掛ることがある。いつPTA車がターゲットスペースに現れるかわからない。昼夜問わず張り付くことになる。昼は、ターゲットスペースにPTA車が現れても、ターゲット外のPTA車に乗り込む警官が同時にうろちょろしていれば、実行を阻止される可能性が高いので、実行は見送らなければならない。夜間なら闇夜に紛れて実行しやすいが、PTAの発着が少なくなる。
 日数の制約もある。長期間の張り込みは、犯行が発覚しやすくなるリスクがあった。こういう犯罪者集団に集う者は、元来キレやすい者が多い。交代制であるとはいえ、待機時間どころか日数が長くなると、しびれを切らしてとんでもないことをやらかす奴も出てこないとも限らない。だから張り込みは、最長三日までと決めてある。できれば一日で完遂したい。よって昼夜問わず一秒の隙もなく張り付くのである。三日で目的が達せられなければ、そのときは一端引いて仕切り直しである。
 もう一つは、人手が必要なことだ。
 見張りは、四~六交代で行う。一シフト四~六時間。張り込み場所の環境によって調整する。一シフトの拘束時間も、交代の頻度も、短気な連中にはこれが限界だ。
 実動隊は一組につき、できれば四、五人。最低でも三人。これも交代制だ。そして、じっと待っていなければならないのは見張り組と一緒だ。ゆえに、必要人員を満たすには組織員総出となる。幹部も例外ではない。
 パン。

 だからあの日、サンも見張りの役についた。
 ターゲットとする発着場兼駐車スペースは、すぐに決まった。なぜならそのとき、一つしか空いていなかったから。組織の誰もが、そう時間を費やさずにお目当てが現れそうな予感がしていた。その時点では、良い予感であった。
 今回の作戦の見張り組第一陣である先班と交代すべく、サンは、トイレと塀の間に設置した脚立からトイレの屋根に上がった。スルーも後に続いた。
 この公衆トイレの屋根は、横広で前後に緩やかに傾斜がついている。三角屋根の天辺のとんがりも緩く、そこに腰掛けてもあまり尻が痛くはならない。見張りは、桜の梢がもっさりと覆い被さったその天辺の一角に座り、うまいこと枝葉の隙間から双眼鏡を覗かせていた。
 サンが先班の手下に声を潜めて慰労しながら、見張り位置にある枝葉をかき分けた。その瞬間、悲劇が起こった。
 前夜の雨で濡れたトタンの屋根は、まだ乾き切っていなかった。ところどころが濡れていて、滑りやすかった。その上に桜の花びらが点々と張り付いていた。
 サンは、満開てんこ盛りの桜の花房に視界を遮られ、気付かずに濡れたところに足を踏み入れてしまった。しかも花びらがべっとりと張り付いていたから、ますます滑りやすくなっている。
 サンの足がズルリと大きく滑った。とっさに身体を投げ出すようにして屋根にしがみついたが、全身タイツである。サン自身も滑りやすかった。ツルツルと屋根を滑り落ちていく。
 あわやというところで、運良く雨どいにサンの足裏が引っかかった。やれ助かったと、サンは雨どいに足を踏ん張らせて立ち上がろうとした。が。今度は雨どいにすっぽり足がはまって足首から下がロックされて、バランスがうまくとれない。おまけに雨どいである。強度がない。柔である。パキンと軽い音をさせて、一瞬にして折れた。
 体勢をすっかり崩していたサンは、仰向けに空中に浮かんだ。脚立の上にいたスルーがサンの足を掴もうとしたが空振った。
 宙に浮き上がったサンは、まるで夢を見ているようだった。視界いっぱいに広がる青空は、掴もうとしても掴めない。ひらひらと舞う桜の花びらは、掴んでもこの体を引き留めてはくれない。サンは、為す術もなく、塀の向こうに落ちていった。
  パパン……。

 サンが便器の上で回想にふけっている頃、樫の木の上のスルーも、あの日のことを同じように思い出していた。
  パン。

 見張りを交代しようと、先に公衆トイレの屋根に上がったサンが、突然、屋根から外れて空中に浮かんだ姿が目に入った。とっさにスルーは彼の足を掴もうとしたが失敗した。
 慌てて屋根に飛び乗り、双眼鏡で塀の向こうを覗く。
 塀の向こう側――PWP署の敷地内、PTAの駐車場に落ちていくサンは、とっさに身を横に回転させ、後頭部の直撃を回避すると、回転の勢いのままゴロゴロと横向きでPTA駐車場を転がっていった。そして、彼らがターゲットとしていたスペースのちょうどど真ん中で、ようやく止まった。
 サンが止まった瞬間、まるで狙いすましたかのように、そこへPTAがポンと現れた。
 お笑い芸人の体を張った芸のオチのような様でうつ伏せた全身桜色タイツのサン。その姿がPTA車の真下になって見えなくなった。
 双眼鏡でサンを追尾していたスルーと屋根の上にいた手下たちは、一斉に声を出さず(あー‼)と叫んだ。
 サンを下敷きにしたPTA車は、停まった瞬間に窓がガーッと全開になった。そして間髪入れずに運転席のドアが開き、U字ヘアーの巨体が泡食った様子で降りてきた。後部座席の窓からは、眼鏡をかけた小さな子供が這い出てきて、地面にポトンと落ちた。同時に助手席からオッサンだか爺さんだかが――双眼鏡で見ていたけれど、遠目なのでちょっと判別がつきにくかったんですね――転がり出てきた。それから眼鏡のガキが出て来た窓から栄養が行き届きすぎたガキ、有り体に言えばおデブなガキが顔を出し、肩をめり込ませたところで動きが止まった。どうも窓枠に体がつっかえているようだ。間もなくして、ガキが窓枠から車内へスポンと抜けて消えた。
 まるで間抜けなコントを見せられているようだった。スルーたちは、どう反応したら良いのかさえわからず、しばらくぼぅっと眺めていたが、PTA車から降りた四人が、ドアも窓も開けっぱなしで立ち去っていくので、これはサン救出とPTAを頂戴するダブルチャンスと浮き足だった。
 が。すぐに彼らの浮いた足がぺったりと地面に戻った。見回りなのか、警官がサンを下に敷いた車に近づいてきた。車まで一メートルほどの距離で、警官は鼻を摘まんでピタッと立ち止まる。そして後退る。そのまま腕組みをして、ドアも窓も開けっぱなしの車を見渡すと、端末を操作し始めた。車体の登録でも確認しているのか。
 スルーたちは、警官が立ち去ることを願って歯がみしながら、じっと見ているしかなかった。
 しばらくして、車から降りて行った一団が戻ってきた。警官と何やら会話し、警官が立ち去った。と、思ったら手にスプレーボトルを持って、すぐに舞い戻ってきた。車の中にそれをスプレーする。
 いつの間にか姿を消していたU字ヘア巨体がコンビニ袋を両手に提げて戻ってきた。片方を警官に渡し、また一同が立ち話。
 しばらくして、警官を残してみな車に乗り込んだ。
 すぐに車体がポンと消えた。その跡に、人の形をした全身桜色タイツが忽然と現れた。
 警官が慌てた様子でトランシーバーに呼びかける。直にワラワラと警官の一団が現れた。
 全身桜色タイツが担架に乗せられて、警官たちに運ばれて行くのをスルーたちは為す術もなく見送った。
  パン……。

 さて。仲間たちが公園のトイレの上で、屋根から転がり落ちたサンの行く先を動転しながら見守っていた頃、彼は如何なる状態であったか。
 屋根から落ちて、コンクリートの駐車場をゴロゴロと転がる。痛い、痛い! どれぐらい転がったのか。ようやく止まったが、気が遠くなりそうな全身の痛みに、サンは小さく呻いた。
 とにかく体を起こそうとしたが、頭が何かにつかえた。どうも硬い物体が体の上に覆い被さっているようだ。地面とにらめっこしていた顔を横に回すと、タイヤのようなものが見えた。
(車? PTAか?)
 ドアが慌ただしく開けられる気配がして、車体と地面の僅かな隙間からサイズのバカでかい靴と太いズボンの裾が見えた。ドスンと軽く地響きを立ててデカ靴が地面に降り、離れていった。反対側へ首を回すと、男性らしきズボンの足がちょこまかとした様子で車から降りて、これも離れていった。視線を斜め先に動かすと、たぶん人だろう何かが地面に落ちて転がっていった……ように見えた。
 よくわからないが、ドアを開け放ったままで、凄い勢いで車内から人が出て離れて行く気配は感じられた。
(チャンスだ)
 サンは車の下から抜け出すチャンスだと感じた。同時に
(あわよくば、車もイタダキか?)
 おそらく運転席の下と思われる空間を目指して、彼は這いずっていった。自分はPTAを運転できないが、忍び込んでしまえば何とかなるだろう。
 欲が絡んだ途端、サンの動きが加速した。殺虫剤攻撃から逃れるゴキブリもかくやというほど手足を高速回転させ、車の下から這い出ると、開きっぱなしになったドアから車の中に飛び込んだ。が、しかし!
  ババン‼

 く、臭いっ‼ 飛び込んだ車内から高速リターン。凄まじい悪臭に転がるように逃げ出た。
(実動隊ならガスマスクがあったのに)
 妙な残念を思いながら、サンは車体の下に退却した。
 どうしたものかと考える間もなく「助けてぇ」と頭の上から子供の声がした。そして車体が激しくミシリと揺れた。車底に自分が潰されそうな感じがして、サンは、とっさに車体から這い出た――。
 ドッスン‼
 上半身が車下から出たところで、サンの上に何かが勢いよく落ちてきた。
(グェッ!)
 サンは潰れた。痛い。苦しい。苦しくて声も発せられない。サンを下敷きにしている物体がふっと退いた。サンから安堵の息が漏れるその前に、今度は何かにサンの頭と肩がガン‼ と蹴られ、サンの体がまた車体の下にズルッと戻された。
 激しすぎる衝撃に、星がサンの目の前に無数に散った。いや、桜の花びらだったろうか。サンは、サッカーボールになった自分をプロ選手がゴールにねじ込むように蹴り飛ばす夢を一寸見た。そして、直後、何もわからなくなった。気を失ったのである。
  パン、パパン!
 
 ぶるり。
 軽い寒気に、サンの長い回想は断ち切られた。長い時間、尻を出して冷たい便器に座っていたせいか、冷えたようだ。
(想定外というのはあるのだな)
 あんな不運が現実に起こるなんて、誰も妄想すらできないだろう。我が身に降りかかった想定外を思い、サンは俯いてため息を吐いた。
 逮捕され、PWPに拘留されたサンは、これまでに二度、逃亡に失敗している。
 一度目は、古典的な手法を使った。
 取り調べ中に「小便がしたい」と訴えて、トイレに連れて行くように仕向けた。小便器で用を足す振りをして、見張りの警官の顔に小便を噴射、目潰し。体当たりで警官を押し倒して、逃走した。
 ところが、逃げ出したはいいが署内で迷子になった。こやつ、フィッシュヘッドの癖に方向音痴であった。署内をあっちこちと走り回ったあげく、結局、出口にたどり着けずにあっさり捕まった。大して広くもない署内で、よくもまあ、あれだけ迷えるものだと、警官たちに呆れられるやら、感心されるやら。 パン!
 二度目は、組織が手下を署内に潜り込ませて、サンを連れ出そうと画策した。
 害獣駆除業者になりすました手下が、白アリが大量発生したので駆除して欲しいという依頼があったと、PWP署を訪れた。
 防護服を着てガスマスクを装着し、背中にボンベを背負った怪しい姿の偽業者の手下は、当然、入り口に立つ警備の警官に訝しまれる。偽業者の手下は、PWP署員らと依頼を受けたの、頼んでいないだのと激しく言い争いの応酬を繰り広げながら、どさくさに紛れて署内に少しずつ歩を進める。
「ええー、聞いてないんですか? 担当の方、呼んでくださいよ。確かに依頼されたんですから。どこです? 責任者の方でもいいですよ。どこですか」
 そう言って、偽業者の手下は、憤まんやるかたないといった様子で、ずんずんと奥へ奥へ勝手に進んでいく。
「ち、ちょっと。勝手に歩き回らないでください。もしかして、いたずらの依頼では?」
 署員の言葉に、
「はぁ? いたずら? そんないたずらして何になるんです。バカバカしい。そちらの連絡ミスなんじゃないんですか? それをいたずらと言って誤魔化すんですか、もう……」
 この手下ときたら、なんとまあ、口が立つこと、立つこと。
 そう言えば、「ああ言えばジョウユウ」って流行語が昔、ありましたねぇ。へぇ。そちらのP世界では「ああ言えばナンダート」なんですか。あちらは「ああ言えばコーイー」。「ドウイウ」「ナンジャイ」……キリがないですね。P世界の数だけバリエーションがあって。 パン。

「やってらんない!」
 偽業者の手下は、ぶち切れたといった態の演技で手を振り回し、うっかりを装って背中のボンベに繋がった管に手をぶつけて外す。すると、その先のノズルから燻蒸剤がブワーッと激しく発射された。
「わわわ!」
 偽業者の手下は、ノズルのレバーを押えて止めようとして、これまた動転して間違えてしまったフリをして、レバーを強引き。
「ぎゃー! 止まらないっ」
 狼狽し、錯乱している迫真の演技で、ますます噴射を激しくさせながら署内を走り回った。そして、闇雲に走り回った偽業者の手下は、ちょうど運良く留置場から取調室に連れて行かれるところのサンを発見する。
「どわわわわ!」
 うっかり足がもつれた風を装って、手下はサンにぶつかる。その瞬間「助けに来ました」とサンに囁いた。
 この手下、なかなかの演技派である。反社じゃなくて、役者になれば良かったのに。 パン。
 喜んだサンは、歓喜に顔をほころばせた。が。ニヤリとした瞬間に息を吸ったため、間抜けにも燻蒸剤の煙を大量に吸い込んでしまった。激しくむせ返り、その場にうずくるサン。
 そこへ、ガスマスクを装着した警官がやって来て、うずくまったサンを引きずって、煙から避難させた。
 さらに別のガスマスク警官が偽業者の手下を背後から羽交い締め。突然の羽交い締めに驚愕して怖がった素振りで――まあ、本当に泡食ってもいましたけどね――それを振りほどき、全力ダッシュで手下はPWP署から逃げていった。
 これまた失敗に終ったのであった。
  パパン!

 しかし、この偽業者の手下が逃げる途中、どさくさに紛れて何とか盗聴器を署の給湯室に仕掛けることができたのは、幸いであった。
 給湯室というのは、平リーマンや平リーウーマンらがお喋りする場所である。そこが警察署内であっても、それは変わらない。平警官の井戸端会議場である。意外と様々な情報が盗れるんである。
 この手下、演技も上々、そこそこ機転も利くようでありますな。本当に何で反社になんか……。 パン。

 その後、フィッシュヘッド一味は、この盗聴器を通して給湯室会議からサンの移送を知ったという訳である。
  パン!

 ようやく体内から排泄固形物の投棄に成功したサンは、ガラガラと勢いよくトイレットペーパーを手に巻き取ってから、
(使いすぎると怒られるんだった)
 幾ばくかを巻き戻した。
 尻を拭きながらサンは思った。法と監視の目をかいくぐり、摘発を逃れ、顧客を異P世界に越境させるのが商売なのに、なぜプロである自身がとっ捕まってしまったのか。なぜ逃亡がままならないのか。
(あの日、朝にバナナを食ったのがいけなかったのか)
 だから「滑った」のか。
(どっかで触っちゃいけない神様に触ったのかな)
 そんなことを考えたりもする。以外と迷信深く、縁起担ぎにこだわる男であった。 パパン。
 
 出ろと命じられてサンは、留置場の独房を出た。
 また取り調べか。ここに入れられたときの季節は春。桜のシーズンだった。今はもう夏だ。普通、こんなに長く留置場に容疑者を置いとくものなのか。それともP世界を跨ぐ犯罪の場合は、通常の警察とは取り調べの手順が違うのか。自分が元いたP世界のルールがむしろ通常――P世界間標準とは異なっていたのか。
 白いリノリウムの廊下に響く、自分が履かされている便所サンダルのペタペタという音が間抜けすぎて情けない。だが、間抜けなのはサンダルだけではない。
(全身が間抜けだ)
 逮捕されてから全身桜色タイツを脱がされて、はじめに着替えさせられた服は、胸に食パンのイラストと「お日様製パン」のロゴが入ったスウェットの上下だった。サンという名の自分に、お日様ロゴとは、何の嫌がらせかとムカついたが、ここの署長が懸賞に当たってもらったものだと看守から聞いた。署長の趣味が応募シールを集めて懸賞に応募することなのだという。今、履いているコーヒー豆のワンポイントが付いた靴下も、署長が缶コーヒーの応募シールを集めてもらったものだ。
 夏になると、今度はTシャツとくたびれたジャージが与えられた。ジャージは、くたびれたので捨てようと思っていたという署員のものらしい。ちょっと裾が長いので捲って履いている。Tシャツもまた署長の懸賞の当たりで、今度はカップ麺の丼型容器を頭に被った子供のイラストが胸に描かれている。ピコちゃんというキャラクターらしい。下をペロリと出して、ギョロリとした目を横に流している。
(ダセえから自分では着たくねぇし、人に押しつけるにも気が引ける。でも、せっかく当たったから捨てたくもねぇ)
 それで俺にあてがったんだろうよと、サンは嗤う。
「何笑ってんだ」
 脇にいる警官がいぶかしがる。
「いや。ちょっと思い出し笑い。意味なんてないっすよ」
 最近、疲れているのか思考が取り留めなくなってきている。ここまで黙秘を貫いてきたが、そろそろ何かアクションをするべきか。弁護士を呼べとか。有り体に言って、この状態に飽きた。
 サンは、いつものように手錠をはめられて、いつものように警官に両脇を取られ廊下を歩かされる。そしていつものように取調室のドアを――通り過ぎた。
(えっ)
 そのまま警官は、ずんずんとサンを引っ張っていく。あれよあれよという間に外に出た。
(えぇぇ)
 目の前に黒いバンが停まっている。
「これから拘置所に移送する」
 警官が告げた。
(えっ。こんなとこでそういうこと告げるの?)
 P世界を股にかけてきたフィッシュヘッドのサンにもわからないP世界のルールがあった。私にもわからない。大方、逃亡とか奪取とか防止のために、ギリギリまで告げられなかったんじゃないかと推測しますがね。あくまで推測です。 パン!

 バンの後部ドアが開けられた。サンは警官に促されて、仕方なくバンに乗り込もうと一歩踏み出した。その時――
 PWP署の門、真っ正面から小型トラックが突っ込んできた。バンの横っ腹にドンとぶつかって停まると、荷台に搭載されたコンテナからバラバラと人が降りてきた。みな木刀やら鉄パイプやらを握りしめている。どれもこれも、サンの見知った顔である。
 サンは一瞬で状況を把握した。左側にいる警官の顔に頭突きを食らわせ、右側の警官を蹴り飛ばす……とみせて、体当たりした。実は、足が短いので届かなかったのである。
 しかし、敵もさるもの。すぐに異常に気が付いた警官たちがワラワラとあちこちから湧いて出て来た。サンの頭突きと体当たりで尻餅をついた両警官もすぐに警棒を抜き、応戦の構えだ。
 さあ、乱闘が始まった。
 鉄パイプの手下がバンの運転席の窓ガラスを叩く。びくともしない。だって防弾防犯ガラスだもん。弾だけじゃなく、鉄パイプも弾くよ。
 開いていた後部座席のドアから中に乗り込んで、バンをジャックしようとする手下を、サンの頭突きを食らった警官が鼻血を出しながらも引きずり下ろして、警棒でぶちのめす。その警官を別の手下が木刀で襲う。それを仲間の警官が木刀野郎の横っ腹に蹴りを入れて救う。
 あっちこっちで、殴り殴られ、蹴り蹴られ、投げられ、首を絞められ、噛む、引っ掻く、引っぱたく……。仲間を助け助けられ、敵を襲い襲われ……。阿鼻叫喚のしっちゃかめっちゃか。
 そんなフィッシュヘッド一味と警官が入り乱れる動乱の空間に、樹上から全身緑タイツのスルーがひらりと舞い降りた。全身タイツに貼り付けていた葉っぱが周囲に飛び散る。まるで樹木の妖怪……いや、精のようである。
 スルーは、サンをPWP屋内に戻さんと手錠の鎖を掴んで引いていた警官の横っ腹を降りざまに蹴る。更に膝蹴りを食らわそうとしたところで別の警官の警棒がスルーの脚を叩き落とそうと振り込まれる。間一髪、スルーは膝蹴りのために振り上げた膝をそのままに、くるりとターンして回避する。さすが元バレリーナである。しかも、くるりと一回転して元の位置に戻りながら、曲げた膝を伸ばして頭の上に足を高く掲げ、下に向けていたつま先を逆に上に立てて踵を伸ばした。そして警棒を振り込んできた警官の頭の上に
「ふん!」
踵落とし! それを横っ飛びに転げて回避する警官。「ちっ」とスルーが舌打ちをした。
 さりげなくスルーの前職が出て参りましたが、なんと、バレリーナだったんですねぇ。それがどうして犯罪組織の幹部なんかになったのか。少女デブゴンの話には関係ないのでそこはスルスルーっと飛ばします。以上。
 パン。

 警官と手下どもの乱闘に揉みくちゃにされながら、サンは逃げ惑った。警棒が振り下ろされてきたのを躱してほっとしたところに、標的の警官に回避された手下の鉄パイプが、サンの目の前にうなりを上げて現れる。それを除けた勢いでサンは仰け反った。仰け反った拍子に別の手下と応戦中の警官の背中にドンとぶつかって弾かれ、今度はうつ伏せに地面にたたきつけられそうになり、慌てて手を伸ばして何かを掴んだら、手下のアロハシャツで、勢いでぶっ裂けちゃる。地面に手をついてうずくまったサンは、そのまま四つん這いで、この右も左もしっちゃかめっちゃかの乱闘から逃れようとしたが、今度は、林立し、激しく動き、踏みならされる足々の波に翻弄され、ぶつかり、蹴られ、踏まれ、「いでででで」いよいよ何が何やらわからない。
 突然、襟首を掴まれた。
「ぶはっ」
 足の嵐から解放されたサンにスルーが
「アンタ、こっちだよっ!」
 叫んで、サンの襟首を掴んだまま、バンの横っ腹にめり込んでいるトラックに向かって走って行こうとする。が、サンの足がもたついて走れない。端から見ると、まるで重たいずだ袋を引きずっているような有様だ。サンは、後ろ向きで襟首を引っ張られ、首が絞まって苦しいのだ。それなのに、後ろ向きでたたらを踏みながら、強制的に進まされる。いや後退か。助けられているはずなのに、むしろ死にそうである。
 スルーは、トラックの運転席のドアをガンガン叩き、ハンドルにしがみついて縮こまっている金髪チャラ男に開けろと怒鳴った。
「こら、待て! サン!」
 トラックに乗り込もうとしているサンに気付いた警官が叫んだ。その声に反応して他の警官たちがみな一斉にサンめがけて駆けてきた
 チャラ男が慌ててドアを開けようとするが、手が震えてもたつく。チャラ男、泣く子も黙るフィッシュヘッド一味のくせに、びびりであった。本当にただのチャラ男であった。
「ちっ」
 もたもたするチャラ男に、間に合わないと判断したスルーがサンの体を表に返して、首根っこをがっちりホールドすると、PWPの敷地の外に向かって走り出した。片方が首根っこをホールドされた変形二人三脚状態で走る二人を警官たちが追ってくる。
「逃がすか!」
 それをフィッシュヘッドのガチンコ要員どもが更に追う。
「頭(ボス)を助けろ!」
 またしても両者、ギャースカギャースカと乱闘だ。しかも走りながら。
 サンとスルーは、とにかく走った。どこをどう走ったかわからない。後に続く乱闘しながら走る一団とは、当然ながらどんどん距離が広がっていく。
  パン‼

 気が付くと、サンとスルーは二人だけで走っていた。二人ははたと立ち止まる。
「ここ、どこだ」
 サンが息を切らせながら呟いた。
「知らないよ」
 スルーが荒い息で答えた。
 時折、二人の横をハイスピードの車が通り過ぎていく。人影はない。殺伐としたハイウェイだ。上を見上げると架橋の高速道路が幾重にも重なっている。下を見ても、高速道路が走っている。周囲をぐるりと見渡しても、ハイウェイしか見えない。
 二人とも途方に暮れた。人に尋ねようにも人が通らない。車すらたまにしか通らない。しかもハイスピード。そもそも人が素で歩くということを想定していない道である。
「暑い」
 スルーがぼやいた。当たり前だ。夏に全身タイツである。しかも大暴れして大爆走した後である。汗びっしょりだ。
 スルーが暑さに耐えきれず、ぴったりしたフードを脱ぐと、中からボワンとチリチリの髪の毛が爆発した。いや、爆発したように飛び出してきた。
 急に二人の横に車が停まった。タクシーだった。車の頭にのせられた天井灯は、個人タクシーの表示だ。
 後部座席の自動ドアが開いた。
「お客さん、どうぞ」
 戸惑う二人に、タクシーの中から声が掛けられた。
「手を……じゃなくて髪の毛を挙げたでしょ」
 サンとスルーは顔を見合わせた。随分と都合が良い展開だ。逆に訝しい。だが、そこは犯罪組織カップルである。いざとなったらタクシージャックしちまえば良いさと、目と目で会話。
 ニヤリと悪い笑いを浮かべて、タクシーに乗り込んだ。
  パン!
 
 サンとスルーを載せたタクシーは、すーっと滑らかに走り出した。
「どちらまで」
 運転手が尋ねた。顔を見合わすサンとスルー。
 スルーがサンの耳に口を寄せる。
「合流場所アジトに行きたいんだけどさ」
 計画では、サンを奪還したあと、サンとドライバー含む幹部の数名は、そのままPWPの護送車バンでP世界越境する。バンに乗り切れない手下どもは、小型トラックで逃走。それを乗換え場所で乗り捨てて、用意してある乗用車とバイクと自転車にそれぞれ乗り換え、このP世界の仮アジトに向かう。そこで用意しておいたPTAに乗り換えて、合流地点として指定してあるP世界のアジトで落ち合うという手はずになっていた。
 スルーが更に囁く。
「PTA車じゃないと行けないからね」
「とりあえず、ここの仮アジトでいいんじゃないか」
「あの金髪チャラの間抜けっぷりじゃあ、心配なんだよね」
 仲間を乗せて逃げるはずの小型トラックのドライバーがあのチャラ男では、逃げ出しても追尾されてとっ捕まりそうである。
「何であのチャラに運転させちゃったのかな」
「お前の人選じゃないのか」
「イワオだよ」
 サンが「あー」と呻いて
「アイツ、最近、ついてないんだよな」
 顔を手で覆った。最近って言っても、サンが捕まるあたりの頃のことだから、もうひと季節前までの話だ。全然最近じゃないが、サンの世情的時間感覚が留置場に入れられたときから止まっているのだ。
 サンが指を折ってイワオの不運を数え上げる。
 ひと仕事終えてサウナで汗を流していたら、めまいを起こした別の客がヤツの顔面に頭突きを食らわす形で倒れ込んできて、鼻血ブー。おまけに反動で仰け反った後頭部を壁に強か打って、でっかいたんこぶを作った。ドジ踏んだ舎弟の頭を思わずスマホで叩いたらディスプレイが割れた。組員旅行の温泉宿で鯛の骨を喉に引っ掛けて病院に担ぎ込まれた。ファミレスで飯食ってたら、はしゃいだガキにジュースぶっかけられるし、居酒屋では生焼け焼き鳥を知らずに食って腹を下した。マジ惚れされてると思ってたキャバ嬢には八つ股かけられてたし、しかもランク下から二番目だったし、傷心から癒やしを求めた推しのアイドルが結婚引退するし……。
「一昨日は、公衆トイレの個室に入ったら紙が切れてた。紙持って来いって、舎弟に通話アプリで命じたはいいが、そいつが持ってったのは、トイレットペーパーじゃなくコピー用紙」
 スルーが後を続けた。季節が変わってもイワオの不運は今だ健在だった。
 二人がひそひそと会話していると
「あのぉ……」
 運転手がバックミラー越しにこちらを見ている。
「何だ……あっ!」
 バックミラーに映った運転手の顔を見て、サンが驚きの声を上げた。スルーも息を呑んだ。
 イケメンイケメンだが特徴がない。記憶する取っ掛かりがないイケメン。思い出そうにも顔が思い出せないイケメン。でも、見れば思い出す。そういうイケメン。
「お前、斡旋屋か」
 スルーが運転手が映ったバックミラーを指さして言った。
「斡旋屋って……そりゃ一度斡旋したことがありますけどね」
 成り行きって奴ですよ、商売じゃないです、と首の後ろを掻く。
「で、何だ」
「これ、PTA車ですよ」
 あっそうだったと、ポンと手を打つ二人。
 どうやらこの個人タクシー運転手とフィッシュヘッドのカップルは、顔見知りのようである。
  パパン。

 覚えておいででしょうか。2・5席目のお話を。
 キン子とパン太の初のP世界超えで辿り着いたPWP署の駐車場でのこと。タマサカ先生の車内プー事件ですよ。あの時、キン子が蹴飛ばしたような気がした何かとは、フィッシュヘッドの頭であるサンだったんですね。
 何という縁。この因果が因縁となって、再びこのあと巡ってまいります。
 乞うご期待。 パパン!

 あ。チャンネル登録まだの方はよろしくね。

    🐠 🐠 🐠 🐠 🐠 

 六席目の途中で、キン子が叫んだ。
「えっ! あの時のアレって、人だったの?」
 タマサカ先生のPTA車内強烈プー事件の時に、自分が蹴飛ばしたのがフィッシュヘッド頭のサンであったことを知って、キン子は驚いた。
「フィッシュヘッドの悪いオジサンだったんだ」
「偶然とは言え、キン子は犯罪者の逮捕に貢献したんだな」
 ゴッちゃんが言うと、タマサカ先生が
「そもそもは、ワタシがプーしたお陰だヨ」
 偉そうにふんぞり返った。白い目が一斉にタマサカ先生に注がれる。周囲に漂う空気に混じる棘と呆れに、さすがのタマサカ先生も気付いたのか、
「こほん……続き続き。お喋りしてると見逃しちゃうヨ」
 軽く咳払いをして、気まずさを誤魔化した。

 講談師の高団子がぺこりとお辞儀をして、画面から退場した。これで六席目が終了だ。
 キン子が時計をチラリと見て、それからアイン君を見た。
「このまま続きも見る? それとも、夕飯の準備かな」
 今度はアイン君がチラリとゴッちゃんを見た。察したゴッちゃんが、次の動画は40分ちょっとだなと言うと
「じゃあ、続けちゃって。夕飯の仕込みはもうしてあるから」
 余裕の態で告げた。
「さすがアイン君。で、メニューは何?」
 キン子がつかさず夕食のメニューを尋ねる。
しゃぶしゃぶ
「へっ? 夏だヨ」
 タマサカ先生が間抜けた声を出した。キン子とパン太は首を傾げる。
「しゃぶしゃぶって何?」
「そう言えば、ミスター・スタンのお話の回でも、しゃぶしゃぶって出てた」
 ゴッちゃんが説明する。
「煮込まない鍋かな? ダシを鍋で煮立てて、そこに薄切り肉とか火の通りやすい野菜を入れて、一振り二振りしてタレにつけて食べるんだ」
「それ、夏に食べるには暑くない?」
 パン太が横目でアイン君を恐る恐る見ながら言う。それに対してアイン君は、
「暑いときこそ、熱いものです。だって、あんたたち、今日一日、クーラーの効いた部屋で冷たい飲み物片手にずっと動画見てたわけでしょ。代謝悪くなるワ。熱いもの食べて、汗かいて代謝を高めなきゃ」
 腰に手を当てふんぞり返る。
「食べるサウナってとこかな」
「うっへぇ」
 タマサカ家人類一同が呻いた。
「もう材料切って揃えてあるから。しゃぶしゃぶだし、煮込む必要もないし、ささって食べれるから」
 その言葉を聞いて、そういうことかと一同合点する。誰かの口が『手を抜いたな』と動いた。別の誰かの口が『確信犯』『計画的』と動く。また誰かの口が『あんたたち、って何さ』。それを引き継ぐように誰かが『自分が早く続きを見たいからだろ』『偉そうに』と口を動かす。
 口々が文句を形作るが、誰も音を発しない。タマサカ家の山の神にして影の支配者アイン君を誰もが恐れていた。そして、みなアイン君と同じく、動画の続きが気になる。見たいのだ。アイン君への反発と、でもその心は同じという葛藤が口だけ動かすという行動に表されている。
 室内を流れる妙な沈黙に、アイン君が訝しげに左右を見やる。みな、下を向いたり、斜め上を見たりして、そっぽを向き合っている。
「……じゃ、まあ、次いってみようか」
 タマサカ先生がいつになく落ち着いた声音で先を促すと、7席目が再生された。

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