見出し画像

自分の本音を恥ずかしく思う時に書けなくなるのではないだろうか?

私は書くことが好きなはずなのに、時々どうにも書けなくなる時がある。
書いては消し、書いては消し、下手したら書くこともできないで、ただパソコンの前で止まってる時もある。

そんな時の私の気持ちについて考えてみた。
おそらくだ。
私は、自分の本音を恥ずかしく思う時に書けなくなるのではないだろうか?と思った。

要は、こんなことを書いたらどう思われるだろう?
理解者なんて誰もいないのじゃないか?それどころか幻滅されるかもしれない。
そんなことを考えるから、書く手が止まってしまうのだ。

本音、正直言って、どこまでさらけ出していいのかわからない。
だって、文章だけでは、言葉だけでは、伝えることには限界がある。
読む側の解釈だって、千差万別だ。
それを恐れていたら、何も書けないのに、やはりどこかで恐れを抱いてしまう。

表現の自由って、何だろう?
表現の自由がいくらあっても、書く方に自由な心がなければ、結局は抑圧されたものしか書けないのではないか?
そんな風に感じるのだ。

書くという行為は、あまりにも自由で、あまりにも抑圧的だ。
どっちにも転がるし、いつだって、どっちの要素もあるのだろう。
なんて危なっかしいことをしているのだろう、書くという行為は。

どこかスリルのようなものがある。
これが、私が書くという行為に魅せられている理由なのだろうか?
いや、わからない、そんな一言で語れるものでもないはずだ。
だから、人は書くのだ。
書くという行為を通して、一言で語れないものを見つめに行く作業をしているのかもしれない。

私はかつて、「色っぽい文章を書く人が好きだ」という記事を書いたことがある。

当時、結構、わかった風に、色っぽい文章について述べたのだが、今、当時よりわからなくなってきてるように感じる。
私が色っぽいと感じる文章、この時に書いた定義ももちろん当てはまるのだが、もっと直感(本能)に近いもののように思える。

それは、自分が記事を書いた時にも言えるのではないだろうか?
自分が直感(本能)で書いた時に、自分の色(色香)が出るのではないだろうか?
そんな時の文章が、一番、自然と湧き出た言葉のシャワーのような形で、記事としてそこに噴水のように存在できるのではないだろうか?

噴水って、止めると何も出なくなる。←当たり前だ(笑)
逆に勢い余って、飛び散るぐらいになることもある。
まるで、人間の感情そのものではないか?
私は、自分の感情も、誰かの感情も、飛び散らせるように、飛び散らされるように、感じてみたい。
そんな欲望を持つのは、わがままだろうか?



この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?