今ある日本の原点を探る

明治日本の産業革命遺産(3)

前回は外国の技術を真似て、反射炉を造ったり、日本人だけの初の挑戦で橋野鉄鉱山を操業などいろいろ動き出したというところまででしたが、これからはその西洋技術を取り入れる時代に入ります。
 長崎では洋式工場の長崎鎔鉄所が完成(現在の三菱長崎造船所)、1863年には井上門多、伊藤俊介、井上弥吉、遠藤謹助、山尾庸三の長州ファイブが英国へ留学。1865年には佐賀藩が蒸気船「凌風丸」を、その後グラバーと佐賀藩による合弁高島炭鉱を操業、五代友厚、小松帯刀とグラバーが共同で小菅修船場建設、1871年に岩倉具視使節団が欧米をまわり、この時伊藤博文は英国でパークスさんの案内で、農業だけで生活していたのが鉄を作ることにより鉄道や船、鉄の橋などインフラが充実してあらゆる産業ができて、人々の暮らし向きも良くなったことを聞き、日本も同じ島国であり、自前で鉄を作らねばと痛切に感じて、政府に進言し釜石に初めての官営製鉄所ができました。
 しかし燃料などの問題があり2年で民間に払い下げしました。
1894年に日清戦争が勃発。その賠償金のごく一部を使って1897年に八幡村に官営製鐡所が開庁し、大島道太郎らの意見を取り入れドイツの技術で鉄作りをすることになりました。
 なぜ八幡なの?
1、洞海湾を上ると日本最大の炭田がある
2、門司港という国際港がある
3、安芸国坂村ほどではないが軍事的にもまあ良いだろう
4、北九州は地震が無く自然災害がないだろう
5、自然が豊かで水が豊富に使える
6、芳賀八幡村村長、安川敬一郎氏らが一生懸命誘致した
 ことがあげられます。
 1899年に本事務所を、翌年に日本最古のドイツ製鉄骨を使った修繕工場、鍛治工場と建設され、ドイツ人の指導のもと1901年に東田第一高炉に火が入りました。
 しかし、トラブル続きで2回目の火入れでも上手くいきませんでした。その頃ドイツ人技師たちの給料があまりにも高く帰していたのです。(技師長トッペさんの給料は日本の総理大臣の約倍の19200円)
 さあ困った!そこで釜石から野呂景義さんを招いて徹底的に調べたところ、ドイツ人が設計した高炉に問題あり、コークスがうまくつくられていないなどの原因がわかり、1904年に3回目の火入れでやっと成功しました。ここで外国の技術を取り入れて日本人の手による近代製鉄技術が確立されたのです。八幡では最初から銑鉄鋼鉄一貫工場でした。
1910年にロンドンで日英博覧会が行われ、八幡で作った国内生産の鉄製品などを展示して世界デビューを果たしました。世界文化遺産明治日本の産業革命遺産は8県11市23資産があります。その一つ一つが単に世界遺産というわけでは無く、世界遺産群の一つであることを理解してください。
 ここ北九州市・八幡の地が今ある日本のモノづくり大国となったと言えるでしょう!
その意味で明治日本の産業革命遺産〜製鉄・製鋼、造船、石炭産業〜の一番重要な資産が官営製鐡所の4ツつの資産が最重要だと言われる所以です。
 修繕工場、遠賀川水源ポンプ室は現在でも稼働しています。
八幡東区ジ・アウトレットから徒歩5分のところに旧本事務所眺望スペースがありますのでガイドの説明を受けながら当時を感じてください。尚、月曜日はお休みです。世界遺産ビジターセンターは土、日、祭日にガイドがおります。

既に発売されています

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