#2 なっぽっぽって何者。(前編)

周りから見て私はどのように見えてるのだろうか。

人が発する情報の価値や有用性について私はその人自身の生活・生育歴がとても重要だと思っています。

そのため、少し長くなりますが、前編(学生時代)と後編(社会人時代)に分けて自己紹介をさせていただきます。

1993年、埼玉のとある田舎に生まれました。
一人っ子でごく普通の一般家庭です。

<幼稚園時代>

わんぱくで遊びまわってました。足が速い男の子がかっこよく見えて、当時はその子ばっかり見てました。話しかけるより影からちらっと見ているタイプです。
年長くらいからスイミングスクールと塾に通い始めました。

<小学生時代>

公立の小学校に進みます。
小学校では1年生と4年生のときプチ不登校になりました。何故だかよく覚えておりませんが、そのときから環境に馴染む事が苦手だったんだと思います。

小学4年生から6年生までは中学受験のために塾に通い、時には体操したり、水泳したり、絵画教室や書道教室に通ったりして、友達と遊ぶことはほとんどありませんでした。男の子と話すことが多かったです。
いわゆるメガネ陰キャでした👓

塾では常に成績が評価対象で、中の上くらいでした。親からは「もっと頑張りなさい。あなたは国公立大に行って、国家公務員になるんだから。」と言われてました。私もそうなるものだと思ってました。
褒められたことはありませんでした。

中学受験は第1志望の学校だけ落ちました。涙が出るほど、悔しかった。なによりも両親から認められた気がしませんでした。

<中学校時代>

県内で2番目に偏差値の良かった女子校の中高一貫校に進みます。
順調に進んだのかと思ったのですが…。

3年生のときに学校に行けなくなりました。8月ぐらいの事だったと思います。

ある日突然過呼吸を起こします。教室に入ることが怖くなり、電車に乗ることが怖くなり、しまいには外に出ることが怖くなり、食べることも恐くて出来なくなってしまいました。
手が震えるし、動悸も凄いし、常に吐きそうで不安と焦りと恐怖感でいっぱいいっぱいでした。
いわゆるパニック発作でした。

きっかけは多分グループからはぶかれていたことだと思います。
私が勝手にそう思っていただけなのかもしれません。

両親に車で送られて、保健室に登校して自主学習してました。
そのとき、担任から教育指導があったことはありませんでした。

児童精神科に通うようになりました。薬を飲むことから始めました。そのとき人生で始めて自分の話を話すことが出来ました。

学校のスクールカウンセラーにカウンセリングを受けることもありました。
その時に初めて心理療法に出会います。これが私の人生を変えました。
箱庭療法や不安階層表を用いた認知療法を受けました。
その時のやったことがこちらです。

色々やった甲斐あって3月には問題なく生活できるようになりました。

ただ1つ問題がありました。授業を受けてないのになんと過去最高成績、学年TOP10になってしまったんですよね。授業に出てないからって理由で成績が下がることは私のプライドが許さなかったんです。

ここで思います。「進学校の先生が偉そうに教えている授業って中身がないし、自分でやればできるじゃん。勉強しか教えてくれない学校って必要ないよね。」と。


<高校時代>

そのままストレートで高校に進みます。国公立や医学部、早慶を目指すところでした。
ただ半年ぐらい高校に行ってなかったので、クラスに馴染めないんですよね。
学校に行っても常に一人ぼっちで、雑誌を読んでました。たまに誰かと会話するくらい。

ただ部活には何故か参加してました。弓道部に入部。その時は同級生とも話せて、楽しい時間でした。

たまたまビジュアル系バンドが好きだったので、前略やmixiで界隈の友達を作り、放課後はそっちの友達と遊ぶことが増えました。
当時は池袋や新宿で無料ライブをやっていて、ライブハウスにいるようになります。
そっちの方が私自身と向き合ってくれる友達がたくさんいて心地がいいことに気づきます。
過呼吸起こしても面倒見てくれて、リスカしてる女の子もいてみんななにかしら抱えてる子が多かったんです。

素行不良なっぽっぽっ、爆誕。

これでまた学校に行かなくなります。
バンギャへの道筋一直線です。

高校は出席日数が足りなくて進級が難しくなりました。
担任と面談して、中退することになりました。
そのときに、担任に「あなたは頭はいいんだから、勿体ないよ。」と言われました。あの時ほど人を憎むことはこれからもないと思います。

とはいえ、両親は学校に行って欲しいと思っていたので、高校2年生から不登校専門の通信高校に編入しました。通信とは言うものの通学を目的にした学校であったため、毎日通学日でした。

案の定登校しないわけです。ライブハウスに行ったり、サイゼでご飯食べたり、ゲーセンに入り浸ったりしてました。時には精神的不安定になったりして引きこもっていました。たまに気が向いたら学校に行っていました。

居場所がないと感じていて、無力感に苛まれていました。常に「普通」になりたいと思っていました。いわゆるメンヘラです。

そんなダラダラした生活も終わりが来ます。

高校2年生であった2011年3月11日、東日本大震災が発生。

将来についても考えなければならない時期でこのまま進学しても高みは望めないから手っ取り早く就職しようかと思ってました。

そんな矢先ニュースでPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされている方が多くいることを知ります。

ふと、思いました。
「私も誰かに理解して欲しかった。辛かった。感情を解決する術を教えて欲しかった。私が経験してきたことで誰かのために役立てるならやってみたい。」と。
そこで精神科看護師を目指すことになります。
ちなみに両親には猛反対されました。
心理師になることも考えたのですが、6年も学校に通うことは到底無理だと思ったので、看護の道を選びました。

いきなり真面目になります。
医療系専門予備校に通い始め、大学受験のために勉強しはじめます。その頃にはもう精神的に安定していました。
バンギャは一時中断。

だいぶ勉強していなかったので、偏差値35くらいしかありませんでした。半年で60位に戻さなくてはいけません。
その頃には大学受験のために勉強するなら学校に来なくていいと言われていたので、1日10時間くらい予備校に籠ってました。
放課後に制服で他の子が来る中、私だけ私服で猛烈に浮いてました。
タバコ臭いおっさんの先生が「この子頭いいからみんなで勉強しな。」と言ってくれて、生徒と話し出すようになったことが印象に残ってます。
中退した高校に対して見返してやると当時は奮起していました。

頑張った甲斐あって、第一志望の大学の看護学部に受かることが出来ました。
同時に進学校を辞めてもやろうと思えばできることを証明できたと思いました。
両親にも初めて褒められました。

こうして人生で初めての成功体験が出来るわけです。

<大学時代>

大学に入学しても私は浮いていました。
そもそも集団環境に身を置いて居なかったので、どういう立ち振る舞いをすればいいのかわかりませんでした。

そう言えば大学に入学する際に健康面で不安なことを伝えなければいけませんでした。かかりつけの医師に診断書を書いてもらって提出しました。
そのときの診断名は『社会不安障害』でした。初めて自分の病名を知りました。

外見は金髪ショーパンニーハイ折れそうなピンヒールを履いていました。そんな格好で授業を受ける女なんて私くらいでした。

当時の写真はこちら。

相変わらず学校は行かないことが多く、単位がギリギリ取れるところまで休んで、テストはきちんと受けるというような生活でした。
学校は資格取得のための手段であって、学ぶ場所では無いという考えを根強く持っていたからです。
母親には「学費払ってるんだからちゃんと行きなさい。」と怒られていました。親からすれば当然です。

全部出席したのは精神看護学の授業だけでした。
4年間、志だけ無駄に高かったので、絶対に挫けることはありませんでした。

バイトも始めました。学校よりバイトに行って飲みに行ってカラオケしてごく普通の大学生でした。
バイトはとても楽しかったです。たかが居酒屋バイトがとてもやりがいがありました。
恵まれた労働環境と素敵な人たちが集まっていました。学校の友達よりバイト仲間と遊んだことの方が多かったかもしれません。
社会勉強はここで沢山させてもらいました。

弓道は好きだったので、弓道部に入部。授業やバイトで行かないことも多かったですが、弓道はずっと好きでした。余談ですが、あの狙う感じダーツに似ているところがあると思います。1本の緊張感がたまらなく最高でした。

ただ1つ違ったことが私が相変わらずバンギャだったことです。
バイトしてお金も稼ぐようになって全国を駆け巡ってました。ツアーは全部いく。これがモットーでした。今で言う推し活ですね。

授業終わったら新幹線に乗って、最終で帰ってきて、寝てバイトして、また新幹線に乗って、移動中に勉強して、テストを受けるといったいま考えるとアホみたいな生活してました。

看護学部には病院実習があったので、その時だけ黒髪、バイトも飲みに行くこともせず、メガネ陰キャが復活するんです。
看護実習ってめちゃくちゃブラックなんですよ。課題が6時間では到底終わりません。毎日2時間睡眠、2週間ぶっ通しです。
時には病院に近いホテル泊まって行っていることもありました。
単位取得のために持ち前のオンオフの切り替えの早さと要領の良さで過ごしてました。

そんなわけでどう見ても真面目とはかけ離れていた生活でした。先生方には好かれていなかったと思います。
ただ唯一、精神看護学の教授にはとても好かれてました。
「次は髪色、何にするの?ピンクにすればいいじゃない。」と言ったり、ゼミはディズニーシーに行こうと言うようなフランクな先生でした。
私にとって唯一尊敬出来る恩師です。

そんな教授の授業の言葉ですごく心に刺さった言葉があります。
「精神科に携わりたいと思う人の中に自分が病んでるから、相手のことをわかってあげられる。そんなことを言う人がいる。それはその人の押しつけであって、共感もなにもできていない。」
今でも考えさせられる言葉です。私はその域から脱したのだろうか。
いつも自問自答しています。

ちなみに卒論は『統合失調症の病識の構造』というとても難しいテーマで書きました。
今なら絶対そんなテーマで書かないですね。倫理的にも生物学的にも臨床的にも説明がつかない複雑で複合的であり不可解なものだと思っています。

就活はなにもしませんでした。バンギャで忙しかった私は情報収集や面接対策がとても面倒くさかったので、教授のおすすめの病院に履歴書を送って終わりました。
こういう優先順位はちぐはぐでなんとも私という人間のアンバランスさが出ていると思います。

そんなこんなで看護師国家試験に無事合格し、大学も4年間で卒業、晴れて夢見てた精神科看護師になることが出来ました。

いつの間にか病院にも通わなくなり、薬も飲まなくなり、日常生活を送ることができるようになっていました。

周囲の人には「ほんとに4年間で卒業して、看護師になるとは思ってもいなかった。」と言われました。私からしたらしてやったりです。

人生2度目の成功体験でした。

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