#3 なっぽっぽって何者。(後半)

さて、社会人になってからのなっぽっぽっを書いていきます。

<社会人時代>

とある病院で働き始めることになりました。
配属は精神科の中の救急病棟です。
同時に一人暮らしも始めて私はるんるんでした。

精神科の救急ってなによってよく言われるのですが…
救急病棟の平均在院日数は約60日、その間に薬物療法や心理療法、地域の社会資源の調整などを行います。
ちなみに現在の精神病床の平均在院日数は274.7日となっています。改めて見てもやっぱり長いですね。
その話はまたまたおいおいお話させて頂きます。

社会人1年目。
緊張しながらそわそわして病院に行ったことを覚えています。
同じ病棟に新卒同期はいませんでした。中途採用の同期だけだったんです。

彼女には「あんな新卒の目つきが怖い同期で私はどう話しかけたらいいかわからなかったよ。」って言われるくらい相変わらずむすっとしてました。
ちなみに彼女の方が私の6つ上です。
今でもとても仲良くさせてもらってます。

私は敬語や物事の言い回しが全然できてなくて、態度も生意気で普通に反論するような新社会人だったので、先輩方は苦労されたと思います。
自分でも私みたいな後輩がいたらイライラするだろうなと思うレベルです。

言葉の使い方に関しては3年目までずっと言われましたね。しつこいくらいに。
言っていただけることが今はすごく有難かったなと思ってます。
ちょっとだけマシになったと信じてます。

初めて受け持ちした患者さんは統合失調症の30代の女性でした。
自分が病気だという認識があまりなくて、症状に左右されて家を飛び出してしまったり、物に当たるような方でした。落ち着くととても身綺麗で女性らしさが溢れる方でした。
当時はタイムマネジメントなんて出来なかったので、1時間くらいずっと話してました。
その患者さんとの関わりから学んだ事。
病気であるその人を見ないこと、その人自身に興味をもつこと、関係性は誠意とともに築かれること、そんなことを学びました。

同時にダーツを始めたのがこの頃です。地元を離れて飲みに行くことが少なくなって暇だったので、近所にあったゲーセンでやり始めました。
その頃は自分がプロライセンスを取るなんて夢にも思ってなかったです。
3時間も黙々と投げるのが私のルーティンでした。

看護師2年目になってその日のリーダーもしたり、なんとなく仕事もできるようになりました。
でも業務をこなすことに精一杯で余裕はなかったです。瞬く間に日々が過ぎていきました。

2年目の思い出は先輩と泣きながら喧嘩したことぐらいです。1時間も教えてくれたのに挙句の果てに喧嘩様になるとは。若さゆえの熱さですね。

その間に勉強会等にも参加してほどほどに遊んだりして、看護師3年目には認知行動療法という治療法のグループを立ち上げました。
あの中学生のときに私がやっていた治療法です。

ついに夢叶い、やらせて頂けることになりました。
自分で資料とプログラムを作って、自分で司会進行して、同僚と意見交換して、もうとても充実した時間でした。
最高に楽しかった。

そんな時プログラムにも参加して、今後も続けますと言って退院した患者さんが亡くなってしまいました。
私はとても無力でした。退院後も長く関われたら変わったのか、そんなことを自問自答していました。

ちょうどこの頃、ダーツバーでお手伝いしておりました。ダーツを通して交流を深めることが出来ました。これも楽しかったです。

時が経つとコロナが出現し始めて、集団で集まることは禁止、病棟自体も閉鎖的になり、私たちスタッフも行動が制限させるようになりました。
精神科で人と話す環境を制限されるってかなり致命的なんですよ。治療がこれまで通りに進まないことのジレンマを感じていました。

ダーツもできず、ストレスフルでした。初めて仕事がしんどいと思ったのはこの時です。
通勤する電車にほとんど人がいないことが孤立感を助長していました。

なかなかコロナも収束せず、次のステップに進もうと思い、退職を決意しました。
自分も精神的に弱っていて、私が今患者さんと向き合うことは患者さんにも悪影響だと考えたこと、新しい環境で知見を広めていきたいことを踏まえて約5年半勤めた病棟を退職致しました。

この間にダーツのプロ試験に受験し合格しました。
やらなくなってわかったことはダーツがとても好きなこと、もっと勝ちたいと思っていること、そしてもう少し自分のために時間を使ってみようということでした。

もともと仕事が大好きで誰かのためにと思って働いてきました。その環境が無くなった時に私は自分を保つ事が難しくなってしまったのです。
私が私のために努力することを決意しました。
ただ精神科看護の夢を捨てた訳ではありません。

1年ぐらいはほかの領域も体験してみようと思い、コロナ関係の契約社員をやっていました。これも色々な発見があって毎日が新鮮でした。

しかし、この間に一緒に働いた同僚が亡くなりました。突然死でした。
ショックで2週間ぐらい立ち直れませんでした。毎日夜な夜な酒を飲んで泣いて話聞いてもらって朝は来るから仕事いって…
私は彼のためになにかできたのではないかとか本当はまた生きているのではないかとか色々考えてました。いきなり泣いたり怒ったり笑ったり情動も不安定で、誰かが居なかったら私は死んでたと思います。
人と人との繋がりの重要性を身をもって体感するのです。そして、私はそんな人を減らしたいと思って看護師になったことを思い出し、精神科に戻る決意をします。

その後はまた違う病院の精神科病棟で1年ほど働きました。
いわゆる、第6波・第7波で慌ただしく、ダーツどころではありませんでした。
あんなに忙しかったのは人生で初めてでした。
ツアーも丁度まわり始めた最中、やりたい仕事はしているのにやりたいダーツは全然思うようにできず、もどかしさを感じていました。
ツアーにスポット参戦するも結果は伴わず…。
JETにてシングルス優勝、ダブルス3位になったことか最高成績でした。

一方で特別な措置を使って公認心理師の受験に挑戦しました。
丁度2022年の6,7月の試験直前に鬼のように仕事以外の時間を勉強してました。
ちなみに心理師の受験勉強は1年くらいするものです。私の計画性が無さすぎます。

何とか受かったので、晴れて公認心理師を名乗ることができるようになりました。
高校生時代になりたかった職業2位の資格を手に入れました。

さて、またここで思うんですよね。
精神科病棟って比較的重症度が高い方が来院されます。重症の方ってベッド柵を折って暴れたり、BMI11ぐらいで極度に痩せすぎていたり、切腹していたり…
そして近年私の身近な人が亡くなった。
そうなる前にもっと地域でできることはあるはずだと。
心理療法とともに病気と付き合いながら社会で生活できるような支援を行ってみたいと。
(またプロツアーも回れてダーツも不満なくできるようになったらいいなと)

そんな訳で退職を決意し、現在無職を満喫しております。
ただ1つ、より多くの人が病気のあるなし関わらず今より心を豊かに、社会で生活できるようなそんな医療を提供していきたいという思いは変わりません。
自分自身でケアできるようサポートしていくことが精神医療に携わる医療者の役目だと思っています。
そして私自身も人間性を高めてもっと自分の価値を高めていきたい。
今後、そういった職につく予定です。

そんな思いを踏まえて学んできた知識や経験、資格を活かして書いていこうと思います。

最後になりますがここまで育て上げてくれた両親に感謝を込めて。

さて、本格的に始めよう。

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