「世紀末の作法」を読む

1 宮台真司著『世紀末の作法』(メディアファクトリー刊)を読む。

 私の田舎では、センター街の女子高生達が「ルーズソックス」を誰も履かなくなった頃になって、ようやく女子高生(のそれもごく一部)が「ルーズソックス」を履き始めていた。当時は、誰でもいつでも「インターネット」に接続出来ない時代だったので、都内の流行は(私の体感になるが)3年遅れて私の田舎に到達していたように感じる。

 そうした草深い田舎に育ち、TVもロクに見ない高校生だった私が、「ブルセラ評論家」として各種メディアで大活躍していた宮台真司を知ろうはずがない。しかし、大学の同期の間では・・・主に都心の進学校出身の人々だったが・・・宮台は大人気だった。
 もっとも、今思い返すと彼ら彼女らも、宮台の著作を読んでその内容に感銘を受けたというより、「TVに出ている有名人」(しかも、自称保守派を論破しているカッコいい知識人)の講義を聞いている自分ってカッコいい、という一種の「スノビズム」に浸っていただけのような気もする。

 田舎者の都会っ子に対する僻みからかもしれない。あるいは、「ブルセラ評論家」としての宮台しか知らなかったという理由も大きいだろう。だから、大学生の私がある種の偏見のゆえに宮台氏の著作に手を伸ばすことがなかったのは仕方がないとも言えるが、最近読んだ本の中でたびたび宮台氏に言及がなされているのを見ると、そろそろ宮台氏の著作を手に取る時期が来たと感じたのである。

2 宮台氏によると「田舎-都会」という対立コードは、80年代に解消されていたらしいが、私の個人的体験からすると、「必ずしもそうとは言い切れないのではないか?」と思う。

 私が大学の入学式を終えたばかりの頃の話である。初めての一人暮らしで将来に不安を感じている頃、固定電話が鳴った。

 「もしもし・・・」
 「あの~アタシ、〇〇女子大の××って言うんですけど、今度デート行きませんか?」
 「は?」
 「だ、か、ら、デートですよ!デート!!」
 
 私の田舎では、男女交際はお互い目に見える範囲内でするのが当然だった。「知らない人に声を掛けられても付いて行ってはいけません」と育てられた「良い子」の私に、見知らぬ女性からデートに誘われる経験などあろうはずもなく、上京早々都会の強烈な洗礼を受けたのである。
 訳が分からず、「い、いや、結構です・・・」と慌ててその電話を切ったと記憶しているのだが、それからしばらくの間、「毎日のように」と書けば嘘になるが、何本か同様の電話が掛かって来た。

 彼女らは一体どうやって私の電話番号を知ったのか謎だったが、今考えると(個人情報保護法制が整備される以前の話なので)入学手続きの際に学生自治会のブースで住所等を書かされたので、自治会から名簿が売りに出されていたのではないかと思う。両親や高校時代の友人を除けば、入学式前後の1週間に、私に掛かってくる電話は自称女子大生か証人会しかいなかったからである。
 まあ、自治会から名簿が流れていたという私の仮説が正しければ、「宗教は人民の阿片」と言いながら、世紀末の共産主義者達は活動資金を得るために、すっかり堕落していたという事なのだろう。

 さて、『世紀末の作法』(以下、「本書」と称す)によると、「(1994)年だと、都内のある有名な女子高で、クラスの四十人中学級委員を含む七人がデートクラブに所属する程度で驚いていた。
 ところが今年(95年)の夏に調べたケースだと、都内のある共立私立高で女子二十人のうち性体験がある八人の全員が売春・・・」(同書56頁)という状況だったそうである。
 この際、売春の是非は問題ではない。同時期の私の田舎では、デートクラブのような相手の顔の見えない状況で異性と接するという女子高生はほとんどいなかったように思う。都内と異なり田舎はとにかく顔が狭いので、匿名の付き合いもいずれは親や学校にバレるからという理由もあるだろう。
 これに対して、都内では顔の見えない異性との付き合い方に関するコミュニケーションの作法(宮台氏の言葉を借りると「N×Nのコミュニケーション」)が既に成立しており、そうしたコミュニケーション形態には性暴力等の被害を受けるリスクが付き物のはずだが、宮台氏が接した女子高生達は、かなりの程度そうしたリスクを織り込み済みで援助交際等をしていた。つまり、「援助交際をする女子高生=バカ」という図式は成り立たず、買う側のオヤジ達より売る側の女子高生の方がよほど賢いと書いている。 

 私が大学の入学式直後に自称女子大生から受けた電話にショックを受けたのは、私が1×1(通常の対面でのコミュニケーション)や1×N(マスメディアの流す情報を視聴者が一方的に受け取るコミュニケーションのあり方)しか知らず、「N×Nのコミュニケーション」という存在を理解できなかったからだと思う。その意味で、コミュニケーションのあり方においては、世紀末当時においても依然として「田舎ー都会」という対立?コードはまだ残存していたのではないかと思う。

3 「N×Nのコミュニケーション」は、顔や肩書、場合によっては性別すら伝わらないコミュニケーション形態であり、「インターネット」におけるコミュニケーションもこれに含まれるが、宮台氏によれば、こうした「N×Nのコミュニケーション」は日本においてはテレクラで経験済みであり、同書が発刊された96年当時では未だに誰でもいつでも「インターネット」に接続できなかったにも関わらず、今後のネット社会に求められるスキルについての宮台氏の見通しは見事に当たっていた。

 「電子ネットワーク社会を楽しく生きられるかどうかを分けるのは、パソコンの知識だけでなく、コミュニケーション・スキルである。パソコン・オタクが偉そうにしていられるのは、せいぜい今のうち。・・・電子ネットワーク時代を生きる残る知恵とは、パソコン・スキルではなく、あくまでもコミュニケーション・スキルなのである」(同書129頁)。

 同書が発刊された頃は、個人でHPを開設しようと思えば、ダイヤルアップ接続(都度課金)で相当の通信料に耐えられる経済的余力を持ち、しかもHTML言語を習得している必要があった。逆に言うと、(今の若い人には想像も出来ないだろうが)就職活動で「HPを持っています」と言えば、それだけである程度資格代替物になった時代である。
 今日の「インターネット」における「N×Nのコミュニケーション」においては、宮台氏が予想したように特別なパソコン・スキルは必要とされず、圧倒的に重要なのはコミュニケーション・スキルである。

 ただ、「N×Nのコミュニケーション」においては、相手の顔や肩書、場合によっては性別すら伝わらないというコミュニケーションの特性上、それは1×1や1×Nのコミュニケーションにおいて求められるのとは異なるスキルが発達したように思う。
 内容ではなく、声の大きさによって、正しさが決まるかのような説得術。また、自分の意見は一切言わず、相手の意見の揚げ足を取る事を「論破」と称する不思議な弁論術。そして、1×1とは異なるコミュニケーションの匿名性から必然的に生じる「身体的なリアリティの欠如した言語」等々である。

 「ネット社会」の進展に伴って、(「攻殻機動隊」で描かれているように)ネットが拡張現実として、人間の可能性や能力を等しく向上させるかと思われた時もあったろうが、現実には、ネットとリアルの境界線が曖昧になった挙句、リアルにおける人間の能力や可能性は低下してしまっている印象すら受ける。「インターネット」がもたらしたものは、(多くの人にとって)「自分の頭で考える」機会の喪失と1×1コミュニケーションの比重が著しく低下してしまった事だろう。
 そういう意味では、 今日これほど「N×Nのコミュニケーション」スキルが発達したにも関わらず、「インターネット」普及の前後で、人間の総体的な身体的・知的能力の絶対値に変化(増減)はない、言い換えれば、人間は環境に適応する事は出来ても、そう簡単に種として進化する事はないのかもしれない。

4 家・地域・学校・職場といった共同体が解体され、「頑張っても報われないし、みんな仲間どころか社会は他人の集まりだし、親が子供を教育しきれるだけの環境の単純さが失われ」た(同書279頁)社会において、自我を成り立たしめているところの自意識を各人がそれでも(=自分と同じ共同体に属する他者からの相互承認なしに)保ち続けるには、「自意識を成り立たせている関係を手繰り寄せ、世界に存在するあらゆる逆説を引き受けて、防衛的な実存を乗り越える以外にはない」(同書137頁)という宮台氏の要求はあまりに酷に過ぎる。少なくとも私は、宮台氏の要求に応えるに足るだけの主体性や精神的なタフさを残念ながら持ち合わせていない。

 私なりのアイデンティティ・クライシスに対する処方箋は、「n×nのコミュニケーション」を放棄し、武術でもスポーツでもいいからもっと身体を動した方がいいというものである。「リアリティの回復」と言えば聞こえはいいが、宮台氏に言わせればそれもひとつの「現実逃避」なのかもしれない。

 

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