アンチ・ノーマライズ

1 「ノーマライゼーション」とは、 「障害者や高齢者といった社会的な弱者に対して特別視せずに、誰もが社会の一員であるといった捉え方をする 」理念を意味している。


 一般的な「障害者」観は、「身体障害者」や「精神障害者」という言葉に表されているように、「障害者」の(身体や精神の)機能面を「健常者」と比較して劣った存在する捉え方であろう。
 私は小学生の時に公共交通機関を利用して通学していたが、養護学校に通う人々を見て「怖い」と感じたのを覚えている。小学生の私が彼らに対してある種の恐怖心を感じた理由は、ひとえに「障害者」への無知ゆえに他ならないが、今考えると、そうした無知が偏見に繋がり、「区別が差別の源泉である」という事を知った原体験だったように思う。
 
 以前も述べたが、私は若い頃病気をして一時的に社会からドロップアウトしていた事もあり、「障害者」と呼ばれる人々の存在が他人事とは思えない。誰しも交通事故やスポーツ事故等々一定の確率で「障害者」になる可能性がある。同様に、加齢に伴う身体や精神の機能の衰えから逃れる事の出来る人は今のところ存在しない。
 「ブレードランナー」の異名を取った南アフリカのオスカー・ピストリウスは、義足の力を借りてではあるが、陸上400mでオリンピックに出て準決勝に進出する結果を残している。

 人体工学の発展に伴って第2、第3のピストリウスが出てくるであろう事は想像に難くない。

 若くて怪我一つ病気一つした事がなければ、小学生の頃の私がそうであったように、「障害者」と「健常者」を別個異種の存在として捉えるのも仕方がないと思うが、私は人間を「障害者」と「健常者」の2つに分けて、その差異を強調し、ことさらに両者を対立させる見方には賛成できない。
 「健常者」も事故や加齢によって「障害者」になる可能性を誰しも有している。反対に、「障害者」も科学の発展に伴って、「健常者」と肉体的に(おそらく精神的にも)変わらないアウトプットが出せるような社会が到来する未来はそう遠くないだろう。
 だから「障害者」と「健常者」の違いは、一般的な「障害者」観が思うような質的な対立としてではなく、量的な差異に過ぎず、「障害者」と「健常者」は(その立場に互換性が・・・完全にではないが・・・あるという意味で)連続性を持った存在として捉えるべきだと考えている。

2 ピストリウスがパラリンピックで勝ち続けて、オリンピックにも出た事からも分かるように、パラアスリートの肉体的なアウトプットは一般的な「健常者」より明らかに上である。
 今本稿を読んで下さっている方の多くは、ピストリウスのように100mを10秒台で走る事は出来ないだろう(私は高校時代に12秒台だったように記憶している)。
 それでも「障害者」は等しく「かわいそうな」人なのだろうか?

 あるパラアスリートがスポンサードにされている企業に自己紹介文として次のように書いていた。
「〇□×で健常者と戦って3対0の圧倒的な判定勝利を収めました! 」
 この文面を読んでそのパラアスリート(以下、Bと称す)を賞賛したいと思う人がどれだけいるのだろう?むしろ、反感を持つ人の方が多いのではないだろうか。
 Bの戦績を賞賛する人がいるとすれば、次のような思考ロジックを辿っているはずである。
①「障害者」は「健常者」より劣った、あるいは、ハンデを負った存在である②ハンデを負いながら、優秀な「健常者」に圧倒的な勝ちを収めた③したがって、「健常者」同士の試合で勝つ事よりも、「障害者」が「健常者」に対して勝つことの方が価値がある。
 こういう思考ロジックは、3段論法にすらなっていないのだが、「障害者」自ら世間に対して、「障害者は健常者より劣った存在である」という一般的な「障害者」観に訴えるやり方は、「障害者」と「健常者」の対立を煽るだけで、「ノーマライゼーション」という理念に真っ向から対立している。
 
 このパラアスリートは、殊更に「健常者」に勝った事を強調しているが、負けた「健常者」としてはBのセルフプロデュースのダシにされたわけで、本当に迷惑な話だと思う。
 パラアスリートが全てそうだと言うつもりは毛頭ないが、こういう「障害」を売りにして、「健常者」を食い物にするような生き方に私は共感できない。

 人は誰しも(自由主義国家である限り)「自己実現」の権利が認められているのだから、パラリンピックを始めとする各種パラ競技が存在する事は、「障害者」の方にとって「自己実現」を追求する機会を与えてくれるから、(そうした機会すら存在しない場合と比べると)好ましい事だと思う。
  ただ、Bがそうであるように「障害者」が「健常者」に勝つというようなストーリーが賞賛される風潮が今後生まれるとしたら、私はこの流れに絶対に反対である。もしもこうした風潮が生まれるとしたら、「障害者」と「健常者」を対立した存在と捉える伝統的な「障害者」観を助長する結果になり、「ノーマライゼーション」という理念の実現の妨げにしからないからである。
 誤解を怖れずに言えば、Bのような存在はアスリートではなく、障害を売りにしたパラ芸人だと私は考えている。
 
 「ノーマライゼーション」の実現を目指すために、「健常者」の意識改革を促すのは間違ってはいないと思うが、「障害者」の中にその実現を阻む存在がいるという事も知っておいて欲しいと思い、本稿を執筆した次第である。
 
 


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