妻と夏の日
叶恵は父親の亡くなった後は独り住まいだった。家事を片付け、診療所の仕事を始め、それが終われば、片道一時間の道のりを歩いて本土へ向かい、公私ともに足りない者を揃え鞄一杯に詰め込み郷へと戻る。
「仕事の後で三往復することもあるんです。丁度あのときもそうでした。帰り道、あなたが倒れていたんですよ。びっくりしました。わたしが医者のはしくれでよかったですね」
叶恵は、──妻は、私のことをなじりながらも幼い笑顔を見せた。向日葵畑を歩きながら出逢ったときのことを話していた。今日は特に陽射しが強い。八月の終わりになっても、朝から夏らしさを感じる日だった。妻の麦藁帽子は顔を隠すように頭に載っている。その帽子の向こうには入道雲が広がっている。
「あのときは、崖に咲いていた花の写真を撮ろうとしていて。近くまで登ったはいいけど、足元の土が崩れてね」
「本当に危ないところだったんですよね。写真なんて無理に撮らなくても」
「うん。まあ仕事に使えるかと思って」
妻は職業柄、常に白衣を着ている。向日葵の花に囲まれて白い服を着た麦藁帽子の妻は、何だか絵に書いた美少女のようだった。近くの民家から風鈴の涼し気な音色が聴こえてきた。
「その帽子、やっぱりよく似合っているね」
私の言葉に頬を赤らめ、手を繋いできた。
「ありがとうございます」
妻と一緒になって三年間、私はこの郷での生活にとても満足していた。田舎らしい田舎で不便もあったが、すぐに慣れた。
なかでも郷の見せる自然の風景にはとても癒やされていた。都会で暮らしていた便利さばかりを享受していた頃に比べて、ひび割れた心が元通りに戻っていくような気がしていた。
水牛が遠くでのんびりと鳴いた。
「あなたはここへ来てから優しい目になりましたよね。水牛みたいな優しい目に」
「そうかな?でも喩えが水牛というのもなかなか斬新だね」
私は水牛の目の優しかったことを、この郷へ来たばかりの頃に妻と話したことがあった。それを覚えていてくれたのだろう。
「明日は診療所を休んで、ゆっくり過ごそう。良かったら海岸の方でも歩こうか。食事は僕が作るから」
「はい。楽しみにしています」
妻は繋いでいた手を強く握り直した。青く澄渡った空に蜻蛉が静かに翔んでいた。
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