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見えなかった部分が見えただけ

(普段は推しなんて言わないけどそう表現するのが1番わかりやすい気がするので推しと呼ぶ)

今日は推しのイベントへ行ってきた。私にとっては今年に入って初のイベントである。

楽しみはしていたのだが、実はここ2週間くらいは正直気持ちが離れていた(もちろん好きなので飽きたとか嫌いとかそう言うことではなく優先順位がちょっと下がっていただけ)。イベントを前にしてこんな気持ちになるのは珍しいのだか、私はいくら推しと言えども全肯定できるタイプではない(と思う)。正直『あーそういう感じですね(棒)』と思ってしまうこともある。それに加えて興味の対象が他に移ることで少し熱量が落ち着ついていた。でも気持ちが離れても結局戻っててしまうのだ。今のところは。

(日頃から推しが自分の思う通りに行動してくれないと言ってぐちゃぐちゃ言うファンにはなりたくないなと思っている。でもどうしても言いたくなってしまう最低最悪害悪ファンの一面が自分の中にチラッと顔を出すのが本当に嫌だ。)

推しに対する熱量が上がったり、下がったりする度に芦田愛菜さんの言葉を思い出す。


「『その人のことを信じようと思います』っていう言葉って結構使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」
「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思った(以下略)」


と言う言葉だ。
これは映画のイベントで話された内容なのだが、

『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』か。

まさにそうなのである。受け止められるか否か。推しに限らず人間関係ってこういうことで終わったりする。別に信じられないことが悪いことではないと思う。嫌になったなら嫌になったで仕方ない。逆にめちゃくちゃやばいことしてても『アイツのすることだからな〜めっちゃウケる』で済ませてしまうこともある。

その時の自分の状況や相手の行動によって受け入れられることもあれば受け入れられないこともある。その時は受け入れられなくても、時間が経てば気にならなくなることもある。

推しのことに関して言えば一時的に受け入れられないことがあっても、その発言や行動はその人の一部であって総合的に見た時にやっぱり私はその人のことが好きで、興味があって、応援したくなって戻ってきてしまう。なんて自分はチョロいんだろうなと思う。

今回もせっかくだからとイベントに向けて動画を観ていたら、結局面白いじゃん!となってしまっていたし、イベント自体もめちゃくちゃ楽しくて、こんなに幸せでいいのか?と思ってしまうほどだった。


では、私の見えなかった部分が見えた時、私の周りの人はどう思うだろうか。それでもいいと思ってもらえるだろうか。

私自身は自分の思う自分周りから見えている自分にギャップを感じることが多い(実際のところはわからないが)。

私は周りからの見え方を気にする方だし、人前では『ちゃんとしなきゃ』と言う気持ちが強い。本当はクズだけどちゃんとしなきゃと振る舞ってしまう私を素直に披露するのは難しい。もちろん滲み出てる部分もあると思うが。外で自分なりに気を張っている分、一人暮らしの家ではぐだんぐたんのぐでんぐでんなので、この姿を人に見られたらどう思われるのか本当に心配なのだ。

生きる理由は無いけれど死ねない理由はある。

部屋が汚すぎるので今は死ねない。

これに尽きる。今部屋に来られては困る。
私はこう言う人間なのだ。多分みんな知らないけど。

こんなは私でも私だと認めてくれる人は何人くらいいるだろう。見えなかった部分が見えても許してもらえるように日頃から表で徳を積んでおかなければ。

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