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THE 短編

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短編です
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平日の夜

平日の夜

 一回目のコロナが来た時に、安倍晋三の家に侵入した女がいた。私と同じ1993年産まれのその知らない彼女は退屈で醜悪なニュースサイトでは「逮捕されたくて入った」と報じられていたけど、別の記事では凶器と明確な殺意を持って侵入したとも言われていた。
 私はなんとなく後者じゃないの? と思った。

 それから一年か二年が経って、小僧を肩車して私は夕方の下北を歩いていたわけだけど、なぜかそのことをふと思い出

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赤い小箱が皆無の衒い

赤い小箱が皆無の衒い

 銭湯からの帰り道、路地裏の、電信柱が一本しかない暗い小道に赤い小箱が落ちていた。その前に突っ立った私は長いことそれを見つめた。見つめている間、夜風が吹いて髪が揺れたり、大きな鳥がゆっくり頭上を通ったりもした。

 それは牛乳石鹸の赤い小箱だった。持ってみると中身は空で、なのに箱の輪郭はしっかりと強いまま、「箱」であること、それだけでしかなくて格好良く思った。ホテルに持ち帰ると、窓のところに置いて

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安い包丁

安い包丁

 安い包丁を買った。安かった。安い包丁は合羽橋で買った。安い包丁はすぐに刃の部分がこぼれて使えなくなった。理由は安いからだ。安い包丁は最後のあがきで俺の指先を少し切ってから絶命した。不燃ゴミとして夜間の路上に打ち捨てられた。路上に打ち捨てられた彼は翌朝業者に引き取られると、ゆっくりのスピードで処理施設に運ばれた。人間の手によってまずは危険物として一旦脇に避けられ、そして破砕機に合流した。粉々になっ

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サーティーワーンの窓際の席

サーティーワーンの窓際の席

 どうして今まで誰にも言えなかったんだろうと思った。でもそれは簡単なことで、ただここの人たちが優しかっただけだ。
 就活に疲れ果ててとうとうもうどうでもいいやと思ったからどこか知らない印刷会社に面接に言って私はその話をした。「生活の中でどういう瞬間に喜びを感じますか?」と聞かれて、私はどうしようと唾を飲んで、「やっぱりお水飲んでいいですか?」と、「やっぱり」の意味はわからなかっただろうけど、ペット

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形骸化のフォーエグザンポー

形骸化のフォーエグザンポー

 一九九三年の朝五時頃に産まれた私は列を成してとぼとぼ歩く蟻の群れを見ては、その列に従わない蟻を必死に探す子どもだった。そんな蟻は一匹たりともいなかったのに。
 やっぱり逸脱の在り方についてばかり考えていた二十代前半、私は大麻を吸ったり筋肉ムキムキの知らない男とセックスをすることで時間をはぐらかしてばかりいて、目が覚めた時には下高井戸の駅から徒歩四分、日当たりがめっちゃ悪いワンルームで青の光に包ま

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きれいごとの実践

きれいごとの実践

 北方謙三の『三国志』を読むために図書室に行ったら、隣のクラスの三池さんがいた。いたっていうのは、そこにいたってことじゃなくて、入口近くにあったファッション雑誌の表紙が三池さんだった。あ、隣のクラスの人だ、と思って立ち止まってまじまじと見た。かわいい。付き合いたい。手を握ったり握られたりしたい。
 三池さんはなぜかいつもオーディオ研究会の人たちといた。オーディオ研究会という名前はもう名前だけになっ

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コーディーに教えるその後の話

コーディーに教えるその後の話

 1998年4月14日にはハイウェイ61を一台の真っ青なワンボックスカーが時速75マイルですっ飛ばしていた。そこに乗っていたのはでっかい腹を抱えて、窓の外を切っていく風の音にも負けないぐらいの大声で叫ぶ母と、汗びっちょりの手でハンドルを握り、「大丈夫だ!もうすぐ着く!」と叫び続ける父で、そうして俺は産まれた。俺だけが産まれた。コーディーは死んだ。双子だった。本当は。
 大事にしていたプテラノドンの

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水辺の暴力

水辺の暴力

 恋人がボクシングを始めた。
「なんで?」と聞くと、彼女は膝を立てたまま鯖の塩焼きを箸でほぐして、「別にいいじゃん」と言った。だから自分も、ああ、うん、としか言えない。
 百貨店の中にある靴下屋で毎日静かに、静かにかは知らんけど、働いている人が急にボクシングを始めることってあるんだろうか。いや、あったんだけど。
 何が書いてあるのか全くわからない詩集だったり、どこが良いのかさっぱりわからない格調高

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THE 短編①

THE 短編①

 「ガラスのコップにしますか?」と聞かれて「ガラスのコップにします」と応えた時、俺はそういう、言葉を鸚鵡返しすることに小さく喜びを感じていることに気付いた。新宿の駅ビルの中にあるコーヒー屋さんだった。昼の十一時二十三分。窓際のカウンター席について、青空の下で日差しを通り抜けながら歩いていく人たちを見て、告別式で清ちゃんとしたキスのことを考えていた。清ちゃんと清美ちゃんは恋人同士で、清美ちゃんが死ん

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