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1.17に想うこと


阪神淡路大震災から今日で28年。

僕はこの日が来る度に、あの当時のことを鮮明に思い出します。

あの時、あの場所にいた人たちのことを。

それを忘れないために、今日は今までで1番長い話を書くことにしました。
お時間の許す限り、お付き合いいただければ幸いです。

1995年1月17日20時ごろ。僕は倒壊した阪神高速道路の横を親友U君と2人、それぞれのバイクで疾走していた。激震地に居住している大学の後輩の生存を確認するためだ。普段は大阪から神戸までは1時間もかからないのに、大渋滞と瓦礫で道が塞がれているところが多かったので、いつもの3倍も時間がかかった。崩落した高速道路はまるで映画のセットのようにも見え、全然現実味がなかった。

やがて三宮の街に来ると、夜空が赤かった。幾つものビルが崩壊して道を塞ぎ、街はガスの匂いが充満していた。国道は動かぬ車で埋め尽くされ、多くの人々が逃げ惑っていた。

僕はこの世に今、地獄があるのなら間違いなくここだと思った。

やがて僕たちは後輩の家に到着し(かろうじて損壊を免れていた)、彼女の生存を確認し、60Lの登山用リュック2つ分に詰めたありったけの食料と水とガスコンロを手渡した。1週間は持つだろう。そして僕たちが大阪に帰ったのは午前3時を過ぎた頃だった。

それがきっかけとなり、その後僕は1ヶ月ほど、神戸市のとある避難所でボランティアをした。その地域は地震の被害が大きく、多数の倒壊した家屋があり、近くの駅も崩壊していた。

当時、僕はキャンプ・カウンセラーのボランティアをしており、その仲間達と避難所で被災者の支援活動をしつつ、近所の空地にテントを張り寝泊りしていた。おかげでボランティアの僕たちが被災者と勘違いされ、差し入れをもらうことは1度や2度ではなかった。

避難所ボランティアの主な仕事は朝夕の食糧配給(おにぎり・パンなど)、昼間は支援物資の仕分けと輸送、配給。他にボランティアの送迎、聞き取り調査。そして、倒壊した家からの盗難が多かったので、地域の夜回り警戒(夜警)を夜通し行っていた。

特に夜警はきつかった。夜、21時~0時・0時~3時・3時~6時の3交代制シフトで、特に0時~3時が一番眠く辛かった。基本的に男性2人1組なのだが、人手が少ない時は僕が一人で見回ることも多々あった。念のため、護身用に1mほどの鉄パイプを持って歩いていたのだが、そっちの方がよっぽど怖かったと周りの人は言っていた。すいません。

その避難所は、もともと地域の公民館で、家が倒壊した人たちが寝泊りしていた。地元ボランティアの中心は高校生で最初は20人位いた。配給の食料はトラックで朝4時か5時に届き、6時から配給が始まる。はっきり言ってきつい仕事で、当初はもっと人数がいたが、徐々にその数は減っていった。

残った彼らは避難所のガレージに寝泊りし、精力的にボランティアに取り組んでいた。早朝から深夜まで実によく働いた。最初は他所から来た我々を警戒していた彼らだったが、こちらも精力的に働いていると、やがて彼らの警戒心が解けてきた。

年齢が近かったこともあり(当時僕は20歳)、高校生たちは「さいとうさ〜ん」「兄貴〜!」と自分の兄のように慕ってくれた。僕はまるでたくさん弟ができたような気持ちになった。その中に一人、背の高い大人びた中学生がおり、彼はとても人懐っこく、僕は特に可愛がっていた。

中には家や家族を失った者もいたはずだが、皆、一様に明るかった。



そんな中、事件は起きた。

ある日、現場リーダーの親友U君は所用のため大阪に一時戻ることになった。

「さいとう、後は頼むわ」

小学生からの付き合いである。それだけで引継ぎは済んだ。そうして、僕がボランティアの現場責任者となった。

その夜、日付が変わろうとする頃であった。

同期のYさんが不安げな顔で僕のもとにやってきた。
「さいとうさん、A子知りませんか?」
「いや、見てへんが、ガレージにおらへんかったか?」
「それが、どこ捜してもいないんです。」
「それに、背の高い中学生の男の子もいないって・・・」

僕はマズイと思った。震災ラブか・・・?

この当時はよくあった話である。ボランティアをしているうちに、若い男女が恋に落ちるケースは少なからずあった。それにしても、大学生と中学生か・・・。おいおい、勘弁してくれ。

「まずは、俺が二人を捜しに出るよ」

後を同期のYさんに託し、僕はテントを跡にした。

次に僕は避難所のガレージに向かい、高校生達に事情を訊いた。彼らは全員まだ起きていた。
「あ、さいとうさん。あいつ、二人で夜景を見に行くっていったらしいんですよ。」
「何時の話や?」
「22時ぐらいですわ」
「何処に行ったか聞いてへんか?」
「いや、誰も聞いてへんのです」
「分かった。俺が捜しに出るから、皆はここに居ってくれ」
「いや、俺らも行きますよ!」皆、本当に彼のことが心配のようだ。
「ありがとう。でも、すぐ見つかると思うし待っててくれ」
「わかりました。連絡を待ちます」

僕は無線を持ち、避難所を出た。季節は2月、真冬であった。気温は0℃近い。そうそう長いこと外にいれるもんじゃない。

数日前、近くで夜間に人が刺された事件があった。火事場泥棒が凶行に及んだらしい。ちょっと、嫌な想像をしてしまう。僕はバイクのエンジンをかけ、夜景が見える六甲山の方へ駆け上がる。

しかし、あちこち探しまわっても二人の姿はみえない。さらに山を上り神戸大学まで行ってみたが、誰も居ない。一体どこだ??

真冬の澄んだ空気のおかげで、神戸の夜景がやたらと綺麗に見えた。

午前1時を回ると流石に僕にも焦りが出てきた。まだ、二人は帰ってきていない。避難所にもテントにも。

僕は、単独で捜索することに限界を感じ、避難所の事務所でみんなと相談した。避難所の責任者の方も偶然起きており、高校生たちも皆寝ずに起きて、カップルの帰りを待っていた。

「まだ、見つかれへん。すまんが一緒に捜してくれ」
「わかりました!さ、早く行きましょう!!」
「まあ、待て。」
僕は彼等をなだめ、状況を説明し指示を出した。
「連絡は15分ごとに事務所に入れること。必ず、二人一組で行動すること。捜索はこの範囲。二人を発見したら速やかに保護し、連れて帰る事。OK?」
「了解!」

10人が5グループに分かれ、捜索に出た。僕はバイクなので、単独行動だ。

「頼む、無事でいてくれ」

ただ、それだけを祈りながら、僕はバイクを走らせた。体は完全に冷え切ったいたが、そんなこと言ってられない。六甲山からの凍えるような風が骨身にこたえた。

午前2時。一向に2人は見つからない。時間が非情に過ぎただけだった。もっと、捜索範囲を広げるべきか、そう思い、一度非難所に戻ったところであった。

暗い夜道に二人連れの人影が見える。

まさか・・・。そのまさかであった。

一組の男女が何事もなかったかのように歩いてくる。僕の姿に気づいた二人はばつの悪そうな顔をした。

「事務所で待ってろ!」僕はそう二人に告げ、無線で捜索に出ている仲間に発見の第一報を入れた。そして、無線を持っていない連中を引き戻しに行った。

事務所に帰ると、A子と僕の同期のYさんだけだった。A子は事の重大さに気づいたのか、ただ泣いていた。俯いたまま、顔をあげることが出来ない。

「どれだけ心配したと思ってんねん。自分が何をしたんか、わかっとんのか?」僕は彼女にこう告げた。
「すいません、すいません、本当にすいません…」
彼女はただ、号泣して謝るだけだった。同期のYさんもホッとしたのか泣いていた。
「…明日も早い。温かいものを飲んでから寝ろ」
僕は彼女にそう言った。

僕は次に中・高校生がねぐらにしている1階のガレージに降りた。若者はみんな、そこにいた。輪の中心で、中学生の彼は真ん中の椅子に座りニヤニヤしていた。

何をニヤニヤしてやがる・・・。

兄貴は虫唾が走った。僕は温厚な性格なんだけど、久々に激しい怒りを感じた。

僕が凄まじい形相をしていたのだろう。若者達は後ずさった。無言で彼のもとに近寄ると、顔を近づけ僕はこう言った。

「お前、俺らがどんだけ心配したのかわかってんのか?こいつら、明日の朝早くから食料配給の仕事があんねん。みんな疲れてんねん。はよ、寝んとあかんねん。それでも、お前のこと心配して探してくれてんぞ!せやのに、お前は何、ニヤニヤしとんねん!みんな、お前のことなぁ、お前のことなぁぁ!」

僕は激しく怒っていた。周りの若者たちは顔面蒼白になり、硬直していた。

中学生の彼はようやく自分がしたことの重大さに気付いたようだった。
「・・・すんませんでした・・・」とボロボロと泣き出した。

「寝ろ!」

僕は皆を引き上げさせた後、誰もいない事務所に戻り独り、朝までそこにいた。

気が高ぶっていたのだろう。肉体は極度に疲労しているはずなのだが、全く眠気は襲って来なかった。石油ストーブに当たりながら何本も煙草を吸い、ようやく気持ちが落ち着いた頃には空が白じんできていた。

気がつくと僕は泣いていた。
静かに涙が流れていた。

僕は外の空気を吸いに外へ出た。近くを散歩しながら瓦礫の山と化した街の中でふと、僕はこんなことを考えた。

「彼らのような、若者の力になれるような仕事ができたらええなあ・・・」

そして、また一日が始まった。


2月の末、僕が避難所を去る時、若者達はみんなガレージに集ってくれた。
円陣を組み、何だかスピーチでもせねばならぬ雰囲気になっていたので、僕は彼らに餞別の言葉を述べた。

「おう、お前らが今やってることやけど、絶対ケツ割んなよ。最後までやり遂げたらきっと、お前等の人生の中できっと役に立つからな!」
「はいっ!」

僕はそう言い放ち、そして一人一人と握手をした。その中には、中学生の彼もいた。彼は「ほんま、すいませんでした。ありがとうございました」と半泣きで言ってくれた。

「じゃあな、元気で・・・」

僕ははバイクのエンジンをかけ、走り去った。バックミラーを見るとみんなが大きく手を振り見送ってくれていた。後ろ髪が引かれる思いだった。

そして、その後二度と彼らと会うことはなかった。



この話には後日談がある。

それから10年後、僕に一通の年賀状が届いた。当時中学生だった彼からのものだ。

あの出来事から10年経って、初めて彼から来た年賀状だった。彼は、臨床心理士になったらしい。

「あの時はありがとうございました。あんなに真剣に僕のことを叱ってくれた人は初めてでした。僕は今、心理カウンセラーとなりました。あの震災で僕たちを助けてくれた人たちのように、今度は僕が誰かの役に立ちたいと願っています」

そう、力強い字で書いてあった。

彼はきっと素晴らしい心理カウンセラーになっているいることだろう。



時の流れと共に、過去の記憶はどんどん風化していく。それは誰にも止めることはできない。

ならば、せめて薄れゆく記憶を文字に残せれば思い、僕はこの文章を書きました。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

2023年1月17日 斎藤宏一

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