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両親を亡くしたからこそ大切にしたい「毎日家族で食卓を囲む幸せ」地方からの挑戦!海外の仕事と家庭の両立

「16歳で両親を失いました」
人はいつ死ぬかわからない、という現実を突きつけられた幼い少年。
その後の人生は、どうなったのだろうか。祈るような気持ちで、彼に聞いた。

今回インタビューしたのは、海外事業部の吉岡康貴。
常に冷静で、計画的に粛々と仕事を進める。ビジョナリーなタイプが多いベンチャーには欠かせない存在。どんな経験でも自分の血肉にし、当たり前の幸せを何よりも大切にしている。

フィッシャーマン・ジャパン(以下FJ)には、様々な背景を持った人が働いている。どんな仕事をしているのか、どんな想いがあるのか、働き方や生き方を聞いていく。


両親を失った少年、向き合う現実

吉岡は10歳の時に病気で母親を亡くし、16歳の時に父を亡くした。父は、”ヨットで世界一周”という夢に向かう最中で事故にあった。
「人はいつ死ぬかわからない」という現実は受け入れがたいものだったが、祖母やその兄弟が、吉岡と兄を一生懸命育ててくれたという。

しかし、普通の高校生ならしなくてもいい相続の手続きなど、初めて経験するものの連続だった。親がやっていたことは全部自分でやらなければならない、そんな日常が待っていた。兄と協力しながら一つ一つと向き合い、辛いときは飼っていた猫に話を聞いてもらった。そうやって、半ば強制的に大人の世界で生きてきた。

お金へのコンプレックス

親の年金や、保険、無償の奨学金など、最低限生きていくためのお金はもらえた。しかし贅沢できるようなお金はなく、お金に対するコンプレックスはずっと感じていたという。お金って重要なんだと肌で実感し、「自分で稼いで好きなことができるようになりたい」と強く思うようになった。

稼ぐために、東京で働き始める

お金を稼ぎたいという想いから、起業や経営に興味を持った吉岡。大学卒業後は、東京の会社へ入社する。新規事業にも積極的に関わり、休日は勉強会に参加したり、スキルアップのために転職もした。
急成長する業界に身を置いていたこともあり、稼いだお金で好きなことができるようになった。「稼いでいる自分を勘違いしていた」と、当時を思い返す。

事業としてプラットフォームビジネスに携わる中で、都会にどんどんお金が吸われていくのを目の当たりにしたそうだ。しかも、始発から終電まで、休みなしという働き方が続いていた。仕事は好きだし面白かったが、「こんな働き方や、都会一極集中のビジネスばかりでいいのか」と漠然と感じていたと語る。

その頃に、東日本大震災が起きた。

震災後、復興を目指して地元でがんばっている同年代の人たちのニュースを何度も目にして、このままでいいのかわからなくなっていた。そこから、お金だけじゃない生き方って何だろうと真剣に考え始める。

生き方を探して、地元・宮城へ

「宮城に帰ろうかな」
そう思い始めた頃、大学の先輩の誘いで地方の新規事業に関わることになり、地元へ戻った。その後も地元で転職をする。しかし、東京にいた時のような結果が出ず、東京に戻ろうかと転職活動をしていたと言う吉岡。

都会で働いていた時は、ロジックやフレームワークを優先して、人の感情を抜きに淡々と仕事をしていた。とにかくスピード、効率重視。
しかし、地元に戻ってきてからは、「メールだけで済ませるな」「電話じゃなくて訪問すべき」とも言われた。

人間味を大切にする仕事の仕方も、大切だったのだ。意見を通すにも、通すための暗黙知による作法があり順番があった。社内政治なんて初めての経験だった。ロジックだけでは動かない現場で、今までのやり方を通して、痛い失敗を何度もした。仕事で泣いたのは、この時だけ。当時を振り返って吉岡は「私のことは、みんな気に入らなかったでしょうね。」と苦笑いする。

そんな時、「FJがプロジェクトマネージャーを募集している」という話を耳にする。

「地域がよくなる力になれるなら、やっぱり宮城の地域産業をよくする仕事がしたい。これでダメなら東京へ戻る。もう一度チャレンジするならここでやりたい。」そう思って「給料も最低限でいいから働かせてほしい」と頭を下げ、晴れて2017年にFJに入社する。

今までの失敗はするまいと、頭でっかちのことを言う前に、まずは現場を知ることを一番にした。入社して2年程、人手が足りなかった魚の卸の仕事を手伝うことになった。
朝4時に起きて、その日に獲れた魚を買って、お客さんのところまで運んで、利益をのせて売る。「今日の売上は10万だった!やった」自分の仕事が利益になるのが目に見えて、非常にやりがいが感じられ楽しかった。手書きの伝票をはじめ、もっとこうしたら効率的なのにと感じる部分もあったが、まずはやり方を踏襲することを徹底した。あっという間に魚も捌けるようになった。

海外事業部のミッション

2022年頃から、海外輸出へもっと力を入れるということで、海外事業部の仕事を担当する。その中で、「東北・食文化輸出事業協同組合」の事務局を任された。

日本の水産物の消費量は減少している。和食から洋食、より手軽な調理などが好まれ、2011年には肉の消費量に逆転された。人口減少がさらに追い打ちをかける。しかし、日本で獲れる魚は、世界で高い評価を受けている。FJが拠点を置く石巻や三陸で獲れる魚介類もまた、引き合いが多い。国によって多少異なるが、日本の水産物は、海外だと日本の小売価格の約3倍(輸出コスト含む)で取引されている。

日本の水産業を盛り上げるための一つの解は、付加価値の高い魚介類を高単価で販売すること。だからこそFJは、ずっと海外への販路を開拓してきた。

海外出張での商談風景。やはり直接会って話すのが一番。

ところが、いざ海外輸出しようとしても、一つの会社だけでは対応が難しい。販路開拓、ロット数や生産体制、貿易事務…様々な壁が立ちはだかるのだ。そこで、輸出組合として複数社が集まり、その組合事務局が各社の海外営業の窓口となることで、輸出を促進する仕組みを作った。

FJが事務局の仕事を担い、5年。最近では、東南アジアでの取引が順調に進み、現地にパートナーと呼べる企業も出てきた。その中で、新規開拓したタイ・バンコクへ、ホタテのコンテナ輸出にこぎつけるなど、みんなで何度も投げまくった竿が、ようやく当たり始めた。

現地のバイヤーを生産現場である石巻に招き、関係性を深める

海外事業部での吉岡は、既存取引先の受発注や輸出用書類の作成といった事務的なことから、展示会の企画、海外バイヤーを招待し生産現場のアテンド、現地に足を運んでのマーケット開拓までと何でもやっている。

海外ビジネスにおいて、多少の商品価格差は、為替や飛行機代なんかで一瞬で吹っ飛んでしまう。むしろ、輸出や税関に関わる手続きの方が圧倒的にコストがかかる。商品単価が数百円値上がりしようが、知ったこっちゃないくらいだ。そういう時に重要になってくるのが「信頼」。この人なら手続きも安心して任せられる、この人から買いたいと思ってもらえることが何より大事だったりする。「YOSHIOKAから買いたい」と思ってもらえるように、海外のネットワークを築いていきたいと語る。

タイのバイヤーたちとBBQ。同じ釜の飯を食べると仲良くなるのは世界共通。

日本は超高齢化社会で、これからの経済発展はなかなか難しい。そういう意味でも、外貨を獲得するというのは一つの解決策だと語る吉岡。東北で生産した付加価値の高いものを、海外に高く買ってもらうことを積極的にやっていきたいそうだ。

海外の人と仕事をしていると、どこか東京で働いていた頃の感覚に近いものがあるという。今シンガポールやドバイの人とよく仕事をしているが、彼らのギラギラしている感じは、嫌いじゃないらしい。

毎日家族でご飯を食べたい

今はほぼリモートで仕事が完結する。たまに海外に行くことはあるが、毎日家族で晩御飯を一緒に食べられる。料理や送り迎えも吉岡がすることが多いそうだ。「迎えに行った時の、パパきたー!と駆け寄ってくれるのがすごい嬉しい。そういう日常がすごいありがたい」と、家族の幸せを噛みしめているという。

仕事が終わらないときは、夜に残った仕事をすることもある。でも、基本的にプロジェクト単位で仕事を任されているので、自分でスケジュールが立てられる。会社としても、締め切りに間に合っていればいい。そんな裁量があり自由な働き方が、子育て世代の吉岡にとてもフィットした。

当たり前は当たり前じゃない

自分自身が親を亡くした年齢に子供が近づくにつれ、昔を思い出すことが増えたという。「もうこの年齢では親がいなかったな、、とふと思い出したりしますね。でも、両親から愛されていたなっていう実感もすごいある。子供には寂しい思いはしてほしくないから家族の時間は削りたくない。」と語る。

仕事も子育ても全力でやって、夜中に大好きなゲームをやったり、昼寝したり息抜きもする。最近娘の希望で飼い始めた犬のムーちゃんを膝にのせて仕事をすることもある。

「子供の頃の経験を経て、今あることがすごく得難いと思っているので、日々の時間を大切にしたい。みんな健康で、今のまま家族4人揃って大きくなったらいいなと思う」

吉岡は今、すごくハッピーだそうだ。

地方で、子育てしながら、海外に挑戦する

都会から地方へ移住したものの、うまく行かず都会へ戻ったという話も耳にする。吉岡も、最初は都会での仕事とのギャップに打ちひしがれ、東京へ戻ろうとしていた。

特に子育て世代の場合は、家族の時間が優先で、仕事を合わせられる職場で働けるかが、仕事選びの重要な基準だ。
地方でも、子育てしながら、活躍できる場所はたくさんある。

大きな災害や事故の報道を目にするたび、当たり前は当たり前じゃなかったということに改めて気づく。家族だけでなく、自分が大切にしているものを犠牲にせず、仕事に思いっきり挑戦できる、そんな環境を作っていくことで、チャレンジングな仲間が沢山集まる会社にしていきたい。

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