見出し画像

無償の愛はあるのだろうか

「無償の愛」という言葉はどのような意味があるのだろうか。

「無償」とは「対価を払わない」という意味であり、つまり「無償の愛」とは見返りや対価を求めず、ただ相手を愛するということである。

…そんなものって本当にあるもの?

家族愛

「無償の愛」という言葉をよく聞くのは、両親から子供への愛だろう。私はまだ子供を出産した経験がないので体感したことはないのだが、出産前のお母さんやお父さんは「とにかく無事に生まれてきて欲しい」と切に願う。

この願いは無償の愛に近いものなんじゃないかと思う。だって生まれてくる我が子に何も対価を求めていないから。

しかし、この赤ちゃんはすでにこの時点で両親に恵まれていると言える。私は、全ての人が、生まれる前に前述したような両親からの無償の愛に近い愛を受けているとは断言できないのではないかと思っている。誰もが望まれて生まれてくる世の中であっては欲しいけれど、現実はそう簡単にはいかない。無償の愛に見えても、男の子がいいなとか元気に生まれてきて欲しいなだとかの欲が混ざって愛の形が変形することもよくあることだ。

じゃあそのような人たちは、最初にあげた赤ちゃんに比べて愛されていないのかと言ったら、そうでもないとも思う。言い方は悪いけれど、望まれずに生まれた子供、と子供本人が思っている場合も、お母さんは出産をした時点で子供への愛を表現しているんじゃないだろうか。最初に述べた平和な無償の愛はなかったかもしれないけれど、自分の命を危険に晒してでも出産に臨み、子供に生を与えるというのはそれだけで愛だろう。逆に、生まれる前は「無事生まれてくること」だけを求められていた赤ちゃんも、やがては小さな子供となり、親の期待が与えられる場合もあるだろう。

少し自分の話を挟みたい。私の両親は、子供への教育は「投資だ」というふうに考えている口で、昔からたくさんの習い事をさせてもらい、小学校も私立に通わせてもらっていた。

多分、今から考えると、私は親に愛されていたのだと思う。けれど、おそらく彼らは愛の表現の仕方が下手くそだった。アレをしなさいコレをしなさいと言われ続けて、習い事では常に周りの優秀な子たちと比較して結果を出せと怒られた。幼い私の心情としては、この両親は私を愛していないんだな、という感じだった。

親は私からいつか見返りが欲しいからお金をかけて私を育て、投資をしているんだなと思っていた。両親が優しそうで愛されているんだろうなあという友達が心の底から羨ましかったし、何でこんな家に生まれたんだろうとずっと思っていた。世間から見たら自分はとても恵まれていたから、だからこそ恵まれているのに文句を言っているみたいで自分がとても嫌いだった。

また、小学生のころ、母の誕生日に誕生日カードを作って贈った。封筒の蓋を開けると飛び出す仕組みになっていて、それを妹と一緒に作ったのだ。それをあげたとき、母が喜んでくれるんじゃ無いかと思っていたが、まさかのとても怒られた。こんなものはいらない、こんなものしか作れないのか、私への感謝はこれだけなのか、もう家事をやらないぞ、とはちゃめちゃに怒られた笑 今から考えるとちゃっちいカードだったから仕方ないかなとも思うが、それ以来母の誕生日や母の日が苦手である。普段の家事や私の世話などに対して、感謝ではなく、物が欲しいんだなと幼いながらに思った記憶がある。それから、親に感謝するのが苦手になってしまった。見返りが求められているのだと思うと、毎年毎年今年はどうしよう?と考えすぎてしまい辛かった。自分は本当に愛されていないのだなあと思ってしまった。

しかし、ある時気づいたのである。自分の利益を得るための投資にしてはお金がかかりすぎじゃないか?ということにである。

つまり、両親が私に払った以上の金銭や余裕を手にするためには、私が相当稼げるようにならなければならない笑 そして、本当にそれを求めているのだとしたら、子供にそうとうな期待をかけている。いや、かけすぎている。

しかし私の両親は教育費がいくらだからそれを返せと言ってきたことは無い。え、何のために教育費を払っているんだ?と考えたときに、「これが私の両親の愛情表現だったのかも」と思い始めた。

子供は投資だ、というような発言を聞いたときは、なんて最悪な両親のもとに生まれてしまったんだと心底運命を呪った。

誕生日カードの件もそうだ。普通に考えて普段頑張って過程を支えているのに、もらうのが適当に作られたようにカードだけだったらイライラしてしまうだろう。しかし、見方を少し変えれば、やはり自分は相当恵まれているし、ちゃんと愛されていたのかもしれない。

けれど、それが本当に無償の愛なのかはわからない。子供に期待して投資をしている部分は少なからずあるだろうし、人間最初は無償で何かをしようとしても、それを相手に当たり前のように享受されたら見返りが欲しくなる物だ。つまるところ、この世の中に無償の愛なんてないんじゃ無いかということだ。そもそも無償の愛が欲しい、と思った時点で相手に「無償の愛」という名の見返りを求めている。

もちろん私の両親との間の話が誰もが共通するということでは無い。しかし、必ずどこかに愛は隠れているはず。しかし、それは無償の愛では無いかもしれない。でも、「「無償の愛」ではない愛」だって愛は愛である。そして、愛は隠れたところにある。

人間は、自分でも知らないうちに自然と何かを愛し、それを表現している。その愛の形や表現の形は複雑で、一見愛には見えない物も多いだろう。自分の人生を生きていく上で、物事を他人の物差しではなく自分の物差しではかれ、という大事なオキテがある。しかし、愛に関しては、他にもあるかもしれないが、自分の物差しだけで測っていては、うまく受け取れない。

結論としては、この世の中には誰から見ても「無償の愛」というものはほとんどない。「無償の愛」だと思って愛していても、いつの間にか無償ではなくなることが多い。けれどそもそも愛は愛だから、無償でも何でも誰かを愛せばいいんだと思う。そうすれば同じだけの愛がいつか帰ってくるだろう。(もちろん、愛を返してもらおうと思いながら愛するのはダメ!本末転倒)

そして子供は、案外賢く、そして幼い頃に直感で受け取ったものを少し大きくなってから分析して飲み込む。世の中の子供のいる全ての人が、嘘でもいいから子供を愛していると、伝えて伝えて伝えまくって、自分は愛されていたのだろうか?と分析し始める人を減らしたい。そのような分析をしている人にも、案外愛されていたかもよ、と伝えたい。

親や周りからの愛を感じるとできるようになること、それは自分を愛することである。この世の中に「無償の愛」があるとしたら、自分への愛じゃないだろうか。

気ままにnote更新しています どうぞよろしくお願いします!